第7話

「これは……貴様っ!」


『それ』を見た瞬間、男爵は激昂して立ち上がった。

 まな板に載せられて尚ふてぶてしいその魚は、でっぷりと太った黒い斑模様。

「ご存じの通り、水吐き魚です。男爵にも大層『馴染み深い』魚だと思いますが?」

 彼に合わせた嫌味っぽい口調で、しれっと返す。

「子爵婦人! これは一体どういう事か、ご説明頂けるんでしょうな!」

 俺の態度に腹を立てたらしい男爵は、今度はエレーナさんに八つ当たりめいた言葉を放つ。しかし彼女はそんな彼の言葉を軽く受け流す様に微笑みすら浮かべ。

「どうもこうも。今日、私はこの水吐き魚を口に致します。フレイマージェ男爵におかれましては、貴族の務めとしてどうぞ最後までお見届けくださいな」

「な…………」

 彼女の言葉に、何も返せずただ口をパクパクさせる男爵。

 そんな彼を無視する様に、エレーナさんは俺に頷いた。

「始めてください」

「かしこまりました」

 彼女の命に従い、包丁を手に仕事を開始。久々に扱うにも関わらず、俺の両手はしっかりと仕事を覚えてくれていてトラフ……水吐き魚はあっという間に三枚おろしの姿となった。


「ふ……ふざけるな! 何なんだお前は! 私に命乞いをする為に呼んだんじゃあ無いのか!?」

 興奮し、ついに素が出たらしい男爵が小者感いっぱいに怒鳴る。

 まあ、長年狙っていてようやく自分になびくと思った女がいきなり「これから私死ぬからお前ちゃんと見届けろよ」じゃあ、その気持ちも判らなくは無いけれど。

「その様な事、私一言でも口にしましたかしら?」

挑発する様な瞳で、エレーナさんは彼を見つめる。その表情はいっそ楽しげだ。

「不愉快だ! 帰らせてもらう!」

 言い捨てて場を離れようとした彼に、しかし――


「座りなさい」


 今までに聞いた事の無い、重く鋭い言葉でエレーナさんが『命じ』た。

 直接言われた訳でも無い俺の心臓が縮み上がる思いをした程の、強いその言葉に男爵が思わず「ひっ」と小さく悲鳴を上げた。

「聞こえないのですか、男爵。座りなさい。座れと言っています」

 それはあまりにも圧倒的な『貴族感』

 子爵と男爵という格の差以上に、貴人としての格を見せつける様な彼女の姿に俺は改めて畏れの様な気持ちと感動を抱いた。

「この私、エレーナ リーンハイム子爵は己の名誉を守る為に、今宵この水吐き魚を口にするのです。あなたも貴族ならその名誉に掛けて責務を果たし、最後まで見届けなさい」

「う……あう……」

 エレーナさんの迫力に気圧された男爵が、弱々しく席に着く。

 それを横目に見ながら、俺は黙々と手を動かし続けた。



 ☆



「お待たせいたしました。本日の晩餐はこちらの二品になります」


 調理した皿を二品、ふたりの前に供する。

 これに男爵が手を付ける事は絶対に無いけれど儀礼上、そして何よりも嫌がらせとして俺は二品の料理を二人前作り上げたのだった。

「貴様……」

 男爵が恨めしそうに俺を睨むけれど、そんなのはどこ吹く風。まったく相手にしてやらない。それよりもエレーナさんの動向の方が遥かに気になる。


「まあ、どちらも美味しそう。シンゴさん、これはどういったお料理なのかしら?」


 エレーナさんは豪胆にも微笑みすら浮かべ、俺の供した皿を興味深げに見つめている。

「こちらは白子という内臓の揚げ物。私の故郷に伝わる『天ぷら』という料理です。焼き物の方はフィレのソテーにございます。まずはこちらの天ぷらからどうぞ。冷めると味が落ちますので」

「そうですか。では、失礼して早速」

 俺の奨めに従い、彼女はフォークを手に優雅な物腰で口に運ぶ。差向いに座る男爵が思わず声を飲んだ。

 揚げたての天ぷらを口に入れたエレーナさんは、その熱さに一瞬だけ目を丸くしたものの貴族としての品格を失う事無く優雅に食し続け、一息付いてから顔を綻ばせた。

「とても濃厚なお味で驚きました。そして回りはサクッとしているのに中は熱くてトロトロで。こんなにも熱いのなら最初に言って下されば良いのに、意地の悪い事」

 お茶目に文句を付け足す彼女に、俺も笑顔で返す。

「申し訳ございません。二口目はこちらのチャムーを絞ってからどうぞ」

 レモンそっくりのチャムーを、彼女の皿に絞り掛ける。柑橘系特有の鋭い芳香が辺りを包んだ。

「あら……このチャムーの酸味が加わるとまた一味変わりますね。味付けはどうやら塩だけの様ですが、実に複雑な何層もの旨味を感じます」

「お気に召したのなら、冥利に尽きます」

 和やかに料理を供す俺と、それを食べるエレーナさんを、今や男爵は亡霊でも見る様な目つきで見ている。まあ猛毒の魚の、しかも一番毒性が強いと言われている内臓を主人に食わせる料理人とそれを美味いといって食う主人。はたから見たら大層頭おかしく思えるだろう。

「これは今までに頂いた事の無い、素晴らしい料理ですわ……男爵、あなたもおひとついかが? 冷めると味が落ちましてよ?」

 白ぶどう酒で喉を潤しながら、エレーナさんが楽しそうに声を掛ける。もちろん彼はそれに応える事などできない。

「では、こちらの皿も頂いてみましょう……まあ、こちらも美味ですね。とてもお魚とは思えないみっしりとした歯応えに、噛めば噛む程味が染み出る様」

「はい。この魚は大変に身が硬いのですが、要所に隠し包丁を入れてあるので食べるに不便はないかと思います」

「ええ、歯応えは強いのにとっても食べやすいわ。そして、まるでお肉の様に感じるのはその身の弾力と、こちらのソースのお蔭かしら」

「はい。白黒牛の乳から作った乳脂に、ファブルスコ酢を合わせました」

「これは素敵な組み合わせね。乳脂の深いコクと、赤ぶどう酒を煮詰めて作るファブルスコ酢の甘味と酸味が素晴らしい調和を見せています」

 さすがに料理店のマダムだけあって、彼女の感想は的を得たものばかり。作った身としては正に報われる瞬間だ。

 優しい笑みを浮かべつつ優雅な物腰でグラスを摘まみ、ナイフとフォークを動かすエレーナさん。

 反対側を見れば、蒼白な顔になり小刻みに震えながら彼女を見つめる男爵。

 これだけを見ると、どちらが毒を食べているのか判らない。少なくとも俺には逆に見える。

 ここで最後に駄目押し。

「子爵婦人。どうやらお客様はお出しした料理がお気に召さない様です。勿体無いので私がご一緒してもよろしいですか?」

「ええ。よろしくてよ。私も一人ぼっちの食事は寂しいと思っていた所です」

「では、失礼致します」

 彼女の右隣の椅子を引き、男爵の前の料理を当然の様に俺の前に置き直す。

「シンゴさん、とても美味しいお料理をありがとう。これでもう思い残すことは無いわ。最後に一杯、お付き合い頂けるかしら?」

 子爵婦人が自ら、お抱え料理人のグラスにぶどう酒を注ぎ入れてくれる。

「勿体ないお言葉です」

 グラスを手に取ると、彼女もグラスを掲げる。それをチンと小さく合わせて。

「乾杯。私達の、最後の夜に」

「最後の夜に」

 唱和してからグラスに口を付け、遠慮無く料理に手を伸ばす。


 ――うん。我ながら、美味い。


「わ、私はしかと見届けた。これにて失礼する!」

 俺達の『最後の晩餐』をおののいた目で見ていた男爵は、ついに耐えられなくなったのか、席を立つとまるで逃げる様に店を出て行った。

「まあ、お行儀の悪い。あれで爵位持ちとは、世も末ですわ」

「本当ですね。港の漁師達の方がよっぽど紳士的です」

 微笑みを浮かべ、俺も頑張ってそれっぽく振舞いながら食事を続ける。

 それはこの世界に来て、もしかしたら一番和やかな時間だったかも知れない。


 この夜。

 何者かに火を放たれた海龍の鱗亭は瞬く間に火が回り、全焼した。

 その火勢は凄まじく、焼け跡には炭と灰以外何も残らなかったという。

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