楊定 仇池公
楊定。
父の名は
仇池より出奔、
苻堅はその娘を、楊定にめあわせた。
楊定は苻堅の下で尚書、領軍將軍に。
やがて敗北、捕らえられた。
その気骨は大いに認められたようで、
慕容沖の側近、
迎え入れられた。
その高蓋が、
高蓋は姚萇の軍門に下ったが、
楊定にとり姚萇は、もと主君の仇である。
到底仕えられたものではない。
ゆえに楊定は
そこで旧仇池の門人らを糾合した。
態勢を整えた楊定のもとに、
苻丕のもとには表向き臣属、
実質は同盟締結のための使者を飛ばす。
そこで苻丕は楊定に
驃騎大將軍、
楊定は拠点を
仇池から五十キロ離れた地を拠点とした。
また
当時飢饉に苦しんでいた地元の人びとに
これらを分け与えることで
千あまりの家族を配下に招き入れ、
龍驤將軍、仇池公を自称した。
そこから
秦州の地を保有。更に自らの地位を
秦州刺史、
間もなく苻丕が殺され、
楊定に大將軍、益州牧の地位が授けられた。
直後には左丞相、上大將軍、
都督中外諸軍事を加えられる。
息子
そこに
苻崇ともども殺された。
楊定には子がいなかった。
そのため楊定が取りまとめた勢力は、
叔父の
征西將軍、秦州刺史、仇池公を自称した。
楊定には、武王と諡された。
楊定、仇池公楊纂之族也。父名佛奴、奔降於秦。但堅傳作佛奴之孫。堅以其女妻定。拜定為尚書、後為領軍將軍。淮南之敗、關中擾亂。定盡心力奉事堅。堅死、乃將家屬奔隴右、復收集其舊眾。聞丕即位、遣使迎之丕、以定為驃騎大將軍、雍州牧。徙治曆城、去仇池百二十里。置倉儲於百頃、招合夷夏、得千餘家、自稱龍驤將軍、仇池公。進平天水略陽郡、遂有秦州之地、自稱秦州刺史、隴西王。登稱尊號、以定為大將軍、益州牧。俄加左丞相、上大將軍、都督中外諸軍事。後與乞伏乾歸戰、軍敗見殺。定無子、其叔父佛狗之子盛先守仇池、自稱征西將軍、秦州刺史、仇池公。謚定為武王。
楊定、仇池公の楊纂の族なり。父が名は佛奴、奔りて秦に降る。但し堅傳にては佛奴の孫に作す。堅は其の女を以て定に妻せしむ。定を拜し尚書と為し、後に領軍將軍と為す。淮南の敗にて關中は擾亂せるに、定は心力を盡し奉じ堅に事う。堅の死せるに、乃ち家屬を將い隴右に奔り、復た其の舊眾を收集す。丕の即位を聞き、使を遣りて丕を迎え之き、定を以て驃騎大將軍、雍州牧と為す。徙りて曆城、仇池より去ること百二十里を治む。倉儲を百頃に置き、夷夏を招合し千餘家を得、龍驤將軍、仇池公を自稱す。進みて天水略陽郡を平らげ、遂に秦州の地を有し、秦州刺史、隴西王を自稱す。登の尊號を稱せるに、定を以て大將軍、益州牧と為す。俄に左丞相、上大將軍、都督中外諸軍事を加えらる。後に乞伏乾歸と戰い、軍は敗れ殺さるを見る。定に子無く、其の叔父の佛狗の子の盛の先に仇池を守りたるに、征西將軍、秦州刺史、仇池公を自稱す。定に謚し武王と為す。
(資治通鑑)
衛將軍楊定與沖戰於城西,為沖所擒。沖遣尚書令高蓋帥眾五萬伐後秦,戰於新平南,蓋大敗,降於後秦。蓋以楊定為子,及蓋敗,定亡奔隴右,復收集其舊眾。
衛將軍の楊定は沖と城西にて戰い、沖に擒わる所と為る。沖は尚書令の高蓋を遣りて眾五萬を帥べ後秦を伐たしまば、新平が南にて戰い、蓋は大いに敗れ、後秦に降ず。蓋は楊定を以て子と為さば、蓋の敗るるに及び、定は隴右に亡奔し、復た其の舊眾を集收す。
(十六国42-8_衰亡)
苻丕伝のところで楊定の自称を見たとき「おいおい苻丕さん配下を制御できてねーなwww」って思ってたんですが、上にも書いたとおり、苻丕が政権を樹立した段階で、もはや実態は同盟だったようですね。まあこの辺群雄としてバラバラに書かれてもしんどいだけだし助かりますけど。
十六国春秋では、慕容沖周りの話が完全に削られてます。なので資治通鑑の記述を持ってきたわけですが、これどこに載ってるのかなあ。後秦録あたり? この内容だと前燕録に混じっててもおかしくなさそうなんですけどね。
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