第3話 思いを吐き出す
「ママさ~、あんた最近、笑ったことある?」
「出かけてくる」と言い残して部屋を出た翔也を見送って戻ってくると、天使が尋ねてきた。笑ったことなんて、最近なかったなぁ。
「何よ、も~~っ。いい?やっぱお肌はね、笑うといいらしいのよ。私たちももう年齢が年齢でしょ?ダメね~、ホント。寝不足とかしたらテキメンよ。すぐお肌に出ちゃうから。やっぱメンタルなのよ」
「メンタル?」
「そうよ、心とお肌はすっごくつながってるの。だから、思いっきり泣いて笑って、バァ~~っと吐き出さなきゃ、お肌がくすんじゃうわよ」
「吐き出す」と聞いて、私は身震いした。一番苦手なことだった。いつだって自分の気持ちを押し込めて今日まで生きてきたのだ。言いたいことなんて言えやしない。言ったら嫌われるんじゃないか、そう思って生きてきたのだ。
「吐き出すってさ、簡単に言うけど…。旦那は私の愚痴なんて聞いてくれないし」
そう独り言ちたわけだけど、当の天使ときたら(仕方ないわね)という顔をしている。なんだかそれも癪に触る。
「あんたさ〜、仕方ないわよ。男なんてそんなもの。話を聞ける男なんて、もはや絶滅危惧種よね」
「うん…。でも、やっぱ聞いてもらいたいじゃん?」
「わかるよ、わけるけどさ。準備が整わないうちに言葉をぶつけると、男って引くのよね。あの人たち、メンタル、鬼弱いからさ」
私は少し驚いた。男の人ってすごくたくましい生き物だと思っていたからだ。
「あら?意外って顔してるわね。そんなクソババアみたいな年齢になっても、男のことがわかってないなんて、ホントにママはお子ちゃまね」
本当に腹が立つ。だいたいこの天使は男なのか、女なのか。それすらハッキリしないくせに。私は少しだけイライラしながらマグカップに手を伸ばした。
そんな私に天使は優しく声をかけた。
「だから、私がここにいて、あんたの話を聞こうとしてるの」
「なんなのよ?」
「ママに笑ってほしいじゃない?私、ママを幸せにするためにここにやってきた天使なのよ」
私は少しだけ口を閉じた。本当は今、猛烈に話を聞いてもらいたい。そんな気持ちが沸き起こっているのだ。
「あのね、さっき言いかけたんだけどさ」
「うん、何?」
「翔也のことなんだけど」
「あぁ、弟ね」
「えっ?違う違う。さっき見たでしょ。あれが兄の翔也。妹の柚月は今日は学校に行ってるの」
天使は罰の悪そうな顔をして、
「わかった。兄の翔也くんに妹の柚月ちゃんね。それで?」
と先を促した。私は思わず、
「実は二人とも学校に行ってなくて…」
と話した。それからは、もう言葉が堰を切ったように溢れてきて、止まらなくなった。
翔也が不登校になった日のこと。適応教室で悔しかった気持ち。学校の先生の対応が気にいらないこと。とにかくいっぱい話した。吐き出してみた。
誰かに話したかった。聞いてほしかった。もう止まらなかった。止める必要もなかった。
いつもなら「うるさいな。だから何だよ」と言って話を遮る夫はいない。私は決壊したダムのように次から次へと言葉を紡いでいった。
その間、天使は嫌な顔を一つ見せることなく、ただ「そうなんだね、そうなんだね」と言って聴いてくれた。それがただただうれしかった。
私は聞いてもらいたかったのだ。
いつのまにか、涙が溢れていた。嗚咽を漏らして泣きながらしゃべり続けた。
一通り話し終えると、身体中が心地よい疲労感に襲われた。天使は何も言わず、ただそこにいてくれるだけだった。その沈黙が何より心地よかった。
イジワルな天使の教え1
『溜め込まないで、思いを吐き出す』
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