PUNK THIS TOWN

椎名ロビン

PUNK THIS TOWN


「金がねぇ」


二つ折りの財布を開け、レシート以外で紙に類するものが入っていないことを確認しながら、三船杏が苦々しげに呟いた。

この状況は二日前から続いており、その後特に収入なんてなかったので、中身が入っていないことくらい、確認するまでもない。

それでもこうしてわざわざ確認するのは、大きな声で聞こえるよう呟いたのと同じ理由である。


「ああ~~~~金がねぇ~~~~~~っ!」


乱暴に、財布は卓袱台へと放られた。

小汚い卓袱台の上には、僅かに中身が入ったまま数日放置されているストロングゼロのロング缶や、煙草の空き箱が乱雑に置かれていたが、幸いにも何かを倒してしまうようなことはなかった。

もっとも、何かをこぼした所で、それを片付けるのは杏ではなく、こうして金がないアピールを聞かされている水野京なのだが。


「なぁなぁ、今、世間様じゃとんでもないウイルスが流行ってるわけだけどさ。やっぱちゃんと飲み食いしないとヤベェと思うわけよ。美味いモン、食べたくね?」


杏が天井を仰ぎ、それからゆっくりと後方へと倒れ込む。

いつでも“おっぱじめる”事ができるよう、居間のテーブルのすぐ傍に置いてあるクッションへと、赤く染め上げた頭を沈めた。

数多の染みで汚くなったクッションは、もうすっかり潰れきってしまっており、あまり衝撃を吸収してくれなかった。

「いってー、頭ぶった」なんて呟いて、傍らで洗濯物を畳む京へと視線を向ける。


「……あのさ」


はあ、と大きなため息を吐き、京は作業の手を止めた。

本当なら、あまりまともに付き合わず、さっさと作業を終えてしまいたい。

なにせ、洗濯物を畳んだ後は夕飯を作らなくてはならないのだ。


杏の言う通り、今は金が無いし、あまり迂闊に外に出ることもできない。

外食なんて出来ない以上、食事は京が作ることになる。

杏は作ろうとする素振りも見せないので。


「ご飯なら三食作ってあげてるじゃない」


さすがに少し頭に来たので、京が杏へと向き直る。

確かに決して料理が上手いとまでは言わないが、それでも一生懸命三食作っているのだ。

しかもその材料費は、全部京が出している。

なのにこの言い草は、さすがに聞き流せなかった。


「いや、まあ、そりゃ分かってるけどさぁ。たまには寿司とか食いたくね? あと、肉。高いヤツとか特に」

「そういうことは、自分のお金で食べていけるようになってから言ってよ。自分で稼いだお金で食べる分には、私だって何も言わないんだから」


前述の通り食費を出しているのは京だし、家具を買ったのも京。

というか、このアパート自体、京の名義で借りて京が家賃を払っている。

無論、水道費や光熱費、電気代等の諸経費だって京持ちだ。


極々稀に、感謝の印と言いながら杏が高いお店で食事を奢ってくれることはあるが、そのお店に週一ペースで一年行ける程度の額を、京は杏に貸している。

奢ってくれたことはあれど、返済してもらったことなど、ただの一度もなかった。


「んなこと言っても、仕方ないだろ……ライブはキャンセルになるしさァ」


杏が眉間に皺を寄せ、赤い髪を掻き上げてると、ジャラジャラと耳についたピアスを弄び始めた。

都合が悪くなった時、杏がよくする癖である。

一度それを指摘した際、何のことか分かっていないようだったので、本当に無意識なのだろう。

京は腹を立てながらも、その単純で分かりやすい杏の性質に、どこか愛おしさを見出してしまっている。


「ほら、それだってウイルスのせいだし、アタシ悪くないっていうか……あ、ほら、テレビでも言ってる!」


点けっぱなしのテレビ――勿論電気代に加え受信料も京の払いであり、だからこそ杏はどうせタダならと常にテレビを点けていた――では、ニュース番組が流れていた。

今やっているのは、今話題の新種のウイルスの話。

何らかの学者先生が、その凶悪さを熱弁している。

おかげで世間にウイルスへの恐怖心が植え付けられ、数多のイベントが全国的に中止へと追い込まれていた。


「なっ、ほら、なんかテレビでも色々言ってるし、金無いのはアタシのせいじゃねーじゃん?」


杏は、パンクバンドのボーカルとして生計を立てている。

嘘。バンドの収入では生活が全然成り立たないので、恋人である京により生計は成り立っていた。


まあ、兎に角、杏はバンドマンである。

食っていけているかはさておき、パンクを愛するバンドマンである。


ライブイベントが中止になれば、当然収入はゼロ。

それどころか、これまでにかけた費用を思えばマイナスである。


確かに、ニュース番組で報道されているように、ウイルスの流行が原因で数多のイベントが潰れており、そこに関しては、珍しく杏の言う通り、彼女に非があることではない。

もっとも、ウイルス流行前から常に金欠であり、ライブがあったらあったで、打ち上げ等で散財し、毎回赤字だったのだけれど。


「バイトくらいしたらどうなの。この状況でも、お店とかは開いてるじゃない。ほら、里奈ちゃんはちゃんと真面目にバイトしてたし、お金貸してなんて一度も言われなかったわよ」


里奈というのは、杏と同じバンドに所属していたギタリストの名前である。

音楽性の違いから三年ほど前にバンドを脱退し、今は別のメロコアバンドでギターボーカルをやっているようだ。

ジャンルが異なったため、同じイベントで観る機会はほとんどなくなってしまったが、今でもたまに個人的に連絡を取っている。


里奈は人当たりがよく、一介のファンだった時の京にも、気さくに声をかけてくれた。

杏との前恋愛相談にも乗ってくれたし、付き合った後はLINEを交換し、愚痴を聞いてもらっている。

あまりにも良い子すぎて、付き合うべきは里奈だったな、と思ってしまうことが多々あるほどだ。

まあ、里奈はノンケだったので、付き合おうと思った所で女の京にチャンスなんてなかったのだが。


「あのなァ、このアタマで雇ってくれる所なんてねーんだよ。落ち着いてきたらライブもできるだろうし、そしたら土日はライブで出勤できねーし、そうなると尚更どこも雇ってくれねーよ」


真っ赤な髪を、今度は意識して掻き上げる。

バンド結成以来、貫き通している真紅の髪の毛は、あらゆる接客業の面接で落とされる原因となっていた。


かつてツアーの旅費をメンバー全員で稼ごうという話になった時、一人だけ髪色が理由でアルバイトにありつけず、他のメンバーに旅費を稼がせたことすらある。

それが理由で当時のドラマーと不仲になり、脱退騒動を招いたことは、ファンの間では有名な話だ。


「髪色気にしないで働ける肉体労働だってあるでしょ」

「ばっか、お前、それでアタシが体壊していいのかよ」


その言い方は卑怯だ、と京は思った。

杏は活発ではあるものの、決して運動神経がいいわけではない。

スピーカーから足を滑らせて落下したこともあるし、客席からステージに戻る際に柵のボルトに二の腕を引っ掛けて流血したこともある。

注意散漫で激しい動きをしたがるくせに体が追いつかないあたり、幼稚園児と大差がないかもしれない。

まあ兎に角、本気で杏に肉体労働をしろなど、京は欠片も思っていなかった。


「それに最近都内の治安最悪だし、絡まれて死んだらどーすんだよ」


点けっぱなしのテレビでは、女性の惨殺死体が見つかったニュースへと切り替わっていた。

東京には人が多く、そしてそれに比例するようにロクでもない事件であふれているからだろうか。

最近話題の惨殺死体発見のニュースも、一週間もすれば自然に慣れてしまった。


嗚呼――と、京が眉をひそめる。


新卒で入った会社がパワハラだらけだった時から花の都東京なんぞに夢は見ていなかったが、住めば住むほど嫌な面ばかり目についてくる。

ひょっとすると、バンドの追っかけをするために会社を辞め、お水の仕事で稼いだお金を惚れた女につぎ込む自分も、“東京の嫌な一面”なのかもしれないが。

兎に角、テレビで事件現場周辺の映像が流れることには慣れていたし、何ならそろそろ慣れを通り越して飽き飽きしており、辟易している程だった。


「まったく……その髪の毛を黒くしたらコンビニくらいは雇ってくれるだろうに」

「ばーか、お前、トレードマークが無くなったらファンが悲しむだろうが」


派手な見た目と、流血も厭わないパフォーマンス。

まあ、後者は身体能力の低さのせいでもあるのだが、しかしそれらに惹かれるファンは少なくない。

京も、最初はそのインパクトに心を捕まれ、次第に歌詞のメッセージ性に心を囚われた。

その後何がどうして杏単体に入れ込んでしまったのかは、よく分からない。

恋と言うのは気が付いたら落下しているものなのだろう。


「ライブハウスなんてのは、アタシらみたいに世間に馴染めず、全然日常が満たされてないヤツらが集まるんだぜ。アタシだってライブハウスに心救われたしよォ。京だってそうだろ?」

「……まあ、それは、そうね。ただのメンヘラ社畜だったのに、ANZYによって救われちゃった」


ANZYというのは、バンドにおける杏の名前だ。

これでアンジーと読むらしい。

一般的にアンジーなら『ANGIE』と書く気がするのだが、その疑問をぶつけたことはない。

馬鹿に言っても不機嫌になるだけで、有益な答えは絶対返ってこないので。


「おかげで人生台無しだけど」

「破壊と再生ってヤツだな」

「違うんじゃない? ああ、いや、違わないかも」


ANZYが教えてくれたパンクロックが、死に瀕していた京の心を救ってくれた。

ANZYが教えてくれたパンクロックが、京を“普通の女”のレールに戻れなくしてしまった。

ANZYは、杏は、杏の鳴らしたパンクロックは、京を救い、そして京を駄目にした。


「兎に角アタシは、そーいう奴らの拠り所になりてーんだ。ガッカリさせたくねーの。学校に馴染めず孤独だったアタシを救ってくれた音楽に感謝してるし、恩返しをしてェ。他の駄目な奴らの心を、今度はアタシの音楽で救ってやりてーんだよ」

「まったく……私はお金を返してもらえたら救われるのだけど。まずはそういう簡単なことから始めなさいよ」

「京は、ほら、あれだ。ファンだけど、その前にアタシのオンナだろ。身内贔屓するわけにはいかねーって」


身勝手な理屈をのたくりながら上半身を起こす杏に、毒気を抜かれてしまう。

杏という女は、一言で言えば馬鹿だし、ロクでなしでどうしようもないヤツなのだが、しかしそこに惹かれてしまっているのは事実。

馬鹿丸出しで、現実の見えていない発言を繰り返し、しかし夢を追うその背中は、何より輝いて見えるのだ。


「それによォ、こういうどうしようもない世の中にこそ、音楽やパンクロックは必要だろ。いつだってアタシはパンクロックを掻き鳴らしてやりてえんだ。ステージ以外で体壊すわけにゃいかないだろ。だから、アタシがそうやっていつでも音楽をやれるよう背中押してくれる京には、マジ感謝してるんだ。ほんとありがとう。愛してる」

「……まったく、調子いいんだから」


これが惚れた弱みというやつなのだろう。

はあ、と大きくため息を吐いて、京は財布へと手を伸ばした。

今回だけよ、などと言いながら、一万円札を三枚渡す。

へへ、なんて言いながら、杏がそれを受け取って、ジャージのポケットへと捩じ込んだ。

それから、腰まである京の黒髪をついと掻き分け、お礼の口づけをする。

頬を赤く染め、嬉しさを隠しきれず口元を歪めながら、照れ隠しのように京が顔を背けた。


「……ねえ、また、ライブが出来るようになると思う?」

「んあ?」


顔を背けた先――窓の向こうに、マスクをつけた青年がバットを片手に歩いているのが見えた。

ウイルスの影響で、疑心暗鬼になっているのだろうか。

あたりを警戒するように、やたらとキョロキョロとしている。

誰かが足音でも立てようものなら、発狂して殴りかかりかねない雰囲気だ。

人の心から余裕が消えていることを、ここ最近は毎日痛感させられる。


「ウイルスで、本当に凄い状況だけど、また、ライブ出来るようになるのかな……」


自分を救ってくれた杏と彼女の音楽のためなら、全てを捧げたって悔いはない。

だがしかし、彼女の歌を二度と聞けなくなったとしたら、果たして生きていけるだろうか。

そうなった時、こんな醜い世の中に、しがみつこうと思えるだろうか。


「出来る。っつーか、禁止されてもやってやる。そもそもアタシは今ライブをやりてーけど、ファンを危険に晒したくねーから我慢してるだけだし。ファンや京がライブやらないせいでそんなツラになるなら、いくらだってやってやるよ」

「……本当に? お酒飲んだら面倒にならない?」

「……そういうこともあるかもしれねーけどさあ。あ、何なら今から演っちまうか?」


両足を綺麗に揃えてぴょんと飛び上がるようにして、杏が起き上がる。

あんまり可愛くないし格好良くもなかったが、触れないでおいた。

触れると拗ねるし、演奏してくれなくなることを知っているので。


「この部屋は音楽禁止。何度も言ったでしょ。配信ライブも当然無理」

「駅前かどっかでジャカジャカやりゃいいだろ。身軽なのはソロの特権だぜ」

「知らないわよ、お国に怒られても」


今、メンバーはベースボーカルの杏一人っきりなので、スケジュールはかなり融通がきいた。

サポートメンバーを雇ってはいたものの、杏の我儘な一面のせいで、つい先日サポートしてくれる知り合いがいなくなったところだ。

ウイルスのせいで中止になるまでは、イベントにはソロ参加で弾き語りをするつもりだった。


当然、新しいメンバーが見つかるような気配はない。

ウイルスとは無関係にこのままだと杏は音楽ができなくなるのではないかという不安も、家でゴロゴロしている杏に京がやたらと苛立つ理由の一つだ。


「元々パンクなんてのは、制度とか体制、常識に中指突き立てるもんなんだよ」


キメ顔を披露しながら、杏が格好つけてベースを鳴らす。

その長い指で奏でられる音に思わずキュンとするが、大家に怒られるから鳴らすのはやめてほしい。


「それによ、今の状況って実質パンクブームだと思うわけよ。死んだら終わりって常識に中指突き立ててるゾンビって実質パンクスみてーなもんだろ。第一次パンクブームも顔負けなほど、パンクスで溢れたパンクブームじゃねーか」


不謹慎すぎてライブ配信で言ってたら炎上してるな、と思う。

京自身は、こういう杏の馬鹿丸出しの発言が、正直好きではあるのだけれど。


ふと見ると、ニュースでは、再びウイルスの話題に戻っていた。

先程報道されたゾンビによるものと思しき惨殺死体は、謎のウイルスが蔓延しゾンビで溢れた都内某所と異なる場所で見つかったらしい。

封鎖された都内某所の様子を映しながら、どこからゾンビが漏れたのか、今はどこが警戒区域なのかと強い口調で議論を繰り広げている。


「下手すると、この辺も封鎖されるわよ」

「それならそれで、いくらライブやっても文句言われねーから結果オーライじゃん」

「……そういうポジティブな所は好きよ」


もっとも、本当にそうなった時、何だかんだと理由をつけて、まともにライブをやってくれない可能性が結構あるとは思っている。

格好いい信念を貫ける女であってほしいと思っているし、ステージ上の彼女は貫けそうに見えるのだが、別れようと定期的に思わされる程普段の杏はどうしようもなく駄目なヤツなので。


「凶悪なウイルスと、凶悪なパンクスが蔓延る街で、パンクロックを響かせる。死ぬほど格好いいと思わねえ?」


まったく、まるで現実を見ていない、馬鹿丸出しのどうしようもない発言だ。

嗚呼、でも、「杏と二人なら、封鎖された街の中、ゾンビに囲まれて暮らすのも有りか」なんて思う自分も、どうしようもないヤツなのだろう。


そんなことを思いながら、「だから家で演奏はやめて」と、再度ベースを鳴らした杏を小突いた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

PUNK THIS TOWN 椎名ロビン @417robin

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ