第3話 「今日でお別れです。お嬢さん」

 第二土曜の朝、着ていくものを選んで鏡の前に居ると、いきなりハウスキーパーは言った。珍しいことである。こんな時間にこのハウスキーパーが居るなんて。


「え?」

「今までどうもありがとうございました」


 彼女はブラシを手にしたまま、ハウスキーパーのハリマさんの両腕を押さえる。


「何で? 何かあったの? 何かしたの? それとも」

「いえ、どうやら私の役目はもう要らないらしいと」

「母様が?」

「お嬢さん」


 ハリマさんは四十代後半の女性で、結構長くこの家に通っていた。ハリマさんは全く自分と話そうとはしない母親よりも、ずっと彼女と会話も接触も多かった。

 彼女はハリマさんの両腕を掴んで、揺さぶり、同じ問いを繰り返す。そして同じ反応が返ってくる。答は判っているけれど、それを口には出さない。

 何度か繰り返した後、彼女は腕にかけていた力を緩めると、


「そうなのね」

「……」


 ハリマさんは無言でうなづく。彼女はため息をつく。ああ、またか……


「判った、ごめんね。十分な退職金はもらった?」

「はい、お嬢さん。心配かけてすみません」

「元気でやってね」

「はい。お嬢さんこそ……」


 彼女は目を伏せて、ハリマさんの手を握ると、


「一つだけ聞いていい?」

「はい?」

「あなたの本当の名は何?」


 ハリマさんは一瞬目を大きく広げると、低い声で問い返した。


「知っていたんですか」

「ううん」


 知ってはいなかった。だけどかまをかける程度には気がついていた。

 この人も、まえの人も、そして彼――― サカイも、自分に呼ばせるその名前は本当の名ではない。

 だが今までそのことについて尋ねる気はなかった。何故なら、その理由が自分の予想していたことと同じだったら。


「でも、考えたら、判ってしまったのよ」

「お嬢さんは頭のいい方ですから」

「そんなこと、何になるっての?」


 彼女は顔を伏せて、やや自嘲気味に笑った。ハリマさんは握られた手をそっと放すと、


砂原教子サハラキョウコと言います。でも忘れてしまってください。いいですね」


 彼女はうなづいた。「ハリマさん」こと砂原教子は無言でお辞儀をすると出ていった。音一つ立てずに。

 砂原教子が出ていったあと、室内は奇妙に無音になった。

 もともと防音がよく効いている部屋だったが、会話していた人が消えると、急に音はその色を無くす。耳の奥でキ…… ンと微かな音が響く。それだけだった。音楽を大音量で聴きすぎなんだ。彼女はふとそう思う。やがて耳なりはプツンと、スイッチを切り替えたかのように止んだ。

 妙なくらい、何も感じなかった。ただ、音が一つ消えただけだった。

 以前、音が一つ加わったのは、「ハリマさん」と「サカイ」が加わった、その二回だけだった、と彼女は思う。それ以前の記憶は薄い。だが、これから先、音が幾つ加わるか、それは全く想像ができなかった。

 彼女は三日先のことも、本当は予想できなかったのだ。その場に自分がいる保証はまったくなかった。

 ではその時自分はそこではない何処にいるのか、と問われたら、それはさらに予想がつかなかった。

 それ以前に、彼女には、自分がここに居ること自体に実感がなかった。

 毎日、何事もなく日々が過ぎていく。別に心が浮き立つような楽しいこともないが、涙がこぼれてくるような悲しいことも悔しいこともない。喜びも悲しみも怒りも、何処か遠い国の誰かの話にしか思えないのだ。サカイは自分と居て、さぞつまらないだろうな、と彼女は思う。

 それでも、「ハリマさん」や、サカイがいる時は、少しは感情らしきものもある自分に気付いた。とはいえ、それが一般的にいう、「楽しい」とか、「悲しい」であるか、それはやはり判らないままだったのだが。

 だが、彼女にもただ一つ実感として判る感情があった。もちろんそれはほんの時折にしかないが。「恐怖」である。色で言うなら、「白」。

 再び鏡の前に座る。ぼんやりと、半ばマヒしたような思考が走る。何を着て行こう。

 クローゼットには、割合沢山の服がある。彼女は結構多めの小遣いをもらっている。そして、その金額は、有名なブランドの木綿のひらひらのワンピースを毎月買って、そのお釣りで好きなLPレコードを何枚か買い込むのに充分なくらいだった。

 頭の芯がぼんやりしている。今話しかけられても、きっと他人ごとのように自分は返答をするだろう。そう感じながら、彼女はなんとなく、めまいの前兆のようなゆらゆらする視界の中、白のワンピースを選んでいた。そしてそれに淡い黄色のカーディガンを組み合わせて、一輪のコサージュをつける。

 このブランドの有名な色である「赤」は、妙に今、着る気にはなれなかった。



「あ、新しい服ですね」


 会うなりサカイはそう言う。彼に会ったとたん、こわばっていた頭の中が少し溶けるのを感じる。彼女はそお?と気のないように返事をする。内心、ふとこぼれそうになる笑みを押し殺しながら。


「ご希望の陸サーファーを見るなら、結構見晴らしのいい所を知ってるんですよ」

「何処だっていいよ。あたしあんまり知らないから」

「そうですね」


 カーステレオからは無性に明るいメロディが流れている。あ、あの――― だ、と彼女はすぐに気付く。この声はそうそう聞き違えるものじゃない。

 それじゃわざわざ探したんだ。昨日会った時にはまだ彼はアーティストの名すら知らなかったのを思い出す。3rdアルバムだ。「NIGHT WAVES」。彼女の中で奇妙な暗雲が薄くたなびきだす。このアルバムの中の曲は、耳で流している分なら充分以上ポップなのに、耳を澄ますと、不安が混じっている。

 歌詞のせいだ、と彼女は思う。どの曲にもさりげなく漂っている、「何もかも捨てて楽になりたい」という気分が、そのポップなメロディのせいで、知らぬ間に心を染めていく。「ビートの中のスローなスーサイド」。


「買ったの?」


 信号待ちで彼女はこれ、とテープケースを指して言う。まだこの頃の主流はレコード盤だ。CDは普及していない。そうでなければミュージックテープという奴だ。


「とりあえず、ですからね、ちょっとレコードを買ってからダビングする暇が無くて」


 とりあえず、でわざわざ買ってくる訳ね。彼女は流れてくる曲に耳を傾ける。A面分が終わる。聴いているうちに重くなってくる感覚に、取り替えてもいい?と彼女は4thアルバムのテープを引っ張り出す。

 テープは途中からになっていた。何の曲を聴いたあとだったんだろう、とかけ始めてからインデックスを見る。彼女も好きな曲だった。


「あ、これか」

「はい?」

「サカイもこの曲、好きなの?」


とその曲のタイトルを挙げる。


「好きなのかどうかは判りませんけれど…… 気がつくと、繰り返しかけてますね」

「それは一般的に好きだって言わない?」

「そうかもしれませんね」


 どうしたんだろう。彼女は次第に不安になる。サカイの答はいつもよりも気が抜けている。何か他のことが気に掛かって仕方がないように、彼女には見える。おニューのワンピースにすぐに気付いた彼なのに。

 街中を抜け、次第に車の数も減ってくる。点々と見えるのは高く回る国道ぞいのレストランの看板や、どこそこまで何キロ、とか書かれている青いプレートばかり。

 やがて、海が見えてきた。そうするとまた車の数が何処からともなく、増えてくる。


「やっぱり土曜日だもんね」

「でもあの半分が陸サーファーなんですよ」

「やーだー」


 結構景色がいい、と彼女はそのあたりで思う。だけど、サカイはさらに遠くへと車を走らせていく。何処まで行くんだろう、と彼女はふと不安になる。やがて、わき道に逸れると、他の車の姿は全く見られなくなった。

 道はない。そしてその道の終わりで、彼は車を止めた。


「サカイ?」


 彼はハンドルにつっぷして、黙っている。その様子が余りに深刻なので、彼女は声一つ掛けられない。でも。


「どうしたの? ここが言ってたところ?」

「ええ」


 エンジンを切る。それまで鳴っていたカーステレオの音も一緒に消えた。


「何かあんまり、景色ってほどの」

「でも、終点なんです」


 それほど高い所でもない。海に近い所ではあるが、あと数百メートルも西へ向かえば、大きなホテルや、別荘がちらほらと建つ所もある。リゾートと生活の中間地点のようなところだった。


「でも、終点なんです。あなたの」


 全身に、悪寒が、走った。

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