第2話 どうしようもない天使が我が家に舞い降りた

 今朝、小5になる柚月は元気に出かけていった。彼女だけでも学校に行ってくれると安心する。あの子は、行きたい日には行き、行きたくない日には行かない。学校に行けるのだから、毎日行ってくれたらいいのに、と思う。そんなことでは社会に出てから困るだろう。みんなが私にそう言うのだ。私だってわかっている。

 だが、どうしようもないのだ。そう言うなら、みんなでひきずってでも学校に連れていってくれればいいのに。

 翔也はまだ部屋から出てこない。いつまで寝ているつもりだろうか。そろそろ起こしにいこうか。でも、怒るんだろうな。最近は朝起こすとすこぶる機嫌が悪く怒鳴り散らすようになっていた。

 それもこれもテレビゲームのせいだ。夜遅くまでやっていて、それで昼夜逆転の生活になっている。あんなもの、買い与えるんじゃなかった。

 さて、起こすか。そう思ってリビングを振り返った瞬間、私は驚いて大声を上げてしまった。

「あんた、だれ?」

見覚えのある白い衣、白い羽。頭の上には金の輪っかが浮かんでいる。その丸顔は昨夜夢の中で出会った天使そのもので、さも美味しそうに朝食を食べていた。翔也のために準備した朝食だった。手でVサインをつくり、味噌汁を一気に飲み干した。

 「まあまあの味よね。悪くないわ」

「ちょっと、なんなのよ、あんた。なんで朝ごはん食べてるわけ?」

天使は席を立つと勝手に冷蔵庫を開けて牛乳パックを取り出した。そして、直接口をつけて飲み始めた。

「なに、勝手に冷蔵庫を開けてるの!け…警察を呼ぶわよ」

すると、天使は私の方を見て、

「ゲプ~~~~っ」

「臭い…」

大きなゲップを吐くと、お尻から「プリプリ…♪」とオナラをした。

「あら、失礼♡」

と言って、リビングに座って、新聞を読み始めた。

「ちょ…、ちょっと聞いてるの?何なのよ、あんた、だれなの?」

私は食卓の向かい側に陣取ると、天使の新聞を取り上げて問い質した。

「なによ、まったく。わけわかんない女ね~。昨日説明したでしょ?ママのところに行くわよって」

夢の中に現れた天使が今、目の前に座っていた。事態を飲み込めない私に天使は続けて

「あ~、あとね、警察とか呼んでも、だれも私のこと見えないから。そこんとこ、よろしくね」

と言うと、またお尻から「プリプリ…♪」とオナラをした。

「どうも、アタシ、昨日からお腹の調子が良くないのよね」

「じゃあ、牛乳なんか飲んだら余計痛くなるでしょ?」

天使は私の言葉には一切耳を傾けず、私から新聞を取り戻し、週刊誌の広告を見ながら、

「あら~、また不倫問題?不幸な夫婦がいると、アタシたちの業界も忙しくなるのよね」

と、わけのわからないことを言った。私はひどく混乱していた。やはり、疲れているのだ。

「ねえ、ママ」

天使に呼びかけられて、私は思わず息を飲んだ。

「な…、何よ」

すると、天使は大きくため息を突いた。

「もう…。ダメねぇ…ママは」

そう言われて私はカチンときた。私は天使をきつく睨んだ。

「ダメなママ」

何度となく、私はその言葉で私自身を呪ってきたのだ。

 だが、天使はさもガッカリした様子で、

「コーヒー。食後はコーヒーでしょ。インスタントはやめてよ。あと、ブラックでね。アタシ、味にはうるさい天使で有名なのよ」

 なんなの、この天使!もう、わけわかんない!

 その態度に内心腹立てながら、コーヒーを淹れている私がいた。二人分のコーヒーを淹れ、マグカップを二つ持って、天使の前に座った。

「はい、コーヒー」

ぶっきらぼうに言う私に、天使はさも満足そうな笑みを浮かべて、食卓の椅子に座るよう手招きした。そして、おもむろにマグカップを掴むと、

「ズビズビズビ~~」

と、大きな音を立ててコーヒーを啜った。

「あら、なかなかいい豆を使ってるじゃない?ブルーマウンテンかしら?」

「なに言ってるの?近所のコンビニで買った安いコーヒー豆よ」

天使の方は、そんなこと気にもしていない様子で笑った。

「何だっていいのよ。美味しければ。朝はやっぱりコーヒーよね」

私も天使の向かいに腰を下ろすと、マグカップを口に運んだ。

 朝、こうしてコーヒーを飲んだのは、いつ以来だろう。昔は旦那とよく朝からカフェ巡りをしたんだけど。そんな余裕すらない日々を過ごしてきたと思う。

「ねえ。あんた、本当に天使なの?」

「ママはなかなか疑ぐり深い性格なのね。じゃあ、ちょっと見てらっしゃい」

そう言うと、天使は羽をパタパタさせた。すると、徐々に天使の体が浮き始めたのだ。

「ほら、見て。浮いてるでしょ?羽で浮いてるでしょ?どう見ても天使でしょ?」

だが、浮いていたのも束の間、天使はハアハアと息を切らせて元の場所に戻った。

「ハァ~…、もう年ねぇ。アタシって、着痩せするタイプだから、ちょっと見えないかもしれないけど、メタボなのよね。健康診断にも毎年引っかかって、神様に叱られるんだから」

 私は何だか愉快な気持ちになって、

「でも、あんた、昨日は飛んで天井を突き抜けていったじゃない?」

「ああ、あれ?空を飛ぶときは、これを使うのよ」

そう言うと天使は、お尻を浮かせて「ぶぶぶ~~~っ!」と大きな音を立てた。その瞬間、天使の体は大きく舞い上がり、リビングには異臭が立ち込めた。

「なに、これ?なにを食べたらこんな臭いがするのよ?」

「あら、ごめんあそばせ。昨日は焼肉だったの。天使業界の会合でね、神様と三次会まで盛り上がっちゃったから」

 何なの?天使業界って。神様と飲み会するの?とにかくツッコミどころ満載だが、どうやらホンモノの天使であることは間違いのないようだ。

「ねえ、聞いていい?天使業界って何よ?」

「あら、ママ、知らないの?アタシたちはママみたいな人を幸せにするのが仕事なの。ママを幸せにするためにやってきた天使がア♡タ♡シ♡」

そう言ってウインクした。

「まあ、最近の天使業界は本当に忙しくてね、芸能人の不倫問題。これよ、これ」

再び新聞の雑誌広告を指差した。一体、芸能人の不倫問題の何が天使たちを忙しくさせるのだろう。

「まったく、男がダメよね。こういう男が多いと、世のママたちが悲しい思いをしちゃうのよ。それでアタシたちは忙しくなるってわけ」

「どうしてママたちが悲しい思いをすると忙しくなるのよ?」

天使は呆れた顔をして私の顔を見た。そして、コーヒーカップに手をやると、

「ホント、人の話を聞かない人ねぇ。さっき言ったじゃない。アタシたちはママを幸せにするのが仕事なの、わかる?不幸なママが増えると忙しくなっちゃうわけ」

 ママを幸せにか…。確かに今の私は幸せにはほど遠い生活かもしれない。でも、この天使が私を幸せにしてくれるとは思えないんだけど…。

 天使がマグカップを口に運ぶのと、同時に私もコーヒーを口に含んだ。苦味がジワ~っと広がって、それは心地よい余韻を残した。

「ねえ、天使はさ、男なの?女なの?」

「アタシたちに男とか女とかないのよ。天使は天使なの」

「え~っ!そうなの?じゃあ、パンツの中、どうなってんの?」

「あら、ヤダ。下品な女ね~」

「いや、おっさん顔の天使のなんて見たくないわ」

そう言って二人して笑った。こんな風にだれかとおしゃべりをして、笑ったのはいつぶりだろう。翔也が学校に行かなくなってからは、ママ友とおしゃべりをすることを避けてきたんだったな。

 顔を合わすと、誰もが翔也のことを尋ねてくる。

「学校に来てないみたいなんだけど、大丈夫?」

純粋に心配してくれる人もいるけれど、私は好奇の目を向けられているように感じてしまうのだ。

 そんなことを思い出したら、また暗い気持ちになってしまった。

 「ママ、どうしたのよ?急に暗い顔しちゃってさ」

私はハッと我に返って、一生懸命笑顔を繕ってみた。でも、天使の顔を見ていたら、なぜか上手に笑うことができなかった。

 「うん、あのね…」と話しかけると、「ガチャリ」とドアノブの音が鳴って扉が開いた。眠そうに目を擦りながら入ってきたのは翔也だった。

 何も言わずにリビングに入ってきた翔也は、私には目もくれず、リビングのソファーに腰を下ろした。早速テレビのリモコンに手を伸ばすと、テレビの電源を入れた。

 天使が私に目配せをした。

 私はそれに従って翔也の方に足を進めると、

「翔也、おはよう。朝ごはん、食べる?」

と尋ねた。翔也は視線をテレビに向けたまま、ぶっきらぼうに

「だれと電話してたの?あんなに楽しそうに話してて。学校の先生?」

私はドキッとした。どうやら天使との会話を聞かれたらしい。

「ううん、友だち…」

本当は友だちと呼べる人なんていないのに。それが余計に胸を苦しくさせた。

「あのさ、朝ごはん、どうする?」

「あ~、いらない。ほっといてよ」

「そう…」

 今日はバトルにならずに済んだなぁと思うと内心ホッとした。

 いつもなら朝起こすところでひと悶着もふた悶着もあるのだ。今日は天使としゃべっている間に、翔也が起きてくれた。

 ふと、振り返って台所に目をやると、天使と視線がぶつかった。心配そうな表情の天使がそれに気づいて、目線をそらせたのだった。それと同時に、別の視線を感じた。翔也だった。

 「何?」

私は怖る怖る尋ねた。息子に怖る怖る尋ねなきゃならない自分を情けなく思う。

 「あのさ、オナラした?」

「えっ?し、してないわよ…」

私は心の奥底ではヒヤヒヤしていた。だが、翔也はそれ以上何も話さずゲームに熱中し始めた。

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