第20話 たぶんピンクとレベッカとボウイ、そしてピストルズ
まほにとっては、不思議な感覚だった。
「誰が好き?」
レコード屋で「まほ」嬢にハルは訊ねる。
大きなレコード屋へ行くと、大手レコード会社は次第に塩ビ盤からCDに切り替えようとしていることが判る。だがまだハルの家ではCDプレーヤーはなかった。
「日本のはポップスばかり聞いてたから」
「ポップスねえ。日本のロック関係は知ってる?」
「ああ、少しは」
「趣味じゃない?」
「じゃなくて、あんまり『ロック』に聞こえないというか」
「なかなか言うね」
じゃあポップスもいいけど、とハルは言って、彼女に選ばせる。もう少したったらCDプレーヤーも買おう、とハルは思う。
きっともうじき塩ビ盤は消えていくだろう。CDはお手軽だ。少なくとも取扱いに気を遣う必要がない。だからこれから出る盤はCDを買おうと思う。
だがとりあえずは旧譜でいい。
「ポップスではどういうひと、聞いてきたの?」
「人…… というより、声だったの。何か、意味は判らなくとも、がつんとくる、というか」
「衝撃的な声」
「うん。だから、今の日本のロックなひとじゃ……」
彼女は何バンドかあげる。もちろんハルは知らない。
「このバンドは詞が伝わるの」
ジャケットには写真でなく、抽象的なイラストが入っていて、デジタルなロゴでバンド名とタイトルが書かれている。まずじゃそれが一枚、とハルは手にする。
「で、ここは詞の意味はさっぱり判んないんだけど、声がダイレクトにクる、というか。音は『不思議』な感じ。アジアかどっかの、音楽が混じってるような気もする」
今度は鎌倉の大仏か、古くからある石像をあおり加減のアングルで写した写真がジャケット。バンド名がショッキングピンクであっさりと書かれている。
「でもって、ここはどろどろしているな、と思った」
「何か重そうなのばっかりね」
「軽いのだったら」
と、女性ヴォーカルが飛び跳ねているような写真のジャケットを手渡す。それと、とヴォーカリストとギタリストが表、ベーシストとドラマーが裏に写っているもの。
「あたしはこうゆうトコロが好きだけど」
「ふーん」
「表舞台に出ている奴では」
「裏もあるって訳?」
「実際見に行った訳じゃないけど、東京とかだと、ライヴハウスとか、歩行者天国とかで、アマチュアバンド活動しながら、プロの手を待ってるんだって」
「へえ」
「あたしも聞いただけだけど。でも中には業界に汚れるのが嫌でポリシー持ってアマでやってる人もいるって」
「詳しいね」
「音楽雑誌を見るのは結構好きだったから」
だから実際どうなのかなんて判らないもの、と付け加える。
実際そうである。地方のロックファンというのは、悲しいかなどんなに知識として「知ってる」としても、リアルタイムにその場を体験している東京のロックファンとは、確実にズレがあるのだ。
もっとも、それが個性と言ってしまえば丸く治まるのだが。歓声や野次一つにも、地方差があるのだから、音楽感覚だって違うのが当たり前なのである。
とは言え、この頃音楽は完全な中央指向であり、現在も基本的には変わらない。情報の発信源がそこである以上、まずこの事態は変わることがないだろう。
そういうことを考えていたかどうかはともかく、ハルは情報はあった方がいいかな、と何となく思う。
「じゃあこれだけ買ってこう」
そしてハルはそう言うと、まほからジャケットを受け取る。そのままレジへ持って行こうとする彼女の腕を掴んで、慌てて訊ねた。
「ハルさん」
「ん? 何?」
「ハルさんは何が好きなの?」
「はい?」
「だってそれ、あたしが好きなのばっかじゃない。ハルさんはないの?」
「あたし? あたしは」
「ロック好きなんじゃないの? あの部屋ずいぶんロックがあった」
「……うん。一応全部聴いてはみたんだけどね」
どうも、イマイチなんだ、とハルは言う。
「確かにいい出来のものも多いのよね。スカもなくはないけど…… まあでも選んだひとがいいから、全体的には良く聞こえるのよ。でも」
「でも?」
「でも全体的に、よね」
細かい音ではなく、かたまりとして、一つの曲に聞こえはするのだけれど、クラシックの美しく流れる旋律、楽器のアンサンブル、展開また展開、という曲になじんできたハルには物足りなかったのだ。
いや違う。ハルは思い返す。たとえシンプルでも、強烈ならそれでいいんだ。
例えばバッハ。楽器の種類なんてあんなに少ないのに、どうしてあんなに綺麗な楽曲なんだろう。ショパンのピアノ曲。主旋律だけでどうしてあんなにドラマティックなんだろう?
せっかくドラムも慣れてきたところだし、何か曲を演ってみたいと思うようになってきたというのに、「何を」したいのか、どうにも掴めないのだ。
焦ることはない、とユーキあたりは言う。だけど自分が世間一般のドラム愛好少年少女とはどうも違ったパターンをたどってきているのをハルは知っている。たいていの少年少女がドラムをやろうというときは、まず憧れるバンドなりミュージシャンなりがあって、それからその中で最も自分が好きなもの、憧れるもの、恰好いいと思ったものにとりかかる。まずはコピーから。それが普通である。
ところがハルときたら、「はじめに楽器ありき」だから、その次にどうしたらいいのか、というのは全く雲を掴むようなものだった。
クラシックと違って、練習法も上達法も、次に何をしたらいいのか、もかっちりした法則はない。それがクラシックと違うところなんだ、と言われればそれまでだが、ハルにしてみれば、いきなり突き落とされた穴の中で、微かな光を探すようなものだった。
「だから、とりあえずあのレコードの山の中では、―――が好きだなあ、とは思ったけど」
「パンクは?」
「え?」
「ハルさんあのレコードどれ聴いてもいいって言ったけど、パンクが一枚もない」
「パンク?」
「もしかして知らない?」
ハルはうなづく。コトバとしては聴いたことがあったけど。そもそもハードロックもヘヴィメタルも最近聴いたばかりの、リスナーとしては本当に序の口なのだ。それも「あったから」聴いたにすぎない。
「もう一枚いい?」
「いいけど?」
まほは返答を聞くと、すぐに洋楽ロックのコーナーへと向かった。そして黄緑地に黄色の正方形、ややわざとずらして押されたような活字で「NEVER MIND」と書かれた一枚を持ってきた。
「それ、パンクの?」
「古典」
なるほど、と言うとハルはそれもまたそれまでに積んだレコードの上に重ねさせる。そして結構な重さになっているそれを軽々と持つと、さっさとレジへと向かった。
まほは変わった人だな、とそんなハルを見て思う。
とはいえ、まほもまた、わりあい裕福に育ってしまった子なので、さっさと買い物をしている、この職の一つも持っていないような女にあまり疑問を持ってはいない。そういう人もいるのかな、とあいまいに感じていた。
ただ、得体の知れない子にどうしてここまで構うのかな、という気はしていた。しないほうがおかしい。何処かへ通報したという感じでもないし、知り合いらしい青年には、「親戚」だなんて嘘までついている。
ついでに言うなら、自分の呼ばれている名がいわくつきだってことも気付いている。ハルはともかく、マリコさんは、どうも呼ぶたびに名前と「ちゃん」の間にやや間が空くような気がするのだ。気にしすぎと言えばそれまでだが、こんな不安定な状況の中で、気にしないでいることなんて出来ない。
誰かの名なんだ、と気付いてはいる。おそらくは自分の与えられた部屋の前の持ち主。
一気にそこまで推理できるほどに、目覚めてからこの方、彼女の頭の中はめまぐるしく回転していた。めまぐるしく回転させていた、とも言える。そうでもしないと、訳が判らなくなりそうなのだ。
幸い、ハルは毎日毎日彼女を連れ出して何処かへ遊びに行く。見たことのない街、見たことのない映画、見たことのない景色……
雨降りで外へ出て行くにはちょっと… という日には、彼女の部屋へ来て、あれこれとレコードや本の話をする。ときどきTVの特集番組をビデオに録ったものを見る。レンタルビデオ屋で洋画を借りてきては見る。何も考える暇を与えまいとするかのように、ハルは彼女で遊んでいるようだった。
まほのよく回る頭は、ハルが「自分で」遊んでいるようだ、と気付いてはいた。
だが悪い気はしない。今までそんなこと、誰もしなかったし、「遊ばれる」に値するほど自分が誰かに可愛がれたこともない。
それがペット的であろうと、お人形的であろうと、相手の視線が自分に注がれているというのはひどく気持ちがいい。それが暇つぶしで、いつかは飽きられるのかもしれないとしても、少なくとも今は、ハルは自分で遊んで楽しがっているのだ。
だったら別に誰かの身代わりでもいいとは思う。
「お待たせ」
そう言って肩に腕を回し、食事しに行こ、とハルはじゃれつく。
身長はハルの方があるので、ハルが彼女を抱え込んでしまうような恰好になってはしまうのだが。
初夏6月だから、もうそんなことされたら暑いに決まってる。
だけど、彼女は誰かの体温ってのは嫌いじゃない。
むしろ好き。寒いよりずっといい。冬は嫌い。寒くて寒くて、放っておかれたら凍えてしまいそうな気がする。だから夏は好き。どんなにうだるような暑さでも、ここは日本だから、汗をかこうと蒸しむししても、気持ち悪くても、凍えるようなことはない。赤ん坊は転がしておいても勝手に育つ。
「重くない? ハルさん」
「あたし力持ちだからね」
そう言ってハルは一人でレコード何枚かが入った手提げ袋を持つ。
甘いものがいいなあ、とハルは言う。いちごの大盛りパフェ、とまほは言う。
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