NOA-ノア-

ちくわ

第1話 鉄鼠

「大将よお。んな緊張すんなって。全部敵じゃあるめーし、南関東の連中もいるしさ」

「わかってっけど…」

 扉の前に突っ立ったまま動けずにいる俺の背中を擦る墨染すみぞめ。頼もしいと同時に、小柄な彼女の小さな手の動きは擽ったさも感じる。

「もう開けんぞ?いつまでもそうしてちゃ怒られちまう」

 そう言って墨染が重量を感じさせる音を奏でる扉を押し開けた。その中は白を基調にした飾り気の無い質素な広い空間。ただ中心にある47席が輪をなす巨大な円卓が威圧感を与えてくる。そしてその席に座する殆どがこちらへと顔を向ける。そうなってしまえばもう堂々と自らの席へ歩む他ない。

 幸い―いや、本来は新人が最後に着席するのは宜しくないのだろうが、空席が一つだけだった為に迷う事なく『東京』の札が掲げられた席前へと赴けた。

「遅いじゃん。何やってたわけ」

「しゃーねえだろ、大将緊張しいなんだから」

「はっ。また墨染に甘やかされてんの?」

 同じ南関東地区担当、神奈川代表の高粱コーリャンが嫌味を言ってくるが、今はそれすら緩衝材だ。顔見知りに声をかけられると少し落ち着ける。

「何にやけてんだよ。さっさと自己紹介でもやりなよ」

「ああ、そうだ。えっ…と、この度」

「まて大将、ここ押しな。向こうまで聞こえねえぞ」

 墨染が横から身を乗り出して机上のマイク横のスイッチを指し示した。それもそうだ。こちらから反対側の席、中国四国辺りにはよほど声を張り上げなければ声が届かない距離だ。

「この度前任に代わり東京代表に就任しました飛燕ひえんです。よろしくお願いします」

「よし上出来だぜ大将。練習どおり出来たな」

 疎らな拍手を浴びながら墨染に頭をわしわしと撫でられる。事前にもっと何か言うべきではないかと相談はしたが、下手に噛むよりマシだと言われ、この短文しか練習していなかった。今ではそれが正しかったと実感する。値踏みするような視線が突き刺さり、尋常ではない汗が穴という穴から湧き出ている気がする。 

「てか会長まだか?」

 墨染は周りを見回し、誰ともつかない相手に尋ねた。

「まだ…いや、来てんな。ほれ、3、2、1」

 それに応えたのは隣に座る千葉代表の万作。そのカウントダウンの終わりと共に、俺達が入ってきた扉とは違う、奥のひっそりとした簡素な扉から会長が入室して来た。

「すまない。待たせたな」

 会長を実際に見るのは初めてだが、聞いていた通り両目は包帯のようなもので塞がれていて、視界に頼らず真っ直ぐ歩けている事に少々驚く。それもSEM故の能力なんだろうか、と思い至った所で、隣の人物が先程やった事もそれだったと改めて気づく。

「すげえな旦那。鳩だっけ」

「そ。鳩は耳良いんだぜ。習っただろ?」

「いや…覚えてねえ」

「おいおい。俺らが生物の特徴把握してなきゃ…っと、そろそろ黙るか」

 万作はまだまだ語りたい様子だったが、円卓の中央に向かう会長を見て口を閉ざした。そして空気がピンと張り詰めた。

「それでは、これより枯金会定例集会を始める」



「やめろ墨染」

 1時間以上に及ぶ報告会で明らかに墨染は飽きたようで、俺の髪束を只管ねじり始めた。NOAには席が設けられていない為に、墨染はうろうろふらふらと俺や他の関東担当を順々にいじって回る。

「はぁ…いつまで続くのかねぇ」

「もう最後だ。もう少しだろ」

 現在報告を上げているのは沖縄代表。それが終わるまで十分とかからないだろう。

「ちげーよ。…それもあるけど、あっしらの仕事だよ」

「…それももうすぐだろ」

 次々上がる各地区からの報告はどれも『駆除対象の減少』を示すものだった。主要発生源たる関東でも、他よりまだ駆除対象の数が勝るものの10年以上前からその傾向はあったようだし、俺が働きだしてからの数年でも減少している事は体感で理解できる。

「大将は…終わってほしいのか?」

「え?」

 いつもの墨染の声色とは違う、哀愁を帯びたそれにどきりとする。まるで『終わってほしくない』と言っているようで。

「墨染…それはどう…」

「よろしい」

 墨染にかけようとした言葉は、会長の凛とした声にかき消された。墨染に気を取られ気が付かなかったが、どうやら沖縄地区の報告が終わったようで、代表の酸葉すいばは既に着席していた。

「諸君、日々の活動実にご苦労である。おかげで狂餐種の数は減り、完全なる撲滅まであとわずかだろう」

 今回の報告会での情報を纏めると、やはりその結果に行き着くのは明白だった。

「だが一つ、新たな問題提起をさせてもらう。嫌NOA派の存在についてだ」

 初めて耳にしたその言葉で、47の席で僅かなどよめきがおきる。しかし知っていたと言わんばかりに冷静な代表も見受けられ、当のNOAに至っては誰もが平然としている。

「墨染」

 思わず墨染の方へ振り返ると、彼女もまた他のNOA11人と同じ様に、静かに、だが悲しそうな表情を浮かべていた。

「知ってたのか」

「…まあ、聞けよ大将」

 墨染は顎で会長の方を示す。

「近々、狂餐種はいなくなる。するとどうなる?我々の存在意義は。仕事がなくなる?それは結構。私としては僅かな継続監視役を残し、他は別の役職を与えるつもりだ。荒れたこの地、この国を立て直す力はまだ必要だ。枯金会から離れ好きに生きても良いだろう。SEMも、NOAも」

 俺自身も考え始めていた未来。狂餐種が完全に淘汰されたら。地上で安全に暮らせる。自由な貿易も再開され人々の生活がマシになる。多分そうなる。そう、そこに不安要素など生まれるはずがないと思っていた。

「だが、そこでNOAを排除するべきだとする派閥があるという報告をうけた。それが誰とまでは問い詰めない。しかしNOAの破棄は認められるものではない。SEMとNOA…我々は同志だ。間違っても…妙な気は起こさないでくれ」

 会長の最後の言葉は、懇願か、警告か、俺には判断ができなかった。

「僕は認めないよ、NOAを…墨染を処分するなんて!何考えてんだよその嫌NOA派って!会長も甘い事言ってないでソイツら調べ上げて除名させたらいいのに!」

 高粱が椅子を後ろに跳ね飛ばすほど勢いよく立ち上がり声を荒げた。

「まあ落ち着きな若」

 高粱の隣の山梨代表桔梗は飛ばされた椅子を戻しながら高粱を宥める。

「今は無用な衝突を起こすべきではない。狂餐種が減ってきているとはいえ今尚NOAもSEMも総員で事にあたらねばならん。戦力を減らす余裕もなく、故に諸君らの良心に頼りたいのだ」

 会長は淡々と応える。目元が覆われている為に表情が伺い知れないが、その言葉からそれは打算的な理由であり、会長自身も決して嫌NOA派を甘んじて許容している訳ではないという意思が受け取れる。

「ま、仕方ねえよな。あっしらNOAは兵器だかんな。あんたらとは段違いの力を持ってる。博士の傑作たるNOAと、その二番煎じで作られたSEM…しかもSEMの血が薄まった子孫のあんたらじゃ比べもんになんねえだろ?なんならここの全員で束になったってあっしらが勝つよ」

 実際には子孫ではなく“生き証人”と云われる初代SEMが2人居るが、それもNOAからすれば大差無く、考慮する意味もない事なのだろう。47人と12人、その数の差でも勝てるという自信にもなんら疑問はない。実際それだけの戦力差も墨染と共闘してきて痛いほど理解している。

「『力』が不要になったら、いつまでもそれを持ってる方が危険だと…そう思われてんだよ。あっしらは『意思』を持ってるからな。少しの気まぐれで今度はNOAがこの国を滅ぼす側にもなる」

「ならないよ!墨染は…」

「そうだな。若がそう信じてくれるだけでいいんだ」

 すわ再び椅子を蹴り倒さんという勢いの高粱を宥めるように、墨染は慈しむような表情で高粱の頭を撫ぜる。墨染にはこういう母のような挙動をみせる所があって、その結果か高粱などは特に墨染への愛情、執着が強い傾向にある。

「だけど…人とは違う力を持ってる兵器…それはNOAだってSEMだって同じでしょう?力の差があるだけで…」

 次に疑問を挺したのは、愛媛代表の篠。しかしすかさず兵庫代表の梶が対抗する。

「力の差?それだけやあらへん。NOAに関するデータ知らんわけないやろ?異常な身体能力、再生能力、不老、獣化、無痛、生への執着、一部感情の欠如。人とは…僕らとも似ても似つかん、人の形してるだけのバケモンや」

 怪訝な表情を浮かべる梶からつらつらと流れ出る生態の羅列。どれも過去の調査記録にて報告されていた事実ではあるが、そこはかとなく嫌悪の感情が含まれているように見える。

「お前!」

 突如近畿地方担当のNOA、類嵐たぐいあらしが梶へと刃を向けた。その鉄爪は今にも梶の首を掻き切らんとする位置にあり、ただならぬ憎悪を表情で顕にしている。しかし梶の方は微動だにせず平然と、笑みすら浮かべた。

「ああこわ。自制も効かんケモノはこれやから…」

「ええ加減にしいや梶。嵐も…ここで手出したら終いや」

 なお類嵐を刺激しようとする梶を、京都代表―現在の首都“岡京広域連合”の首長の一角たる紫苑しおんが制止する。

「…御大…」

 類嵐は紫苑にしか懐いていないと評される通り、その言葉には素直に服従し身を退いた。

「すいません。うちのが騒いでしもて」

 紫苑はざわめく一堂に対し深々と頭を下げた。

「アイツ確実に嫌NOA派だな。類嵐煽るのが目的だったろうな。紫苑が止めてなきゃここでドンパチおっ始めてたかも知れねえ」

 万作の推測には概ね同感できる。梶の言葉は明らかに類嵐を扇動する為のものだった。紫苑が凶行を制止したとはいえ、類嵐の暴力的な行為を周囲に見せつけた事には変わりない。梶は嫌NOA派を正当化する口実を得たかのようなしたり顔をしている。

「どうしてそこまでNOAを…」

「皆がみんな、過去を受け入れられる訳じゃねえのさ。ここにいるSEMらは大体が家族を狂餐種に殺されてる。自らも身体を持っていかれてたりな。その仇に近いNOAを信じられなくても不思議じゃねえ」

 万作の言葉通り、俺自身も東京代表の前任たる父を狂餐種の討伐中に亡くし、右足を引き裂かれ義足の身になっている。しかしそれによって狂餐種を憎むことはあれど、NOAまでその対象となった事はない。

「はあ、やだねえ。こんなにギスギスしちゃってさ。一世紀近くも人に…SEMに寄り添ってくれたNOAと敵対なんてしたくないよあたしゃ」

 深くため息をついた桔梗は墨染を抱きしめた。



 帰路の輸送車の中、富士山周辺に差し掛かった頃、ふと墨染が呟くように言葉を洩らす。

「…陽光ようこうっているだろ。北陸担当のNOA」

「あの偉そうな蛇」

 高粱はやけに棘のある語気で言い放つ。陽光と高粱の間で何かひと悶着があったらしい事は想像に容易い。陽光は嫌味や皮肉を得意とするらしく、似たもの同士はぶつかりやすい、の例に漏れずというわけだろう。

「アイツ…何考えてっか分かんねんだ」

「陽光がなにかするって?」

 墨染は静かに頷き続ける。

「…そもそもさ。狂餐種は人間を淘汰する為に作られただろ。その狂餐種を作った人物があっしらの親。だとしたら博士…かーちゃんの理想を拡大解釈してNOAの存在意義も同じだと考えてても不思議じゃねえ」

「そんな、それじゃあNOAの方だってSEM…人間を裏切るかもしれないって事か?」

「可能性の話な。実際どう思ってんだかは陽光のやつ問い詰めなきゃ分かんねえ。嫌NOA派の話が出た時だって不気味なくらい大人しくしてただろ」

 短絡的な墨染にしては珍しく、眉をひそめ深く考え込んだ後、言葉を続ける。

「NOAは大体バカだが、アイツは賢い。賢いからこそ処分されかけたしな」

 墨染は馬鹿、と端的に称するが、事実NOAの唯一人に劣る点が知能であると言われている。

「処分…て、昔に?」

「そ。それもかーちゃんが庇ったから見逃された…だからマザコンに拍車かかってんだよな…。んで、賢いっつー事は、自分で考えて、自分で判断出来るっつー事だろ。枯金会の思い通りに動かない危険性があるっつってな」

「『意思を持った力』が只でさえ取扱注意で、その上『知識』まである…そりゃあ危険だね」

 桔梗は他人事のように言うが、それも“そんな事など気にしていない”故の事だと図り知れる。彼女はNOAの力が危険であると理解した上で、全面的にNOAを信頼している。力ではなくNOA自身を見ている。その表れだ。

「だよな。あっし馬鹿でよかったぜ」

 墨染は自虐のように笑って言う。しかしすぐにその顔つき真剣なものに一変した。

「ん…なんか…匂うな。近くに狂餐種がいるか?」

 墨染が頻りに鼻を微動させる。この中で一番嗅覚が優れているのが墨染であり、俺などは特に嗅覚が鈍いので、墨染が今感じている匂いとやらを把握することが出来ない。

「いんや。姿は見えないね。霧があるからよく分からないが…」

 横の窓から周囲を見渡す桔梗に続き、俺も外の景色に目をやるが、うっすらと霧が立ちこめていて生物の存在は確認できない。

「うお!」

 その時、万作が吃驚きっきょうの声をあげブレーキを踏み込む。車内を衝撃が襲い前方の席へ叩きつけられた。

「あー!姐さん達やっと帰ってきてくれた!」

 ぶつけた頭を摩りつつ前方を見ると、腕を上で振りながら跳ね跳び存在を主張する小柄な少女が霧の中に見て取れる。

「轢いちまうとこだったぜ、あぶねえな…姐さんとこの部下かい?」

「大葉…なんだいわざわざ出迎えなんて…」

 大葉と呼ばれる少女は車の側面に移動し、桔梗が開けたドアからスルリと入り込んできて桔梗に縋り付く。

「姐さん姐さん姐さん!大変なんす!めっちゃ強い新種が現れて!あたしらだけじゃどうにも出来なくて!NOAいないと無理っすよあんなん!」

「どこ?」

「もうこの周辺っす!あたしが囮で皆を逃して、そのままあたしも逃げてきたんすけど…」

 大葉が必死に状況を説明するさなか、けたたましい咆哮が周囲に響き渡り、大葉が涙を湛え悲鳴をあげる。

「うわー!追ってきてたー!」

 車外へ出た俺達の眼前に現れたのは薄灰の巨大な狗の形をしたもの。周囲を警戒するようにグルグルと呻き声を発している。

「こりゃあでっかいわんちゃんだこと」

「こんな近くにいたのに気づかなかったぞ…どこに隠れてたんだ」

「そいつ消えるんす!」

 桔梗の後ろにしがみついている大葉は、怯えつつも確りと敵の情報を伝えようとしてくれている。

「消えるぅ?光学迷彩かい?」

「そうじゃなくて…こう、シュワーって」

 今まさに、大葉の言葉通りに狗は霧の中に溶け込むように消えていった。

「なるほど。こんな能力見たことないよ、どうなってんだい」

「この周辺の霧全部が奴って事か?」

「そ、それだけじゃないす!その水分が」

 大葉が全てを言う間もなく、俺の眼前をすり抜けて何かが桔梗と大葉の方へ飛来していった。

「うぐぅ…!」

「大葉!」

 大葉の左腕を裂き、そのまま地面へ突き刺さったのは鋭く尖った氷塊だった。

「氷になって襲ってくると…」

 氷塊を見下ろす万作は煙管の灰を氷塊へ落とし穴を穿つ。

「大葉、あんた引いてな。高粱、塹壕と手当て頼むよ」

「了解」

「はい…いてて…面目ないす…」

 桔梗は大葉を抱えて高粱に預ける。そして懐から骰子を取り出し四方へ投げ飛ばす。しかし霧相手ではなんの抵抗もなく、骰子はどれも霧の奥へと消えて行った。

「うーん。やっぱり霧の状態じゃあ攻撃したって効く様子がないね」

 そうしている間も続く氷塊による狙撃。精密性はさほどではないが、こうも数多の弾が無差別に飛んでくるようでは下手に動くこともままならない。

「俺の火で蒸発させようか?」

「やめとくれよ。あたしらまで干からびちまう」

 氷塊は桔梗と万作の周囲を飛び交う。音を殺しつつじっと集中し観測すれば、その速さは見切れない事もない。軍刀を抜き、試しに一閃すれば、鋭い音と共に二つに裂けた氷塊が地面に落ちる。

「これくらいなら討ち落とせる」

「さっすがあ。じゃあ任せたよ大将」

 対空役に名乗り出た俺は万作、桔梗、墨染の前方に進み出る。とはいえ、かの狗が周囲の霧に紛れているとすれば、その陣形に前方も後方もないのだろうが。

「霧なぁ…あっし役に立つかな」

 一方で、いつもは猪突猛進に突っ込みがちな墨染も、こればかりはどうしたものかと二の足を踏んでいる様子だった。

「やるだけやってみな」

「あい」

 万作に促され、墨染は鼠へと姿を変え俺の肩に飛び乗る。鼠ではあるが、背にはゾルと言われる磁性の流体を針のように尖らせた形で纏っている。その姿は一目ではハリネズミにしか見えないだろう。そして墨染はゾルを幾多もの方向へ飛ばして霧散させた。

「…妙だな」

 しばらく動きを観察した墨染はポツリと呟く。

「マーキングはしたが…意思を持って動いてるようじゃない。ただ漂ってるだけ」

 チラホラと周辺に浮かぶ黒い粒は、墨染の言う通り周囲の霧に紛れて浮遊するのみ。霧に溶けゆく姿を目の前で見ていなければ、その中に狗が擬態しているとは想定もできないだろう。

「これだけ打てばどれかは本体の霧に当たってると思うんだがな…また狗の姿になる時にしか動かねえのかも」

「それならそれで動いた時に教えてくれ。流石に狗の姿の時には叩けるだろ」

 一進一退叶わず、しばらく奴の狙撃を俺が討ち落とす膠着状態が続いたが、向こうさんはしびれを切らしたのか、再びあの咆哮が轟いた。そして視界の霧が歪み、じわりと巨狗の姿が現れる。万作は好機だと云わんばかりに煙管を構えた。

「旦那!違う、そりゃ本体じゃねえ!」

「わかってるよ」

 それを見た墨染が声を上げるが、万作は一笑に付して狗とは別の方へ向かって行った。一刻の間があいた後、悲痛な狗の鳴き声が聴こえ、やがて霧中から白い犬を抱えた万作が凱旋した。

「俺は耳が良いんだ」

 万作は犬を地面に転がし、それを何事かと俺達が囲み凝視する。

「元々あのデカイ犬が本体じゃなかったのか。霧に映した幻影…」

「こんのちっこいわんころがねえ。やってくれるよ」

 対空役として周囲を警戒し続けていた疲れがどっと出たのか、俺は力なくその場にへたり込む。

「大将もおつかれさん」

 いつの間にか人の姿に戻っていた墨染が、またいつものように俺の頭を撫でた。

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