姚興55 大臣を喪う
このころになると、
多くが鬼籍に入っていた。
そのため書面にて、
合計二十四人を姚萇の廟に配食。
姚興、ここ最近で叔父らに
バカスカ死なれており、
葬礼をつかさどる官吏に、
どう弔問すればよいか整理させた。
その官吏は言う。
「
死亡した時、
この事例に倣われるべきかと存じます」
しかし姚興、却下。
大臣が死ぬごと直接足を運び、
哭礼をなすのだった。
じゃあなんで聞いたんだお前。
興立昭儀齊氏為皇后。又下書以其故丞相姚緒、太宰姚碩德、太傅姚旻、大司馬姚崇、司徒尹緯等二十四人配饗於萇廟。興以大臣屢喪,令所司更詳臨赴之制。所司白興,依故事東堂發哀。興不從,每大臣死,皆親臨之。
興は昭儀の齊氏を立て皇后と為す。又た書を下し其の故丞相の姚緒、太宰の姚碩德、太傅の姚旻、大司馬の姚崇、司徒の尹緯ら二十四人を以て萇が廟に配饗す。興は大臣の屢しば喪ぜるを以て所司に令し更に臨赴の制を詳らかとす。所司は興に白すらく:「故事に依りて東堂にて哀を發すべし」と。興は從わず、大臣の死したる每、皆な親しく之に臨ず。
(晋書118-16_傷逝)
發哀
皇帝クラスになると権威がデカくなりすぎて、臣下が死んだからと言ってホイホイ臣下の自宅に訪問することが難しくなってったのだそうです。ソースは Wikipedia。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8C%99%E5%93%80
なので、弔問の使者は別に立て、自らは城から哭礼をなしたのだとか。あーなるほど、じゃどうしてそれが「東堂」って限定されるんですかね? と思って調べてみたら、晋書巻37司馬孚伝に
泰始八(273)年薨,時年九十三。帝於太極東堂舉哀三日。
って記事がありました。まーおそらくこれが出どころでしょう。もっとも、司馬孚って「私は晋の臣下でなく魏の臣下だ」って公言してたみたいなんで、そのケースにまんまのっかんのってあんまよくない気はしますね。
あと、官職名が「所司」な辺りに、いわゆる葬礼についてきっちり取りまとめるような儀礼官がいなかったのもうかがわれます。晋とかなら祠部尚書あたりがこの辺りを取りまとめてたのかなあ。
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