第28話 1月5日
着替えを済ませ、裏口で待っていた日野さんと合流する。俺が着替えている間の時間を美智子さんと過ごしていたらしい。
「それじゃあ晴太くん、琴音ちゃんをよろしくね」
「分かってます」
「お疲れ様でした」
俺が玄関を出ると日野さんも付いてくる。美智子さんは俺たちが扉を閉めるまで手を振っていた。
昨日通ったはずの彼女の帰路は今日も寂しく何もない。人も動物すら出てこない。
そんな道を二人で歩いていると彼女は上を向いた。
「雨、降りますかね?」
そう呟く彼女と同様に上を見上げる。
今日は朝から曇っていた。空気も少しジメジメとしているが、雨が降った様子はない。
「どうだろう?」
俺は雨雲レーダーでもお天気キャスターでもないので、空を見上げただけではなんとも言えない。
スマホを開けば予報がわかっただろうが、そこまでする気はない。それは彼女も同じらしい。
俺たちは立ち止まってただ空を見上げていた。
「もしかしたら雨じゃなくて雪が降るかもね」
限りなくありえない可能性を口にする。今日は昨日ほど寒くはない。それどころか今年に入って温度が少し上がった。手袋にマフラーをつけていると汗をかいてしまうので持って来ていない。
空から視線を落とし、再び歩き出す。
「雪、今年はまだ降ってませんよね」
「そうだな」
去年の今頃には積りはしないが確かに降って来ていた。しかし今年はニュースですらあまり雪という単語を聞かない。北海道ですら少ないのだからここら辺に降って来るわけがない。
「日野さんは雪が降って欲しいと思う?」
「私は・・・そうですね、どちらかといえば」
「俺はごめんかな」
「どうしてですか?」
俺の答えが意外だったと言わんばかりに彼女は首を傾げながら聞いてくる。
「雪が降るとさ、道路は凍るし、積もると足場が悪くなる上に靴が濡れる。それに寒いのはあまり好きじゃないから」
「では夏の方が好きですか?」
「どちらかといえばその中間の季節の方が好きかな。春と秋は本当に過ごしやすいから」
天気から季節の話に変わったように、俺たちの会話は途切れることなく続いていった。
「今日もありがとうございました」
「それじゃあおやすみ」
「おやすみなさい」
昨日のように彼女が家に入るまで見送ってから来た道を引き返した。
マンションの上階が見えるところまで帰って来た。
道中は誰一人会うことはなく、時々道路を車が通り過ぎる程度。外路地の方から猫の鳴き声が聴こえてくることもあった。
バッグからスマホを取り出す。ロック画面には村上さんから(わかりました)(気をつけて帰って来てください)というLINE通知が来ていた。
その上に大きく表示された時間はとっくに10時を迎えていた。
「早く帰ろ」
俺は足取りを早めた。走れば5分とかからない距離を全力で走った。後ろの鞄が上下に揺れるのも気にせず、見慣れた建物を通り過ぎて行く。
その途中で電灯の影に人が立っているのが見えた。
酔っ払いか何かだろうと気にせず駆け抜けようとした。
しかしその人はタイミングを見計らったかのように俺の前に出て来た。
ぶつかるかも知れない、そう思って足を止める。
人影は電灯の灯りに照らされている場所に移動した。そこでその人が男性であることがわかったと同時に嫌な予感がした。
ポケットに両手を入れ、少し猫背気味の男性。服装は黒いスーツにサングラスと美智子さんの言っていた人物像と一致していた。
「ねぇきみ、秋原晴太くんで合ってるよね」
名前を言われて体を身構える。
こういったときは他人を装うのがいい。他人に化ければそこで話が終わる。
「ひ、人違いですね」
心臓がバクバクとうるさい。こんな状況で平常心なんて保てるわけがなく、声が少し裏返り気味になる。
そんな俺を見て男性が腹を抱えて笑い出した。
「はっはっはっ・・・それもう答えているようなものだぞ、秋原くん」
そうか人違いか、そう言って立ち去って欲しかった。けどそうもいかないらしい。
笑いが収まった男性は、離れた場所にいる俺に聴こえるほどの息を吐いた。
「はぁ・・・秋原くん、一緒に来てくれないか?乱暴なことはしたくないんだ」
男性は俺に手を差し伸べて来る。
喧嘩なんかしたことがない。相手に一発食らわせて、ふらついた隙に逃げるなんてことは不可能。下手おすれば反撃をくらう。
「何が目的だ」
自分が怯えていることを誤魔化すように声を張り上げる。
「目的?」
男性は手を下ろし首を傾げる。
「金ならないぞ!借金もした覚えはない」
「金?借金?そんなものどうでもいいよ。俺たちが今欲しいのは君の身柄だよ」
「身柄・・・」
身柄を捉えてすることといえば親から金を要求するぐらいだろう。
身柄を返して欲しくば金を出せ。もちろん親もそんな金を持っている訳ではない。どこにでもいる一般家庭なのだから。
「大丈夫、言うことを聞けば君は無傷で済む。だからおいで」
男性は再び手を差し伸べる。
「嫌だ!」
俺は自分の意思を告げ、男がこっちに来た瞬間に走れるように構えた。
「・・・そっか、なら仕方ない」
男性は溜息を吐いた。しかし目の前の男性は一歩も動く気配がない。手を頭の後ろで組んで余裕そうな格好をして見せる。
それに気を取られていることがまずかった。
背後から急に伸びた手がハンカチで口を押さえ、もう片方の手で俺の腕を後ろに回した。
咄嗟のことで反応が遅れた。ハンカチからはなにかの匂いがする。
ドラマなどでよく使われる薬品だと気づいたときにはすでに遅かった。心拍数が上がっている状態では、平常時より酸素を必要とする。息をしないように我慢するが、すぐに酸素不足に陥る。
頭が生きるために酸素を欲するので、俺は嫌でもその匂いを嗅いでしまう。
意識が徐々に遠退くなか、最後の力を振り絞って後ろにいる人の腹に肘をぶつける。
しかし俺の力が弱かったのか、あるいは相手が悪かったのかびくともしなかった。
朦朧とする意識の中、抵抗した俺を見て男性はニヤリと笑った。
「おやすみ」
その言葉を最後に俺は意識を失った。
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