第11話 彼女はただの人間でしかない

 リディアは強い女の子だ。アデルはそのことを知っていた。誰よりも。


 アデルという名を頂くより前のこと、幼稚園に通っていた頃から大人しくて本を読むのが好きだった彼は、三月の末の生まれで体が小さかったこともあり、活発でやんちゃな同級生からはもっぱらからかいの対象だった。

 加えて、こちらでは〈妖精の目〉、向こうでは「霊感」などと称される能力のせいで、ほかの子どもと較べて言動がやや浮いていた部分もある。自分よりも弱いものを捜しては、自らの優位を主張して満足する、人間というよりはけものにまだ近い子どもたちの格好の餌食だったのだ。


 本人は、こいつら暇だなぁ、ていどの認識だった。

 その冷めた態度が逆に相手をつけ上がらせていたわけだが、それさえも彼には興味の外だった。


 小学校に上がっても、毎度毎度飽きもせずつっかかってくる餓鬼ども。

 幼稚園の頃は放っておけば先生が引き剥がしにきたものだったが、小学校に上がってから、やつらは少々知恵をつけた。

 先生のいないときにつっかかるようになってきたのだ。

 それでも本人は、こいつら飽きないなぁ、ていどの認識だった。

 変化は唐突に訪れた。

 毎度毎度飽きもせずつっかかってくる餓鬼ども――そして毎度毎度、本人が気にもしていない揶揄や悪口に、ばか正直に立ち向かっていった、一人の少女がいた。


 リディアという名を頂くより前の、栗色の髪の毛を男の子みたいに短く切り揃えた、よく言えば勇敢、悪く言えばお節介、『まえはらきょうこ』という名札をつけたお日さまみたいな女の子。


「またこいつ本なんか読んでるぜ」

「暗いしぜんぜん喋らないしつまんねーやつ」


 知恵をつけたけものが彼の座る椅子や机を蹴ったり、肩を小突いたりするたびに、「あー!」と高い声が教室の隅で上がる。


「もー! また意地悪してる! 先生呼んでくるからね!」

「げっ、まえはらきょうこ」

「ガイジンの子のくせに余計なことすんな!」


 と、こんな具合だ。

 彼女の住むアパートと、彼の住む家が近所だったこともあり、この頃から二人は一緒に行動するようになっていた。


「たまにはがつんと言い返しなよ!」

「ぼくが言い返す前にきょうちゃんが怒るからタイミングを逃してるだけだよ」


 嘘だ。本当はなにを言われたってどうでもよかっただけだ。

 彼の視えているものは彼にしか視えない。見えるものの違うやつらになにを言ったって無駄だし、わかってもらえない。とうに諦めていたし、受け止めてもいた。

 例えばいま、小学校を終えて家路を辿る彼女の肩に、ふよふよとまとわりつく黒い影。

 手を伸ばしてぱんぱんと叩くと、きゅ、と幽かな悲鳴を上げて霧散していく、人間以外のモノ。


「……なぁに?」

「なんか、黒いへんなのがついてたから」

「ええっ、虫? やだぁ」

「虫じゃないよ。ぼくにしか視えない変なもの」


 彼女はきょとんと、朝露に濡れる葉のような薄いみどり色の双眸を丸くした。


「そういえば、みんな言ってたね、いっくんは変なこと言うやつだーって」

「変だときみたちが思うならそうなんじゃない」

「いっくんにしか見えないのかぁ」


 むむむと眉間に皺を寄せて彼女は腕組みをする。

 子どもだったら「へんなの」「気味悪い」、大人だったら「嘘を言うのはいけません」「何もいないよ」。両親以外の反応はたいていこんなものだ。このときも、特に期待せずに歩きだした。


「じゃあまた教えてね」

「……ハ?」

「いっくんにしか見えないんでしょー? きょうこには見えないもん」

「……うん、まあ、そうだろうけど」

「じゃあまた教えてね! そのかわりきょうこは、かとうくんとかもりやくんにいつまでも言い返し続けるからね!」

「いや別にそれは放っておいていいんだけど……」


 いつの間にか彼女のなかでは交換条件が成立していたらしい。

 突飛な発想に呆れもしたが、まあ別に害があるわけじゃないからいいか、と彼は笑った。


 前原恭子は不幸な少女だった。

 大人しい性格と霊感のせいで周囲に馴染めなかった彼は、それでも親には恵まれていたと考えている。おおらかで暢気で優しい両親は彼の霊感のことも鷹揚に受け止めてくれていた。だからこそ、やたらとつっかかってくる小賢しいけもののことも、扱いにくそうに眉を顰める親戚や先生たちのことも、そう気にしていなかった。

 彼女は違った。

 一見朗らかで、よく笑い、授業中もよく発言する、正義感や責任感の強いしっかりした前原恭子は、その色素の薄い髪の毛と不思議な輝きの瞳のせいで、家族からこのうえなく拒絶されていた。

 だからこそ彼女はいい子だった。いい子でなければ今度こそ捨てられると考えていたに違いない。

 彼のことを庇ったのも、恐らくその強迫観念を薄めるのに都合いい案件だったからだ。


 彼を守ることで彼女は彼女自身を守っていた。

 そのことに早期に気づいたから、「女に守られてやんの」なんて文句が追加されるようになっても、好きにさせた。


 そのいびつな友情はいまでも続いている。

 この世界に来たいまも、互いの心にどうしようもない罪悪感を残して。

 互いのための桎梏としてあり続けながら、そうでないと息もできないかのように。


(でも、リディア……)


 リディアはまだ、戻れる。

 日本に戻って、家族とともに暮らして、素敵な大人になる、そんな当たり前の未来をまだ択べる。

 彼女だけが選別されて〈穴〉に落ちたのはその可能性があるからだ。魔法は使えず、魔術のセンスもない、本当にただの人間でしかない彼女はまだ日本に戻ってもやっていける。

 アデルにはもう待っている家族がいない。〈妖精の目〉はこちらの世界では役に立つ。視られることを嫌う種族も多いけれど、たいていは目を合わせてお願いすれば気持ちよく頼みを聞いてくれる。そこのところは精霊も妖精も人間も同じだった。

 だからアデルは、魔法使いの才能があるジャンよりも、魔法が使えた。

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