第8話 返金
工場奥に設けられた小部屋から、大柄な男が肩をいからせながら、のっしのっしとこちらへ向かって歩いてくる。
男は黒いサングラスをかけ、黒く染めたガーゼで作られたマスクで口元を覆い、これまた黒いスーツで全身を固めている。
髪の毛とアゴ髭は、世界がこんな状況だというのにも関わらず一部の隙も無いほど完全に整えられており、彼が明らかに他と違う立場の人間だと示していた。
身長は180センチないくらいで、俺よりも少し高い程度であるのにも関わらず腕の太さなどは倍以上あり、もはや人間というより人食いクマとでも形容した方が納得できる体つきをしている。
俺は今までその姿を見たことなどなかったが、迫力や雰囲気で、彼こそがこの闇市をとりまとめているヤクザたちの長、春日であることに気付いた。
そんな春日は、完全に凍り付いた世界の中を横断し、俺の前にまでやってくる。
「おい兄ちゃん、今なんて言った?」
サングラスで目元は隠されているのにも関わらず、その視線は心臓をわし掴みにされたのかと錯覚するほど強い力を持っていた。
ただ、ここで俺も引くわけにはいかない。
大切な史の命運がかかっているのだ。
俺は下腹にぐっと力を入れて背筋を伸ばし、正面から春日を見返した。
「直接見ていないから、確実にそうだとは言いきれません。でも、その薬は風邪薬でない可能性が高い、と言いました」
やはり正面からとなると少し日和ってしまったが、それでも言うべきことはハッキリ言ったため、内心で及第点は取れたと自己弁護しておく。
「……つまり兄ちゃんは俺の
「はい」
それは因縁をつけているのと同義なのだ。
しかし、
「なるほど」
春日はすんなり引き下がると、薬を買ったばかりの男へ向かって手を差し出した。
「見せろ」
俺がただこの闇市の信用を落とそうとして騒いでいるだけかもしれないのに、それでも検証しようという姿勢をみせる。
なぜこの場所が信頼されているのか、その一端が垣間見えた気がした。
「……確かに」
春日は手の中にある薬をまじまじと見つめ、そこに工作の臭いを感じ取ったのか鼻を鳴らす。
確実に流れは俺に傾きつつあった。
「俺は昨日、薬を奪われたんです。その薬と同じものの可能性が高いと思いました」
ついでに薬の種類や特徴、買った男へ告げた薬品名を並べ立てていく。
それが春日の背中を押したのか、 人だかりに埋もれているバイヤーを怒鳴りつける。
「おい、なんでこんなに小さく刻んでやがる」
「いえ、自分は知り合いの親子から仕入れた物なんで……」
矛先が向いた事で焦ったのか、バイヤーは交渉をほっぽり出して春日の前に飛び出てくる。
残念ながらその姿に見覚えはない。
しかし、彼のその言葉から、なんとなく全容は推察できた。
「お前はコイツがなにか確かめもせずに売ったってことだな」
「それは……」
薬品名の一部だけしか分からないのに効果が本当に言われたものなのか、確かめる術は非常に少ない。
電気が通っていれば、ネットで検索でも出来ただろうが、今はそんな事望むべくも無かった。
「コイツの正体が分かるまで一旦取引は保留だ」
「そんなぁ」
バイヤーが情けない声をあげる。
数十円が情報量として通じる世界で、正規の値段が9000円もする薬を非合法で手に入れたのだ。
よほどの大金を支払っただろう。
それが偽物かもしれないとなれば、ショックは計り知れない。
「ただ……」
春日はそんなバイヤーから視線を俺に戻す。
そこには先ほど以上の殺気がこめられていて、思わず膝が笑い出しそうになってしまった。
「もし本物だったら、分かってんだろうな?」
「はい」
本物が手に入る事を売りにしている闇市で、偽物があると騒ぎ立て、それが間違っていたら……。
ちょっと考えたくない未来が待っているだろう。
しかし俺は確信を持っているため、もう一度力強く頷いた。
「……家にそれと同じ薬がありますし、それを写真付きで説明した紙も残っています。それを持ってきて――」
「いや、必要ない」
春日は俺の話を遮ると、首を振って部下の1人にアゴで指示を出す。
部下は走って奥の部屋にまで戻ると、何やら辞書のような物を手に戻って来た。
「調べろ」
「へい、兄貴っ」
工場の中に居る全員が固唾を飲んで見守る中、辞書のページがめくられる音だけが響く。
何気ない音だというのに、まるで死刑の階段を一歩一歩昇って行く様な気分にさせられてしまう。
やがて音が止み、部下が辞書を春日へと差し出した。
春日はそれに何度も目を走らせその内容を確認する。
さらに間違いが無いかと自分でも確認してから――俺ではなくバイヤーの方を向いた。
「まず、錠剤にきちんと文字が書かれている時点で怪しむべきだったな」
「え?」
錠剤には、万が一裸のままで混同してしまっても分かるように必ず文字が書かれている。
とはいえ錠剤が小さければ略称であったり頭文字だけであったりする。
史の服用していた錠剤も、頭文字が記入されているだけだった。
「パンデミック以降、薬は生産を優先して錠剤に文字なんてほとんど書かれてねえ。つまり文字が書かれてる時点でパンデミック前に作られた物の可能性が高い」
春日の説明で俺の疑問が氷解する。
俺は運がよく、史の薬を買う事はあっても他の薬のお世話にはならなかった。
だからそんな事になっているなんて知らなかったのだ。
「んでだ。文字を頼りに調べた結果、これは兄ちゃんの言う通り風邪薬なんかじゃあなかった」
「そんな……」
バイヤーの顔が一気に青ざめる。
風邪薬でないとしたら、儲けは間違いなくふいになってしまうだろう。
「こいつを風邪の時に飲んだら確実に死んでただろうな」
「なんだって!?」
「そんなもんを風邪薬だって売ろうとしやがったのか!?」
春日の言葉でそれまで黙ってみていた客たちが気色ばむ。
彼らは風邪の治療薬を求めてやって来たのだ。
自殺するための薬を買いに来たわけではない。
場の空気は一気に危ういものへと変化しつつあった。
「確認を怠ったお前が悪い」
春日はそう言うと、手の中にあった薬をバイヤーに押し付け、彼にとって絶望的な命令を下した。
「そういうわけだ、今すぐ買ったヤツに返金しろ。詫び付きでな」
詫び。つまり返金どころの話ではなく、更に追加で金を払わなければならないのだ。
しかも春日が具体的な額を提示したわけではないため、客が満足する額を支払わねばならなかった。
「そんな……」
「お前は俺のメンツを潰しかけたんだ、早くしろ」
バイヤーはがっくりと肩を落とすが、春日の言葉はこの闇市に置いて絶対である。
逆らえば彼は一生ここで商売が出来なくなるし、下手をすれば他所の闇市でも断られるだろう。
メンツや筋といったものを重んじるヤクザが取り仕切る世界は、自由経済の世界以上に厳しい顔を見せる時があるのだ。
「…………はい」
バイヤーは渋々といった感じで受け取ったばかりの紙幣を色付きで元の持ち主へと返していった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます