ホント
七山月子
●
ハイボールを飲んだら、気泡がしゅわりと上がっていくのに見惚れた。
生まれてのぼりつめてパチリと浮き上がりきって消える寸前に少し大きくなる気泡が、愛おしいとさえ思った。
ひとつ消えたらまた生まれる。ひとつ生まれたらまた消える。
「まるで人生のようじゃないか」
隣に腰かけたこざっぱりした髪にスーツのよく似合う龍が私を面白がるような目つきでからかった。
「美香子は本当に昔から変わらないね。不思議な人だ」
そう笑う癖に、こんな話に乗っかってくれる人は龍以外に居なかったりする。
人はみな、変わったものを毛嫌いする。それは自分と形が違うものを恐怖するから。忌々しいきもちになるくらいに、自分の形にこだわっている。
だから私みたいな変わり者というのは、省かれてしまう。除外されてしまう。憎まれさえも、する。
本当の自分なんてきっと出せずに死んでいくだろう。龍にだって、母にも、父にも。
朧月夜が、美しいと感じたのは、大人になって少し経ってからだろうか。
龍が社会人になって、私も一人で暮らすことを覚えた頃。
ちょうど恋をしていたように思う。
江田さん。
好きだった。この人無しでは生きていけないと思って、結婚すら迫った。
そんな時の夜、窓を開けたら朧月夜が空を支配していた。
「どうやら恋に落ちたらしい」
呟きながら日本酒なんぞを猪口に注ぎ、霞んだ王様がレースの雲を脱ぎ捨てるまで、見つめていたくなった。
美しいものを見るのは大好物で、昔から美しいものを探し歩いていたが、それはクラスメイトの誰にもわかるものではなく、龍がいうには、
「わかりづらいものが、美香子の好みなんだね」
だそうだ。
ではわかりやすい美しさというと、なんなのか。私にはそれこそがわからなかったが、近頃少し、わかってきた。正木さんが、私を抱いた時に、私の胸の上で吐いた。苦しそうにしている正木さんが、美しいと思った。
きっとこれを正木さんに伝えれば怒り出すだろうというのはわかったので、シーツを変えて手を洗って正木さんが落ち着くまで抱きしめていたら、
「私たち、別れましょう」
と喉の奥から勝手に出てきたのだった。
自分というものがわからない。
私が自分を察知する時は、大抵、いじましい気持ちになった時ばかり。
龍が臭いと言いながら食べた銀杏に、激しく同情と憎しみが募った時。
母が洗面台に置いた歯ブラシが、忌々しく見えた時。
醜態をさらした教師。窓ガラスに落ちた鳥のフン。ビールの苦味と美味くない夜。
傲慢になった人の顔が面白いと思った時。
私とはなんだろうか。一体、自分のことをどれだけわかっているのか。わからないのか。
いじましく、小汚く、ついには吐き出すこともできず仕舞い。
江田さんは、そんな私でもいいと言った。
タオルで顔を拭いて鏡を見たら、江田さんを思い出したので日曜なことをいい事に、朝早くから公園に呼び寄せた。
てんとう虫のモチーフオブジェの中で、キスを繰り返した。熱い吐息が唾液の湿っぽさを含み、外気に触れていく。キスが充満して漏れた熱気が私たちの周りに追いやられる。中心だけがただ熱く、芯が硬く、重く、痺れた。
江田さんは私の全てだ。そう思った。
抱き合うと気持ちが溶け合って混じり行く心地になった。私と江田さんは、よくこんな話をする。
月が綺麗な時ほど、生きていて良かったと思う。へえ、そう? そう、おれはね、毎日毎晩出てくる月が憎くて好きなんだ。朧月夜の日は安心する? する、隠れているからね。じゃあ、満月になると? 月が満ちるとおれは、心臓が縮こまる、あれが頭のてっぺんに張り付いて、どこまでも追いかけてくる気がして、どうも恐ろしい。そうなの、私はね、江田さんの好きなものは好きよ。美香子は自分がないな。そんなこと、ない。ある。キスして。いいよ。
いつだって、自分のない私を演じてきた。これからもそうするだろう、たとえば江田さんが赤がいいと言ったら青がよくても赤を選ぶし、江田さんが許すものには尽くすだろう。
そんな覚悟の上で、結婚がしたくなった。
結婚というものは未知である。我が家の母と父は仲が良く、50過ぎても手を繋いでいた。幼少の頃はいつかは私も母のようになると思っていたし、父のようなお婿さんが欲しいとさえ思っていた。
全てを信頼して全てを受け入れてくれる、そんなお婿さんが私にもきっとできると勘違いしていたのだ。
「結婚がしたいの」
江田さんの家はカモミールの匂いが立ち込めていて、蒸し鶏にされそうな気分になった。窓をほんの3センチ空けてみたら冬の寒い風が入ってきて、ちょうど良かった。
トマトを切ってきゅうりも切ったあと、フリルレタスを千切っていた時に言った。
でも江田さんはこちらを見ない。新聞から顔をあげず、私に背中ばかり見せる。
「結婚、しない? 」
私が繰り返すとようやく、江田さんがこちらを振り向いたが、その表情には予想だにしていなかったものがあった。恐ろしい、という表情だった。私に怯えている。
「ごめん、聞こえなくて」
早口で言って、江田さんは新聞に戻ったが、肩のあたりから緊張が感じられた。
私は開いた口がふさがらず、呆けてしまった。たったふた文字に、こんなに力があるということにその時気付いたのだった。
だから嫌だったんだ、と思った。
だから私はふつうじゃないと忌み嫌われる。
結婚にそんな力強さがあるなら、先に誰かが教えてくれてもいいのに、と思った。
だから江田さんとはお別れをした。
タバコを覚えたのは20歳の時だった、それまで優等生だった私は、すぐるくんと出会ったのだ。
すぐるくんは年下の男の子で、「いいじゃんべつに」が口癖だった。
すぐるくんは人に口出しをされることを一等嫌い、私もそれを察して言わなくなった。
最初は地元の小さな喫茶店で会った。コーヒーのストローを噛み締めながら、
「あー、タバコ吸いてえ」
とすぐるくんが言い出したのがきっかけだった。
「美香子さん、タバコ吸わないの? 」
「うん」
「タバコ、いいよ。吸おうよ」
「そう、吸ってみようかな」
害ばかりあると聞くが、吸ってみればなんのことはない煙だった。
煙を知ってからは、すぐるくんに夢中になる速度と同じ速度で、夢中になった。
それからすぐるくんは程なくして姿をくらまし、私にはタバコの煙だけが残ったのだ。
何度恋をすれば、私は私になれるのだろうか。
秋人さんと、出会った。
龍の友達の秋人さんは、すぐに私に入ってきた。私の、心を踏みにじるように入ってきた。
龍が、
「友達に美香子のこと話したら、会ってみたいって言うんだ」
なんていうから、
「どうして私に興味を持たれたんですか」
なんて秋人さんに尋ねてしまったのが、おわりの始まりだった。
「僕は、人間が好きなんです」
そんな一言で、私は落ちてしまったのだ。
恋なんて今までしてきたのだろうか。
これが初恋になるのではないだろうか。
秋人さんは毎週土曜日になると、私に連絡をくれるようになった。
「今日、会える? 美術館へ行きませんか」
素っ気ない文章で、必ず会おうとする。文章のやりとりが苦手なんだろうかと思いながら、
「どうして会う約束ばかりするんですか」
なんて訊いたら、
「会わないで会話しようなんて、無茶な話だと思わない? 目も見れないのに、成り立たないよ。デジタルな会話に興味はないの」
と答えた。
いろんな場所で、いろんな話をした。
ある時はゼンマイ仕掛けの人形の話だったり、ある時は歩きスマホの危険性についてだったり、ある時はファジーボタンについて小一時間話したりもした。
「美香子さんは、どう思う? 」
必ず、私に答えを求めてくれた。
だから私も応えようとしたら、本当の自分でしか応えられず、結局取り繕うことができない、無防備な言葉を秋人さんにぶつけることになる。
秋人さんはそんな私に笑いながら、
「とても素敵な考えだね」
と言ったのだ。
彼と道を別れて離れて家に帰って、布団にもぐりこんで目を閉じると、もうだめだった。
秋人さんへの想いは勝手に噴き上がる。止めようがない熱さが胸に灯って、たまらなく甘くて、苦しくて、強く強く、揺れていた。
こんなに人を好きになったことは今までない。ドラマで聞いたことのあるような台詞で、まるきりバカみたい。
だけど、真実そう思ったんだから、仕方がない。
それで、私は秋人さんに自分の気持ちを伝えようとする。
「秋人さん、私ね」
秋人さんは優しい目で世界を見つめる。
私の世界とはまた違う、秋人さんの世界。
私のことは映し出されるのだろうか。
「あのね」
あなたが、世界を変えてくれたんだよ。
ホント 七山月子 @ru_1235789
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます