第6話 1987年、4月のはじめ。
「ハルさん夕食なんにします?」
と同居人の従姉が言う。何でもいいわ、と彼女は答える。
「何でもじゃ決められませんよ。せめて和洋中くらい設定して下さいな」
「じゃ中華」
「はいはい」
にこやかに、従姉はキッチンに立つ。二人だけで住むには広い家には、広いキッチンがついている。広いはずだ。かつてはこの家にはもう三人いたのだから。
「えびと青菜とカシューナッツいために卵スープをつけましょう」
「カシューナッツはくどくない?」
「あなたはもう少し食べたほうがいいんですよ」
と、医者上がりの従姉は言う。
両親と妹を乗せた飛行機が墜ちた。冬のことだった。
それ以来、従姉はこの家に戻ってきた。
勤めていた病院を辞めて、家事一般をひとまず引き受けている。
彼女が大学にいる頃はこの家に住んでいたから、勝手はよく判っている。何よりも、従妹は生活能力というものに乏しい。
やがて盛大な炒めもののノイズがハルの耳に入る。
その間を縫って、従姉が声をかけた。ハルは食堂の椅子にちょん、と後ろ向きにかけて従姉を見ている。ハルは料理が全くできない。一度手伝おうとしたら、キッチンが酷い惨状になってしまったので、それ以来料理はするな、という無言の鉄則が二人の間にあった。
「あ、そういえばハルさん、昼間電話がありましたよ」
「電話?」
「マホさんが注文したものが来ている、ということでしたけど」
「注文…… ってマリコさん、あの子何かしてたのかしら」
「楽器屋さんでしたけど」
「あ、じゃ安達楽器?」
「そうゆう名じゃなかったようですけど」
「……? 変ね。いつもあたし達はあそこを使ってたんだけど…… でもどうしようかしら…… もう要らなくなっちゃったし」
マリコさんは鍋を引っかき回す手を一瞬止めて、
「要らない、ですか? 認めなかったくせに」
「うるさいわねえ…… 認めないわよ。ええ。まだ見つかってないんだから」
飛行機事故の現場は、ひどく寒かった。
アメリカ北部の山中。そして確認したのは、二つの物体だった。殆ど判別できないほど焼けたそれは、見知った金のネックレスだの、焼け残ったバッグの中身だのでかろうじて自分の両親だと判った。
生存者は、たったの五人。その中の二人は帰国できなかった。
行方不明が二人。その中に妹がいた。
「見つかるまで、あの子は死んでないんだからね」
「判ってますよ」
マリコさんは再び鍋を引っかき回す。ある程度火が通ったら、ざらざらとカシューナッツとえびを大皿に空けた。
ハルは妹の死亡届は出していない。
マスコミが何か書き立てようとしたが、ハルはとにかく周囲の目から逃げ回った。
合同葬にも顔を出していない。近い親戚はいないが、遠い親戚でも、話を聞いてあちこちからやって来る。うるさい、と思いこそすれ、他の感情は持ち合わせたくなかった。
ハルは自分の感情が奇妙なくらいに無くなっていることに気がついたのだ。
自分が笑ったり怒ったりしていたことを思い出せない。論理的な判断は下せるが、それだけなのである。
そしてそんな従妹を心配して来てみると、案の定生活も健康も破綻していた。そしてマリコさんは勤めていた病院を辞めた。
マリコさんは病院勤め、と言っても看護婦ではない。医者である。
だが、彼女はこの家の人々には、何はともあれ、恩義があった。
古くさかろうが何だろうが、両親を亡くした自分を引き取って、金が異常にかかる医科大まで出してくれたこの家に。そしてこの家の人々がとても好きだった。
それだけで、理由は充分だった。
「でもマホさん、何注文してたんでしょうね…… だってもう春ですよ」
「正確に言うと、もうじき春の終わり」
「はいはい」
箸を出す前につまみ食いしようとするハルの手をぺん、と音がする程度に打って。
「何って、あの子ならヴァイオリンの何かしかないんじゃないの?」
「だってそれなら安達楽器でしょう? あなたがたの行き付けなんだから」
「んー…… 確かにそうなんだけど」
どうも、引っかかるのよね、とハルは付け足した。
「何って店だったの?」
「だから覚えて…… ああ、アカエミュージックとか言ってましたけど」
「知らんけど」
とりあえず食事にすることにした。何はともあれ、従姉の作る料理は美味い。ハルは伸ばしっぱなしにしている髪を無造作にゴムでくくった。
風呂上がりに職業別電話帳をぱらぱらとめくっていると、「楽器屋」の項目に、確かにその店の名前はあった。そしてページの1/4を占める広告も。
一瞬そういうページを覆う広告は、妙に見逃してしまう。角張ったロゴで「AKAE MUSIC」と書かれたそこには、一緒にギターやドラムのイラストがちょこちょこと載せられている。
―――こりゃそっちの関係か……
ハルは重い髪がずるずると落ちてきそうになるのをタオルで止めながら思った。
楽器屋と言ってもピンからキリまである。
自分たちの、クラシック音楽の関係ばかりではなく、ロックやポップスのも。ピアノや弦楽器、管楽器が赤い絨毯を敷き詰めた静かな店内に陳列してあるそれではなく、街角に肩を竦めるようにして立っていて、たいていは二階三階に小さなスタジオが入ってるような。
だーかーらー、それは判るんだけど。
それがどうして妹のマホとつながるのかが、彼女には理解できなかったのだ。
妹も自分も、音楽関係の学校に通っていた。
これは過去形。
行方の知れない妹はもちろんだが、彼女自身も、通っていた音大を二年で辞めてしまったのだ。
―――もうじき二十歳になる。
妹のマホはヴァイオリン、ハルはピアノをやっていた。
ほんの小さい頃から、彼女たちはそういう役回りで楽しくやってきて……
これからもやっていくつもりだった。
妹は今年の夏で十八になるはずだ。同じ音大を受験することに決めていた。ハルの卒業前に、同じステージに立つのが彼女たちの夢だったはず。
ねーさんはピアノでソロを弾くの。で、あたしはコンサートマスターね。
第一ヴァイオリンがその役をやるコンサートマスター。
何言ってんの。あたしがあんたと同じ舞台ったって、いくら出来たって、あたしが四年のときにあんた二年でしょうに。
だいじょーぶだもーん。あたし天才だから。
それは、本当だった、と思う。
たいていの楽器はこなしそうな才能は持っていたけれど、ねーさんと一緒の楽器なんてやーよ、といつのまにかヴァイオリンに決めてしまっていた。誰の助言も聞かず。
ぱっちりした目は人を見据えると妙に迫力があった。でもそうでないときは、くっきりした目の、綺麗な子だった。
女にしては、ちょっと背が高すぎるかな、という感の自分よりはやや小柄で、出るべきところは適当に出て、締まるべきところは適当に締まっていて。
まあボディは十人並みだったけど。
ただちょっと口が大きめで、その点が彼女自身は気にいらなかったようだったけど、ハルからしてみれば、「すれすれの綺麗」。
あと1ミリでも大きかったり、唇が厚かったりすれば、下品になってしまうところなのに、そのぎりぎりの線でとどまっていた。
そういうことを言うと、いつも相手は反論する。
ねーさんはいいのよ。化粧しないから、わかんないんでしょーけど、ねーさんちょっと色入れると、すげぇ美人なのよ? 判ってる?
そんなこと、知らない。別にキョーミもなかった。
だがさすがに、ちょっとそこに座んなさい、と言われるままにメイクされたら、鏡の中の自分にびっくりしたこともハルにとっては事実だったのだが。
そして自分は妹のことなら何でも知ってると思っていた。だけど。
記憶が勝手に掘り返されるときには、ハルはまたあの「からっぽ感」が自分の中をじわじわと食い始めるのが判る。
きっと今父親や母親の写真を見たところで、何の感情も起きないだろう。そう確信していた。あれは、もうただの物体になってしまったのだ。物体は、生命を持った人間には、戻らない。
確認してしまった死は、認めなくては先へは進めない。
―――気丈なひとですこと。涙一つも流さずにきびきびと―――
―――頭もいいし、将来はピアニストですって…でも女の子なのにねえ―――
両親の、私的な方の葬儀で、喪主は彼女だったし、それに一番近い親戚と言ったら、マリコさんしかいない。
きょうだいが少なかったらしい父親、きょうだいと仲が良くなかったらしい母親。葬儀に参列したのは会社関係と近くに住む遠縁だけ。その遠縁も、普段見たこともない人ばかりだった。
つまりは、ハルにとっては、「知らない人」に過ぎない。だが、その「知らない人」達は、妙に知ったかぶりで彼女の噂をする。彼女の両親の噂をする。亡くなってしまったから、彼らは客の中では「いい人」に変換される。果たして客の家の中ではどうだったのか。
だがそんなことはハルにはどうだっていい。どう噂されようが、生前の両親が、一族の中でどういうものだったのか、会社ではどういう者だったのか、そんなことは、ハルにしてみれば、関係ないことだった。
血のつながりはやはり必要だよ、と訳知り顔に、それでも弔問の親族の中では近い方の、父親の従兄が言った。だが、そんなことは、父親が自分の一族から離れようとしていたことの理由にはならない。
こんなことになるのなら、はじめから東京へ出すのではなかったと思っています……
顔も見たことのない母方の祖母の手紙。漢字よりもひらがなが多い。いったいいつの話をしているんだ、とハルは思った。少なくとも、それは、残された孫娘に言うべきコトバではない。
誰も頼る訳にはいかないではないか。
泣かないのが気丈だという。
きっと彼らのイメージの中には、両親と妹を亡くして、誰かを頼りたい呆然とした女の子があるのだろう。そうでなければ、真っ青な顔で、とにかく誰かの指図で形だけ喪主をやっているような。そして目の前のハルがそのイメージと違っていることに内心、落胆している。彼らは頼られたい。
だが、ハルは、誰かを頼るということが、大嫌いな人種だった。
そう育てられている。両親は、ハルもマホも、誰も頼ることなく、自力で生きていけるように、と教育したつもりだった。結果としては、ハルは音楽で身は立てて、食費は稼げても、食事は作れないひとになってしまったが。
まあいいじゃない、と陽気に父親は言った。
その分稼いで、いいハウスキーパーを雇えばいいんだよ。君に必要なのは、自分で食事を作ることより、いい料理人を見つける目のようだね。
しょうがないわね、と苦笑まじりに母親は言った。
でもせめてマホちゃんは多少はできるようになってよ、と。別に特別な料理が作れなくてもいいのよ。自分でお腹が空いたときに、冷蔵庫に入ってるものでありあわせのものを作れる程度でいいのよ。できた方ができないよりは生活が楽になるからね、と。
仕事が忙しかった父親。
でも、その楽しい仕事のことを、聞く子ども達に分かりやすく、どう楽しいのかをよく話してくれた。忙しかった割りにはよく一緒に食事にもでかけた。
母親はずっと父親に恋してた、と思う。いつまでたっても少女みたいなひとだった。
どっちかというと、ハルちゃんはお父さん似ね。だから大好きよ。
そういう母親に、マホはいつも、あたしは? とは聞いた。
お父さんが好きなお母さんに似てるから、マホちゃんも大好きよ。
もちろんハルは皆好きだった。
涙を流して彼らが妹が帰ってくるというなら、いきなりひょっこりと、ねーさん何やってんの、とあの綺麗な顔に似合わない毒舌が聞けるのなら、幾らだって泣いてやる。一生分の涙を流したっていい。
でもそんなのは、不可能。死んだ人は生き返ってはこないし、行方不明は行方不明。親戚の皆さん、あんた達は死んだひとたちを噂で呼び戻そうとしているの? そうじゃないでしょ?
ならやるべきことをするしかない。
ぴいちくぱあちく、うるさい。黙んなさい。
そうして感情抜きの視線を親戚諸君に向けたら、異常にびびっていたことが奇妙におかしかった。そしてまた新たな噂……
どうだっていいけど。
くっくっく、と含み笑いがもれる。その程度には感情も快復してきたらしいな、と彼女は思った。
1987年、4月のはじめ。
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