Re,
外並由歌
龕灯返し
Return
唐突に、世界の何かがすり替わってしまうこと。たとえば景色、たとえば法則、たとえば良心、など。
不思議の国のアリスが好きだった。当たり前のすべてがひっくりかえったような、そういう異常の場所に憧れた。あの話は夢で終わってしまうけど、もし私が不思議の国に迷い込むなら現のままであってほしい。
そんな夢想を世界のすみっこで温めていただけだ。
「ねえ
昼休みに私の席をちょっと通りがかったついでみたいに、
自分でも気が滅入るような暗い声で「あ…、ちょっと……」と煮えきらない返事しかできないのを、彼女は手をつかまえてまで、なんだかきらきらした瞳で言い募る。「帰りは? ひとり? 誰かと一緒? 駅前のクレープ新作出てたんだけど食べにいかない? あたし奢るし…!」ひとと話すのに慣れてないから返すべき言葉が頭の中で散らかってわからなくなる一方、そんなばっちり化粧して大人びた顔立ちでそんなにどうしようもなく可愛い表情するものじゃないよって変な口説き文句みたいな言葉だけが浮かんでいる。さすがに口には出せないので黙って俯いていると、隣の席に戻ってきた
「こ、こまっては、ないけど」
「本当!? じゃあ――」
「で、でも、今日は、ちょっと……よ、予定が」
本当は予定なんかないので苦しい言い訳っぽさが滲み出ていそうだった。ただ彼女の方も必死なので気付かなかったらしく「ええ? じゃあ明日! 明日ならどう?」と続く。断りきれなくて結局明日の放課後に予定が立ってしまい、なんだか途方にくれながら、意気揚々と自分の席へ戻っていく基村さんの、背中に揺れるエアリーな赤毛を見送る。
同じところへ視線を投げていた下川君がぽつりと、誰かと帰んの、と問うてきた。「うそでしょ、予定があるっていうの」ああだめだ。こっちにバレてる。
「俺、途中まで帰り道一緒なんだけど。知ってた?」
そんな静謐な瞳で流し目なんかするものじゃないよ。
昨日、からだった。朝目覚めたときから何かが変だ、ということには感づいていた。なんというのか、空気感、のようなもの。いつも通りのアラームの音、鳥の声、朝食の香り、朝日の照射が、いつもと全く違うような変な感じ。
次にダイニングへ出たとき、母がなんだかとてつもなく愛おしいものをみるように微笑んだので、明らかに不思議だった。べつに家族仲は悪くないけど、まるで十年ぶりに会ったか、これから十年会わなくなるか、そのどっちかみたいな表情だったのだ。「
妙な不安を抱きながら学校へ向かうと、その道行きでやっと、なんとなく状況を理解し始める。なんだかよくわからないが、誰も彼もが私のことをひどく愛おしく思い、もしくは途方もない好意をよせて、大切に扱ったりちやほやしているらしいのだ。登校中どころか教室でも言葉を交わさないクラスメイトが物凄く嬉しそうにおはようを言い、バスで隣に座る。校門に立つ先生が、わざわざ呼び止めて課題の出来を褒める。教室に入ると空気が華やいで、これまでの人生分くらいいろんな人と挨拶した。前日まではそんなことなかったはずで、困惑していた。いや、確かにある日突然世界がひっくりかえったらとは、夢みていたけど。
自転車通学の下川君に合わせて途中まで歩きながら、こういうのは困る、とどこかへ向かって念じる。基村さんも下川君もすてきな人だと思うし、他の人のことだってすきだけど、こんな、わけもなく好意を寄せられるのは……困る。私には返せるものが何もないし、そんなちやほやされるような価値があると自分で信じていないのだ。
クレープ食べにいくの、と手探りっぽい問いかけを受けながらちょっと泣きそうだった。いろんな人と話せて嬉しい。空想ばっかりしてて友達をつくるのをさぼってきたから、声を掛けてもらえるのはとってもありがたい。ありがたいけど、それに胡座をかくのは恥ずかしい。なのにろくな返事すらできない。「行くの、かも……」
「嫌なら断りな」
「嫌じゃないよ、嫌じゃないんだけど……」
ふ、と笑う吐息がやさしい。「人がいいんだ、出口は。」
いいわけない。だったら順番を守って今日基村さんとクレープを食べにいくべきだった。
そんな簡単なことすら分からないような人間のこと、人がいいだなんて言わないでほしいのだ。その誤った評価は後々あなたを傷つけるか、あなた自身の価値をきっと軽くしてしまう。
三十分くらい歩いてバス停で別れると、バスの中で
那須さんはびっくりしたみたいで、だけどすぐに笑ってみせた。「未雲ちゃん。ひさしぶりだね」懐こい笑い方は相変わらずで安心してしまう。けれど同時に、私は遠慮して苗字で呼んでしまったのに彼女が名前で呼んでくれたことを申し訳なく思う。
「あの……今、なんで、目そらしたの?」
「あ……、…ごめんね、その、覚えてもらえてる自信がなくて……」
私が座らないままバスが発車するので慌てて彼女が手を掴んでくれた。危ないから座って、と隣を示してくれるけど手は繋いだままなの、彼女も別に他の人と一緒で私のことが無闇にすきな証拠なのだと気づいてしまう。いそいそと腰掛けながら少しがっかりして、だけど彼女の言うことは妙に腑に落ちたので、「覚えてるよ」とだけ、返す。その返事だけは辛うじて、好意に応えられるものだと分かったから。
バスが高架下に入った。その一瞬、灯りのないトンネルみたいに車内が一気に暗くなって、奇妙な感じがする。
気がつくと私と那須さんはただ前を向いて座っていた。「
「………話が、変わっちゃう、けど」
「なあに?」
「
彼女と視線が交わる。友達だって言える自信がなかったのは、距離を変えるのが怖くてたくさんの違和感を残したままだったから。
それが今、ぜんぶ、無くなった。
「あたりまえだよ。うれしい。」
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