第22話 「まほ、って誰の名?」

「ユーキ君のとこ?」

『用事があったんで、お邪魔していたんですよ』


 何の、と聞こうとしてハルは止めた。

 マリコさんはそういう言い方をした以上、「用事」としか言わないだろう。なら聞かない。別に自分はどちらも束縛している立場ではないのだ。本当にただの「用事」なのかもしれない。そうでなかったとしても―――


「じゃ明日朝ね」

『あなた方が飢え死にしては困りますから、なるべく早く帰りますよ』

「無理はしないでよ」


 受話器を置くと、まほがマリコさん? と訊ねた。ハルはうん、と短く言った。


「コーヒー冷めちゃう」

「あ、本当」

「温めなおす? あたしやるけど」

「あ、そうしてくれると嬉しい」


 少なくとも、まほはその名の妹同様、台所関係は自分よりはマトモそうだった。だが妹よりは腕は柔らかなような気がする。


「美味しい。よくいれてたの?」


 コーヒーを一口飲んで、ハルは訊ねた。


「うん。少しだけいれても美味しくなるやり方ってのをハウスキーパーさんに教わったから」

「へえ」


 ハウスキーパー。

 ということは、母親がいないか、母親という存在が家にないか、そのどちらか。

 ずいぶんな金持ちというのも考えられなくもないのだが、ここしばらく彼女と暮らしてきて、自分と大差ない程度だと推測できた。

 尤もハルだって一般から比べれは充分金持ちの部類なのだが。


「じゃあ料理もできる?」

「そっちはイマイチ。でもハルさんよりマシだと思うけど」

「こら」


 ハルは苦笑して軽くまほの頭をこづいた。二人は居間のソファに並んで掛けている形になっている。そういえば、とふとハルは考える。誰かとスキンシップをこんなにしているのは珍しかった。

 マリコさんはそういう質ではない。暑苦しいのは嫌いな人なので、なるべく距離を保っているのが彼女と上手くやるこつだと知っている。

 学校の友達は論外である。マリコさんあたりに配慮する程のこともない。だが男友達の場合はやや別で、ボディトークをする場合だってある。もちろんそれはある程度「好き」な相手だけで、夜だけであるが。

 妹はまわりの連中に比べれば、わりあいハルにくっついていた方である。

 だが、この家の人間は「我が道を行く」人ばかりということもあり、行動自体がばらばらであるのでそうそう物理的に「べたべた」できなかったということもある。


 では今の自分はどうしてなんだろう。


 考えてみれば、この子を「拾ってしまった」こと自体、それまでの自分を考えれば不思議なのだ。そしてその訳ありの子をこうやって家に置いていることも。


「マリコさん何だって?」

「電車が止まってしまったから友達のとこに泊まるって」

「へえ」


 まほは小首をかしげる。そしてつぶやくような声で、


「じゃああの人のところかなあ」

「え?」

「んー? こないだ来てたひと」


 この家に「来る」ひとは滅多にいない。


「ユーキ君?」

「名前は知らないけど。仲いいみたいだし」

「仲いい?」

「話の波長があってるな、と思った」


 それはハルも思う。自分よりもあの二人は会話に省略事項が多い。

 共通の話題、共通の単語、自分は知らないそれを彼らは持っている。最近それに彼女も気がついた。


「ふーん……」

「でも『ともだち』だよね」

「どうして?」

「わかんない」

「なんとなく?」

「なんとなく」


 だってあたしはハルさん達とつきあいは長くないもの。


 まほは思う。


 ユーキについてはまほは殆ど知らない。だが自分に対してさほど良い感情は持っていないということは気付いた。

 当然である。得体の知れない子である。

 もしも自分が彼の立場だったら、絶対にそういう子は警察に渡せ、と言うだろう。

 ユーキがハルのことを「好き」であるのは判る。そしてマリコさんが「ともだち」であるのも。ともだち、で悪ければ、「同族」だ。

 ただ彼女のボキャブラリイにはその単語が無かった。

 男だ女だ、を越えた、同じ目的を持ったただの友人。そう見えたのだ。

 ハルに対しては「女」じゃないが、何か「ともだち」より上のものを見るときの感覚があった。

 それはコトバの調子とか、仕草とか、彼女に対する行動一つ一つがそうなのだ。


 ハルさんは彼にとって「女王様」だわ。


 「お姫様」に対する「守りたい」感情はやや薄く、それでいて「仕えたい」様な相手。だったらお姫様よりももっと強い人はないの? 女王様かなあ。


「ねえハルさん」

「はい?」

「どーしてあたしを置いておくの?」

「うーん」


 特に意味はなかった。


「だってあたしがハルさんの立場だったら、厄介事なんて嫌だから、警察へ連れてくと思う」

「だってあなた警察に連れていかれたい?」


 慌ててまほは頭を横に振る。


「それはそれで、そうじゃなくて」

「変な奴でしょ」


 あっさりとハルは自分のことを評する。


「ハルさん」

「あたしにだって判らない」


 そう言ってカップを置く。


「理由を知りたくて、そうしているのかもしれないね」

「ふーん」


 納得した訳ではない。それじゃあまりにも他人事だ。自分自身のことを言っているようには思えない。

 が、まほはとりあえず納得したように言うしかない。

 ハルはそういう問いに対してはいちいち真面目に答える。少なくとも自分に対しては。そういう彼女が判らないというなら、それはそうでしかないのだ。


「それじゃもう一つ聞いてもいい?」

「はい?」

「まほ、って誰の名?」


 ああ、来たな、と思った。

 今まで問われなかったのが不思議なのだ。何の名前でもいい、という状態よりはずいぶん元気になったものだ。


「誰の名でも良かったんじゃなかった?」

「でも」

「それではあなたの本当の名は何というの? そっちで呼ばれたい?」

「ううん」


 彼女は慌てて頭を振る。


「それは嫌」

「どうして」

「嫌なものは、嫌なの」

「理由にならないよ」

「でも、嫌なの」


 ふう、とため息をつくとハルはまほの頭をかきまわす。あまり腰のない髪だ。くせが付きやすくて、取れにくいような。


「妹が、居たの」


 言ってしまってからハルは驚いた。過去形だ。


「妹が、マホという名だったのよ」


 まほはそれを聞くと反射的にハルの方を向いた。それだけ、とハルは形のいい目をこれでもかとばかりに開けている相手に答えた。


「ごめんなさい」

「別にあやまることではないわ」

「でも」


 驚いているんだから、という言葉を飲み込む。今までマリコさんに散々言われながら、そのたび否定していたのに。妹が「居た」こと。「居る」と言い続けていたのに。

 そして妹と同じ名で呼ぶ相手がすり寄って来るのを感じる。言うべき言葉を探して探して探して見つからないと、彼女はそういう行動に出る。

 言ってしまって、言わせてしまって悪いと思っている。

 だがそれを表現するコトバをまほは知らなかった。だからとりあえず、くっついてみる。

 ハルはまた頭をくしゃくしゃとかきまわす。そしてまほは安心するのだ。

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