晋書載記 前秦

巻113・114 苻堅載記

苻堅1  苻堅誕生す   

前秦ぜんしん 宣昭せんしょう帝 苻堅ふけん



苻堅。字は永固えいこ、あるいは文玉ぶんぎょく

前秦初代帝である苻健ふけんの弟、苻雄ふゆうの子だ。


祖父は苻洪ふこう

石虎せきこぎょうに遷都したのに従い移住、

永貴えいきという地区に家を構えた。


母のこう氏が漳水しょうすいに遊びに出、

そこにある西門豹さいもんひょうの祠で

子宝を授かりたい、と祈ると、

その夜の夢に神が現れた。

苟氏がすンごい淫夢を見ると、

なんとその翌日に妊娠が発覚しました!

そして十二か月後に苻堅を出産。

その時天から光が差し、

庭を照らしたという。


生まれた苻堅の背中には、

赤いあざがあった。

やがてそれは文字として

判読できるようになる。


「草付臣又土王咸陽」。


組み立てれば「苻」「堅」が

咸陽かんようの王になる、となるだろうか。


ちなみにこのあざを見て、苻洪は

元々の姓「蒲」を

「苻」に変えたそうである。


成長すると、その手は膝にまで届き、

目には紫の光を宿していた。


苻洪、この奇跡のごとき孫を

めっちゃかわいがる。

嫡流の苻生ふせいを無視して可愛がりまくる。

堅頭けんとうというあだ名までつける。


苻堅が七歳にして神童ぶりを発揮、

また下々への施しを好んだ。

その振る舞いは常に

規範に違わぬものであった。

常に苻洪の側にあって、

非常に見事に苻洪の機微を

察したそうである。


苻洪はよく言っていた。


「この子は人並み外れた風貌だ!

 その上性分もただ者ではない!


 まったく、とんでもない子よ!」


高平こうへい人の徐統じょとうというひとは、

いわゆる人相見を得意としていた。

ある時道ばたで苻堅と遭遇。

ひと目見てやべえと思い、

その手を取る。


おまわりさんこっちです。


「苻くん、

 ここは皇帝陛下がお通りになる道だ。

 このようなところで遊んでいたら、

 捕まえられる、とは思わないのか?」


苻堅は答える。


「あなた様が捕えるべきは

 罪人でありましょう?


 こわっぱの戯れなぞ、

 捕まえるまでも

 ございませんでしょう」


はぁあ、なんじゃこのガキ!

思わず徐統、使用人たちに振り返る。


「この子は霸王になるかもしれんぞ!」


使用人たちとしては、

は? なに言ってんですか?

くらいの感じだったようだ。


その様子を見て、徐統は言う。


「ま、お前らなんぞではわからんか」


ひどい言い草である。


後に徐統、また苻堅と出会う。

すると徐統、その時

車に乗っていたのだが、

わざわざ車から降り、

人払いを命じたのちに言う。


「苻くん。

 きみの骨付きは尋常ではない。

 後に、大いなる栄光を掴むだろう。


 だが、それを私が

 目撃することはないだろう。

 あぁ、何としたことか!」


苻堅は答える。


「もし、あなた様の

 お言葉通りになりました折には、

 貴方様がお示しになられた徳、

 決して忘れません」



翌年、8歲になった苻堅は

勉学のための師を付けてほしい、

と苻洪に願った。

すると苻洪は言う。


「お前は所詮西戎の子!

 世の者は酒のみとしてしか

 認識せんだろうにな!


 そんな立場に甘んじることなく、

 学問を求めるかよ!」


と、喜んで許可を出した。




苻堅,字永固,一名文玉,雄之子也。祖洪,從石季龍徙鄴,家於永貴裏。其母苟氏嘗游漳水,祈子於西門豹祠,其夜夢與神交,因而有孕,十二月而生堅焉。有神光自天燭其庭。背有赤文,隱起成字,曰「草付臣又土王咸陽。」臂垂過膝,目有紫光。洪奇而愛之,名曰堅頭。年七歲,聰敏好施,舉止不逾規矩。每侍洪側,輒量洪舉措,取與不失機候。洪每曰:「此兒姿貌瑰偉,質性過人,非常相也。」高平徐統有知人之鑒,遇堅于路,異之,執其手曰:「苻郎,此官之禦街,小兒敢戲於此,不畏司隸縛邪?」堅曰:「司隸縛罪人,不縛小兒戲也。」統謂左右曰:「此兒有霸王之相。」左右怪之,統曰:「非爾所及也。」後又遇之,統下車屏人,密謂之曰:「苻郎骨相不恆,後當大貴,但僕不見,如何!」堅曰:「誠如公言,不敢忘德。」八歲,請師就家學。洪曰:「汝戎狄異類,世知飲酒,今乃求學邪!」欣而許之。


苻堅は字を永固、一名に文玉、雄の子なり。祖は洪、石季龍の鄴に徙れるに從い、永貴が裏に家す。其の母の苟氏の嘗て漳水に游べるに、子を西門豹が祠に祈らば、其の夜に夢にて神と交わり、因りて孕みたる有り、十二月し堅を生みたり。神光の天より其の庭を燭らす有り。背に赤文有り、隱かに起ちて字を成し、曰く「草付臣又土王咸陽」と。臂は膝を垂過し、目に紫光有り。洪は奇しみ之を愛し、名して堅頭と曰う。年七歲にして聰敏にして施を好み、舉止は規矩を逾えず。每に洪が側に侍り、輒ち洪が舉措を量り、取與に機候を失わず。洪は每に曰く:「此の兒は姿貌瑰偉にして質性は人に過ぐ、非常の相なり」と。高平の徐統は知人の鑒を有さば、堅に路にて遇い、之を異とし、其の手を執りて曰く:「苻郎、此れ官の禦せる街なれば、小兒の敢えて此に戲らば、司隸に縛さるを畏れざらんや?」と。堅は曰く:「司隸は罪人を縛さん。小兒が戲を縛さざらんなり」と。統は左右に謂いて曰く:「此の兒に霸王の相有り」と。左右は之を怪しまば、統は曰く:「爾の及びたる所に非ざりたるなり」と。後に又た之に遇わば、統は車を下り人を屏いて、密かに之に謂いて曰く:「苻郎が骨相は恆ならず、後に當に大いに貴たらん。但だ僕は見たらず、如何!」と。堅は曰く:「誠に公が言が如くせば、敢えて德を忘れじ」と。八歲にして師を請うて家學に就く。洪は曰く:「汝は戎狄異類にして、世は飲酒を知れるに、今、乃ち學を求めたらんか!」と。欣び之を許す。


(晋書114-1_夙恵)




苻堅さまの出生伝説はさすがに拾っておきますね。つーかなんだこれ、皇帝本紀並みの瑞祥祭じゃねーか。晋書はさすがに北魏の前の覇権国家であった前秦の王さまについてはアゲておられるわけですね。なお魏書では一切この辺に触れません。カッコイイぜ魏收さん。


ところで苻堅の背中のアザの話、蒲洪載記見ると


時有說洪稱尊號者,洪亦以讖文有「草付應王」,又其孫堅背有「草付」字,遂改姓苻氏,自稱大將軍、大單于、三秦王。


ってなってんですよね。いや、うん、二文字ならまだ信憑性もありそうだけどさぁ……八文字ってお前さぁ……



ちなみに Wikipedia では、苻堅が後に前燕を討伐した時、徐統の末っ子、徐攀じょはんに「そなたの父からの恩義に報いる」って琅邪郡太守の官位を授けたそうです。へー。

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