第22話 好転反応
意地悪な天使が現れてからというもの、私の人生は少しずつ好転し始めたように感じた。
翔也は相変わらずだったけれど、旦那が休みの日には連れ立って、釣りに出かけていくようになった。男同士、なかなか話が弾むようだ。
二日続けては登校することができなかった柚月は、これで一ヶ月ほど休まず学校に通うことができた。そのことは、私をとても安心させた。これでこの子は大丈夫だ、と思った。
「学校に行けるから大丈夫」
また、昔の私に逆戻りしていたんだ。条件付きで子供を認めている私。丸ごと愛するって簡単じゃないよ。
だから、柚月の一言に私はまたひどく落胆させられた。
「お母さん、学校に行きたくない…」
寝付いたと思った柚月が起きてきて、夫婦の食卓に顔を出した。私はひどく狼狽したらしかった。
旦那が一言、
「明日、目が覚めたとき、どうしても行きたくなかったら、休めばいいんだよ」
と言った。柚月はコクリとうなづいた。その言葉に安心したのか、彼女は部屋に戻ろうとした。
ところが、彼女は振り返り、私と視線を合わせた。
「お母さんは、私が学校に行けないと残念?」
と尋ねた。私は心が見透かされたようで、一瞬戸惑いながら、
「そんなことないよ…」
と言って、無理して笑った。
柚月は不思議そうな瞳で私を見つめていた。
柚月が寝静まったころ、旦那と二人、子どもたちの話題になった。
「翔也だって学校に行ってないんだ。柚月が行けなくても、なんら不思議じゃないよ」
と呑気なことを言う旦那に少しイラつきを覚えた。
「待ってよ、あなた、前は翔也が学校に行けてないのはどうなんだ?って言ってたじゃない。どうしたのよ、急に」
「いや…、翔也は中学生、もうすぐ受験だろ…。やっぱ学校に行かないのは心配するじゃん。でも、柚月はまだ小学生だ。そんなに焦ることないと思うんだ」
旦那はのんびりとしている。だからこそ、夫婦でバランスが取れているとも言えるのだけど。
「だって、やっと柚月は学校に通えるようになったんだよ。ここで休んだら、また休みがちになっちゃうじゃん」
私は感情的になって、気持ちを旦那にぶつけた。
「それなら、それでいいじゃない?あの子たちが元気でいてくれれば、俺はいいよ」
「あなたはいいかもしれないけど、私は嫌なの」
彼は困った顔をして、黙り込んだ。じっと、次の言葉を待っているのがわかる。
「翔也だって、いつもゲームばかりして。将来のこと、ろくに考えもせずにダラダラ暮らしてる。私は不安だよ、不安なんだよ」
私は自分の気持ちを素直に吐露した。それを旦那は黙って聞いていた。ところが、彼はしばしためらったのち、その重たい唇を開いたのだった。
「翔也は考えてる。あの子は考えてるよ」
とつぶやいた。私は瞬時には理解できなかった。
「あの子はね、自分自身のこと、自分の人生のことをよく考えているよ。小学校のときの先生だっけ?あの先生にも、ずいぶん相談しているみたいなんだ」
どうやら蚊帳の外にいたのは、私だけみたいだ。
「釣りに行く車の中では、あいつ饒舌なんだよ。学校に行けない自分の状況も分かってて、それでも夢を語ってくれる。それを聞くとさ、あの子にはあの子の人生があるんだなぁって思い知らされるよ」
そう言って笑った。
けれど、私はちっとも面白くなかった。
「翔也は何て?」
と、私はひどくぶっきらぼうに尋ねた。
「あいつはさ、ゲームのクリエイターになりたいんだって。コンピュータの勉強をしたいからアメリカに行きたいって。そのために英語の勉強もしてるんだってさ」
「ゲームのクリエイター?そんなの無理よ」
私は冷たく言い放った。
「おいおい、本人にそんなこと言うなよ。無理かどうか、それを決めるのは僕らじゃないよ。精一杯挑戦させてあげればいいじゃない?」
「だって、学校にも行ってないのよ。このままじゃ大学にも進めない。そんなことで社会でやっていけると思う?」
「いや、そのあたりはあいつも先生に相談しているらしいよ。通信制の高校っていうのがあるらしくてさ、毎日行かなくてもいいらしいんだ。そこで、学びながら、自分がやりたいことをやりたいんだってさ」
私はますます腹を立てた。
「何よ、そんなわけのわからない学校。普通の高校じゃないじゃない!」
「いや、あいつの話では、通信制も普通の高校と同じように卒業証書がもらえて、高卒の資格がもらえるんだって言ってたぜ」
こんなに、私は一生懸命やっているのに。私の知らないところで、何もかもが決まっていく感じがした。あの先生にも、父親にも心を開いている翔也が疎ましく感じられた。
「子どもってさ、親の意図した通りには育たないよな」
「えっ…」
「俺もそうだった。父ちゃんから逃げるように家を出て、母ちゃんと二人きりで過ごしてきた。母ちゃんは必死に働いて、俺に勉強させようとしたけど、俺はそれに反発したんだ。大学に行かせたかったみたい。
でも、俺さ、そうやって働き続けてボロボロになっていく母ちゃんのこと、見てられなかったんだ。だから、大学には行かない!って言って就職したんだ。
今、思えば、働くことが親孝行だったのか、大学に行く姿を見せることが親孝行だったのか、わかんないけどな」
目を真っ赤にして、彼は独り言ちた。
「親の意図した通りには育たないかぁ…」
私は反駁した。私はどちらかといえば、親の意向に沿って生きてきた人間だった。親の期待に応えたいと思った。小さな頃からずっとそうだ。
だからこそ、実家に顔を出すことを避けていた。今の子どもたちの姿は、私の母の期待する姿とはほど遠いからだ。
ふと、初孫を抱いた日の母の顔を思い出した。誰よりも翔也の誕生を喜んだのは母だった。
「もしかしたら、私、ひどいこと、してたのかも…」
思わず口に出してしまった。
「んっ?どういうこと?」
「私は反対に親の言う通りに生きてきた。良い子でいなきゃ、良い子でいなきゃって」
「そうなんだね」
旦那は優しくうなづいた。
「だから、翔也や柚月を見て、今の二人を見て母はガッカリするんじゃないかと思って。私、遠ざけてたの。孫と会うのを遠ざけてたの…」
力なく答える私。
ところが、旦那ときたら、わけ知り顔で、
「なんだ、そんなことか」
と言って微笑みかえした。
「その点なら心配いらないよ」
「どう言うこと?」
「いや~、あいつら、昼間はよくおばあちゃん家に顔を出してるみたいだぜ。僕も出張帰りには顔を出してお土産を届けてるんだけどな。翔也も柚月もばあちゃんから小遣いをせびってるみたいでさ。あいつら、ちゃっかりしてるよ」
彼は笑っているけれど、私は顔から火が出そうなほど恥ずかしかった。どうやら、私の一人相撲だったみたい。
黙り込む私に、旦那は、
「でも、今の話を聞いて。お前らやっぱ親子だなって思ったよ」
と言う。
「お前さ、小学生のとき翔也がいなくなった日があったじゃん?覚えてる?」
「もちろん、覚えてるよ」
忘れるはずがない。あの日を境に、私と翔也は冷戦状態に突入したのだ。
「先生に呼ばれて、急いで学校に向かったのよ。着いたら、翔也はずっと泣いてるの。最初は俺もさ、男だから泣くな~みたいに言ってたわけよ。でも、翔也の言葉を聞いたらさ、なんかそうも言ってられなくてさ。良い子にならなきゃ、お母さんに嫌われちゃうって言うんだよ。
そんなことないよ、お母さんはお前のこと大好きだよって、先生と二人で散々話をしてさ。ようやく家に帰ったんだよな」
そんな話を先生からも聞かされていた。
「まあ、あの頃のお前は悲壮感に溢れていて、そんな話ができる様子じゃなかったし。それに、柚月な」
「エッ…、柚月?」
「そう。柚月は柚月でがんばっててさ。私が学校に行くとお母さんが喜ぶんだって言って。無理すんなよ、って言う俺に、無理してないよって笑うからさ、なんだ平気なのかって俺も思ってたんだけど…」
私って愛されてるじゃん。それを受け取れていないのは私の方だったな。
その晩、まどろみかけた私の脳裏に意地悪な天使が現れた。でも、その顔はとても優しげだった。柔らかな光に包まれて、私は心地よく眠りに落ちた。
私は愛されている。その実感が私を穏やかにさせてくれた。
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