トラフグの思し召し
いさを
プロローグ
人生の転機なんてものは、唐突に来るものらしい。
俺の場合は後輩の運転する車の助手席で、ほんの数分居眠りしている間に訪れた。
突然ガシャンと響いた音と、不快な衝撃。
慌てて目を覚ますと、目の前にはひしゃげたボンネット。その先端は物凄く高そうな黒塗りセダンの後部にぐっしゃりとめり込んでいる。エアバッグが作動していないのが不思議なくらいの、それはもう見事な追突事故だった。
相手の車のドアが一気に三枚開く。
出て来たのは全員、ダークなスーツにオールバックのサングラス。
うん。こちらも見事なくらいにテンプレな怖いお兄さんじゃないか。彼等は瞬時に俺達の乗った車を取り囲み、その内の一人が運転席のガラスをコンコンと小さくノックする。まるで軍隊か警察の特殊部隊みたいに統率の取れたその動きは、「出て来いやゴルァ!」とか怒鳴られるよりもはるかに怖い。
「お、俺、ついウトウトしちゃって……先輩、ど、どうしたら……」
運転していた後輩が、すがり付く様な瞳を向けながら涙声で零した。こいつはまだ二十歳にも満たない若造で、ロクに人生経験も積んでいない。自分が引き起こしてしまった惨事に、どうしたら良いかも判らなくなっているのだろう。
……まあ板前になって十余年、三十路に近づきそれなりに経験を積んできた自負のある俺も、さすがにこんな黒塗りの高級車に突っ込んだ事は無かったが。
「いいか、まずはちゃんと謝って誠意を見せるんだ。とにかく俺の真似して頭を下げろ」
ガタガタと震える後輩をなだめながらシートベルトを外し、ドアノブに手を掛ける。
確かに事故を起こしてしまったのはこいつだが、この年末の繁忙期に仕事で散々こき使った挙句、通勤の足にまで使っていたのは他ならぬ俺だ。店の先輩としても年長者としても、責任は取ってやらなければならないだろう。
ドアを開け、車から出たらすぐさま直角に頭を下げる。
「申し訳ありません! うちの若いのがとんだご迷惑を!」
釣られる様に運転席から這い出た後輩も、俺に倣って頭を下げた。
無言で俺達を見下しているであろう、黒服達。
ただただ頭を下げ続ける俺達。
まるで時間が止まったかの様な、重苦しい空気が張りつめていたその時。
「お兄さん達。まずは頭を上げなよ。こんな寒い所じゃあ、なんだから。うちの事務所でお話しようか」
相手の車の、四枚目のドアが開いて最後の乗員が現れた。
それは予想外に、若い女性の声。
しかし。声の質と言い、醸しだす雰囲気と言い、明らかに並の相手じゃあ無い。
恐るおそる頭を上げて視線を向けると、そこには高そうなスーツをぴっしりと着こなした、細身の女性が凛と立っていた。
年の頃は見た感じ俺と同等、三十手前くらいだろうか。
烏の濡れ羽色としか形容できない長く綺麗な黒髪をサラリと流し、細面の顔立ちに意志の強さを思わせるつり上がった眉と切れ長の瞳。
名工の作り上げた彫刻の様に高く整った鼻と薄い唇。
まごう事無き美人だった。
彼女は俺達を興味深そうに見つめながら、ただ立っている。
ただ立っているだけなのに、背後から『ゴゴゴゴゴゴゴゴ』って効果音が聞こえそうな程の迫力を背負いながら。
ああ。俺の人生、ここで終わるのかも――
飛びかける意識を必死に堪えながら、俺はどうにか「はい」とだけ答えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます