第34話 1月6日

 あの一件が終わって数時間後、俺は銀の大きなスーツケースを膝の上に置き、黒い高級車と思われる車で高速を走っている。運転席には黒いサングラスをした柴田と言う人が運転している。俺は後部座席に座り、その横では幸が座っている。


 高速を走る車がカーブすると左肩に何かが当たった。その方に視線を送ると幸が俺の肩に頭を載せていた。彼女はプルンとやわらかそうな口を少し開け、寝息を立てている。


「幸せそうに寝ておられますね」


 声がして前を見ると運転している彼が少し顔を上げているのがバックミラー越しに見えた。


「少しそのままにしておいてあげてください。お嬢は昨日からずっと気を張っておられましたから寝ていないんです」


「言われなくてもそうするよ」


「・・・お嬢のこと、お願いします」


 まるでこれで彼女とお別れのような、そんな言葉を告げた彼は左折し高速を降りた。




 住んでいるマンションに着くと一気に肩の力が抜けた。そのまま膝から崩れるように床に倒れたかったけど、さすがにそうもいかない。


 朝からいろんなことがあったが、今日は今から始まる。スーツケースをリビングに置き、鞄に入っているスマホを取り出し時間を確認する。


「7時前か・・・」


 今からバイト休みますというのは迷惑だし、仮病で休むのは申し訳ない。


「はぁ・・・よし」


 気持ちを入れ替えるためにため息を吐く。


「バイト、行くんですか?」


 玄関で靴を脱ぎ終えた彼女が背後から聞いてきた。


「うん。まぁ、風呂に入ってからね。遅くなるけど、衛生面的にまずいからね」


 スマホを開き美智子さんに遅くなると連絡を入れた後、俺はそのまま風呂場でシャワーを浴びて店に向かった。




「遅くなりました」


 更衣室で着替えを済ませた後、店内に顔を出すと二人の客が来ていて、その対応と日野さんがしていた。


「おはよう晴太くん、今日はどうしたの?また寝坊?」


「いえ、そういうわけではないんですが・・・」


 誘拐されてました、なんて言えず口籠る。


 そんな俺を見て、美智子さんはそれ以上聞いては来なかった。そのことがとてもありがたく感じた。


「それじゃ、今日もお願いね」


「はい」




 それからはいつもと同じ日々だった。今朝のことが夢だったのではないか、そう思ってしまう。


 ただ一つ、いつもと違っていたのは日野さんの仕事っぴりだけだろうか。いつもの2倍?くらいは動いている。俺が何かをしようとするよりも先に行動し、俺の仕事がなくなってしまうことが多々あった。


 その理由を俺は知っている。


 ・・・それは今日が日野さんのバイト最後の日だから。


 別にもう二度と働けないわけではないもだが、これは彼女なりのけじめのようなのなのだろう。


 テキパキ動く彼女に比べ、俺はほとんど何もせずに1日が終わってしまった。



「お疲れ様でした」


「お疲れ様です」


 日野さんと2人そろって店内で残り仕事をしている美智子さんに挨拶をする。


「琴音ちゃん、短い間だったけどありがとうね。すごく助かったよ」


「こちらこそ、お世話になりました」


 食器を洗っていた美智子さんは濡れた掌を天に向け、親指と人差し指をくっ付けて円を作った。


「気持ち盛っておいたから」


 その意味をすぐに理解した彼女は深々と頭を下げた。


「ありがとうございました」


「うん・・・晴太くん、あとはお願いね」


「わかってます」


 返事を返すと美智子さんは一度頷いた。


 俺は美智子さんに背を向けて出口に向かう。日野さんも少し遅れて俺の後ろを付いてきた。




 暗い夜道を2人で歩く。こうして暗いこの道を歩くのが最後だと思うと少し寂しくなる。しかしそうしないといけなかった原因はもうなくなった。今日から彼らの目撃情報は出回らないだろう。


「どうだった、喫茶店のバイトは?」


 電灯で照らされて彼女の顔を見ながら問う。彼女も俺と目を合わせながら質問に答える。


「そうですね・・・最初は戸惑うことばかりで毎日がとても大変でしたけど、慣れた頃からはバイトをしている時間が楽しかったです。なんでもっと早くここのバイトをしなかったんだろうって時々思ったくらいです」


 笑顔を作りそう言ってくれる彼女に俺の笑顔を返す。


「そう思ってくれたなら働いているものとしてはうれしいかな」


「本当にあそこはいい場所でした。・・・ってほかにバイトをしたことがないので比べようがないんですけどね」


「俺もないから何とも言えないけど・・・でもあそこは本当にいい場所だと思うよ」


「そうねすよね」


 会話が途切れ、彼女から視線を外す。知らぬ間にかなりの距離を歩いていたようで、すぐ目の前には彼女の家の近くにある公園が見えていた。


 いつものように通り過ぎようとすると、公園の入り口の前で彼女が立ち止まった。少し前を歩いていた俺はそれに気づき振り返る。


「どうかした?」


「・・・もう少し話していってもいいですか?」


 彼女はそういいながら公園の中を見る。その顔は今まで彼女が見せたどの表情とも違っていた。何か決心したような、でも揺らいでいるような、言葉にするのが難しい表情。


 俺はその表情が何を物語っているのか知りたくて、彼女の提案に乗ることにした。


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