第2話 山下達郎と佐野元春とスターダスト・レビューと織田哲郎。

「ナイト・フライっていう曲ですよ」


 彼は答えた。


「夜に翔ぶ?」

「タイトルには『夜翔』とありましたがね」

「へー… 判った、あのひとでしょ」


 特徴のある声。すぐに判る。


「こないだ買ったアルバム。聴いたことはありますか?」

「ううん、まだ。出たばかり…… じゃないよね」

「結構前のですよ。三、四年前ってところかな」


 彼はいろいろな日本のポップスをよく仕入れ、その都度彼女に聴かせる。たいていは彼のカーステレオに入れたテープである。

 彼は「サカイ」と名乗った。

 この近くの国立四年制大学の学生だと言う。母親から自分の家庭教師を言いつかったとのことである。何でも、彼の父親が彼女の母親の部下だということで、その紹介だということだ。

 何をいきなり、と言う感はあった。母親が自分の成績のことまで気にすることがないのは判っているし、これもただの時折起こる気まぐれに過ぎないのは判っている。もしくはただの気まぐれであってほしいと思う。気まぐれでないときの方がよっぽど恐い。


 高校に入ってすぐ、彼は自分の前に現れた。

 週に二、三度部屋へやってきて勉強をみてくれる。月に一、二度週末には車で何処かへ連れ出してくれる。

 横に並ぶと彼の肩が彼女の頭くらいの身長で、こざっぱりとしたスーツ系の服が好きで、声はやや低めに、甘い。顔は十人並だと思ったが、優しくて、しかも頭もいい。高校の時はスポーツ系だったらしい。

 まるで雑誌の「恰好いい男」のサンプルじゃないの、と彼女は半ば冷静に観察していた。

 だが、それはそれとして、彼がやってくる日の中で、日曜とか祭日の、自分を連れ出して何処かへ一緒に行ってくれる時なんかは、どうしても自分がいつもよりも可愛いブランドのワンピースを着込んでしまうのにも気付いている。

 何なのよ一体。そう思っても、答は知れない。

 理性で考えれば、自分はある程度、このファッション雑誌の「シティボーイ」欄に載っかっていそうな彼を、結構好きだ、ということは理解できる。だが、そのあたりがよく判らなかった。


 好きという感情が、どういうものなのか、よく判らない。


 自分は、好きなものには、もっと突き詰めて好きになるタイプじゃなかろうか、とは思っている。少なくとも、読む本の中で、シンパシイを感じるのはそういうタイプのヒロイン。

 だから、こんなふうにふわっと、「何となく」で始まる感情なんて、知らない。

 五月の第二金曜日。とりあえずこの日は、「お迎え」に来た車の中だった。


「何てタイトル? アルバムは」

「MELODIES」

「ふーん」


 彼女は車の窓を少し開ける。


「今度ダビングしてあげますよ。こないだのはいかがでした?」


と別のアーティストの名を出す。しばらく前にN・Yへ行って、帰ってきたらいきなりサウンドが違っていたシティ・ロックアーティスト。


「二枚目と三枚目が良かった。四枚目は聴く側のこと、考えてないってかんじ」

「趣味に走った、という感じはありましたね」

「でも、趣味ばっか、だったらいつかは消えていくんじゃない?」

「そうですね。でもきっと彼はそうならない」

「どーして?」

「彼は頭がいいし、社会人経験者だからですよ」

「それは初耳。社会人経験してると強いって訳?」

「学生時代なんて、ぬるま湯のようなものですよ」


 珍しく、サカイは断言する。彼女はしばらく黙って、特徴のあるヴォーカルを聴いている。

 よく伸びる声は日本人離れしているし、他のアルバムに入っている多重録音のアカペラはヘッドフォンで聴いたとき、身震いがした。とりあえず現在かかっている曲は、さほど装飾はかけられてないけれど、気持ち良かった。


「この曲は好きだな」

「ナイト・フライですか?」

「うん。気持ちいい。初夏の夜っぽい」

「今の季節ですか」

「そおね。でも夏だけのひとではないでしょ? 確かに夏な曲多いけど」


 彼はそれには笑って答えない。


「あなたの方は、どうですか? 何か面白いアルバムはありましたか?」

「去年か一昨年、カルピスのCMに使ってた奴」

「ああ、あのグループですか。確かにあのグループのヴォーカルはいい声ですよね」

「気持ちいい声だよね」

「何処が気にいりました?」

「だだっぴろいの」

「は?」


 それでね、と彼女はサカイの疑問は無視したように続ける。


「あれと…… の…… ってアルバムが妙に似た感覚で引っかかってて」

「誰ですって?」


 やがてポップス界最高の売れっ子、彼が曲を提供すればまず大抵売れる、と言われるようになる彼も、まだこの頃は、知っている者も少なかった。高校生百人したとして、その中の一人が知っているかいないか…… そんな時代だった。

 彼女は肩をすくめる。やっぱり大学生でも知らないんだ。


「金色が空を覆うとき――― てのがあってね。歌詞の中に」

「夕暮れ?」

「とは限らないとは思うんだけど。ただカルピスのも、―――も、どっちも、すごく広い所が浮かんでくる」

「広いところ、ですか」

「広いところって、好きだもの。閉じこめられてるの、嫌い。息が出来なくなりそう」

「そうですね」


 交差点で、信号は赤。


「明日暇?」


 助手席の彼女は、唐突に言う。


「何処かへ行きますか?」

「行こう」

「何処がいいですか」

「陸サーファーをからかいにいこう」

「そうすると帰りが夜になってしまいますよ」

「昼間のうち! いいでしょ」

「いいですよ」


 彼はあっさりと言った。そういうだろうというのも判っている。判っているから、言う。無理なことなど、絶対に口には出さない。

 でも、彼と会うまで、そういうものの頼み方なんて、知らなかった。それで言うことを聞いてくれる人がいるなんて。ひどく不思議だった。


「したいことは、ありませんか?」


 それが最初に会った日、帰り際にに彼が彼女に言った言葉だった。


「俺にできることなら、しますよ」


 きょとん、と彼女はしていた。意味をしばらく考えているようだった。やがて、それが言葉通りの意味なのだと理解すると、おずおずと、いいの?と訊ねた。いいですよ、と彼は答えた。

 彼女は基本的には無理な頼みはしない。考えたうえ、相手に可能に範囲な頼み事しかしない。それさえも、ようやく最近定着してきたところだ。


「じゃ昼ね」

「あなたの好きな時でどうぞ。『MELODIES』のテープも忘れずに持ってきますよ。クリスマスの曲であなたの好きそうな奴が入ってましたから」



 その日は帰ってから勉強だった。

 彼女はたいていの教科も平均的に出来る。ただ、やや文系の方が強いかな、という感はあった。

 サカイは確かにいい大学の学生らしく、知識が豊富だった。その知識の中でも、音楽関係は特に豊富だった。彼女の音楽の好みは彼の影響が非常に大きい。だがそれは主にポップスだった。


「ロックは聴かないの?」


と以前尋ねたことがある。すると彼はひらひらと手を振ると、


「ちょっともうおじさんですからね」


 何を言ってるんだ、まだ二十代になったばかりだろ。そう言おうと思ったが、よした。所詮、そう言ってしまっているということは、本人がそう思いたがっている、ということだから。

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