第3話 ホットミルク

「恭子?」


 知らない声だった。

 知らない人の声で呼ばれた自分の真名まなの異様な響きにぞっとした。

 それでも辛うじて足を止めたリディアに、もう一度「恭子」と声がかけられる。


 それは確かに、リディアがこの世界で名乗っていた、生みの親につけられた名だった。


 近づいてきた足音はリディアの横を抜けて、正面に立ち、止まる。黒いスニーカーの爪先から徐々に視線を上げた先には、大きな焦げ茶色の眸を見開いた青年の顔があった。


「恭子──恭子だろう? 前原恭子、そうだよな、その髪も、目も……」

「……わたし……」

「おれだよ」


 息せき切ってリディアの肩を掴んだ青年は「いや、判らないよな」と慌てて首を振る。短く切り揃えた黒髪にも、爽やかな顔立ちにも、こんなにも切羽詰まって自分の真名を呼ぶ日本の人にも、心当たりはない。


「前原泰希。おまえの兄ちゃんだ」

「まえはら……たいき」

「そうだ。おれが父さんと出ていったとき、おまえはまだ小さかったよな。憶えていなくても無理はないけど……ずっとおまえを捜してた……!」


 リディアに兄はいない。

 けれど、前原恭子と名乗っていたこの世界の少女には、兄がいた。

 どんな顔立ちだったか、何歳離れていたかももう思い出せないけれど、確かにいた。少女が小学校に上がったころ、父と一緒に家を出た、兄が。


「恭子、おまえいままで一体どこにいたんだ? あの男の子も一緒にいるのか?」

「あ……、あの、わたし、悪いけど憶えていなくて」

「ああ、そりゃそうだよな。おれだって、おまえのその髪と目の色がなかったら絶対気づかなかったと思うけど」


 兄と名乗る青年は、言葉が見つからないのか、もどかしそうに眉を寄せて口を噤んだ。なんらかの感情を振り払うように首を振って、「とにかく……」とリディアの目を見つめる。


「とにかく、どこかで話そう。喫茶店にでも入ろうか、恭子」


 リディアは逆らえない自分に気づいていた。

 恭子。生まれたときに親からつけられた名前。この世界の人々が何気なく口にするそれは、向こうの世界で六年を過ごした魔法使いの弟子にとっては立派な縛りだった。

 真名はひとの魂そのもの。呼ばれるだけで魂を握られることと同義。だから弟子たちは、師から新たな名を授けられた。

 恭子という真名をもつリディアはいま、この青年に魂を握られている状態にある。本人にその気がなくとも。


 でも、それ以上に。

 恭子だろう、と声をかけてきたこの青年の、半ばそうであってくれと祈るような声音があまりに悲痛で、気づけばリディアはうなずいていた。


 彼に先導される形で歩くこと数分、なんとかリディアが帰り道を見失わない程度の距離の場所にあった喫茶店に入ると、二人はちょうど空いていた窓際のテーブル席に座った。

 店内には四、五組ほどの客がいる。すぐに不愛想な店員が、とうめいなグラスに入った水と、温かい手拭きを持ってきた。


「なにか飲むといいよ。見たところ荷物もないみたいだし、お金のことは気にしないで、お腹が減っていたら食事も頼めばいい」


 差し出されたメニュー表を見て、そのあまりの種類の多さにリディアは眩暈がした。


 オクにあるマーサの食堂は、けっして広くない店内の壁に掛けた黒板に、その日の食材で作れるメニューがいくつか書いてあるだけだ。飲み物だって、お茶やミルクやジュース、あとはリディアたちの飲まないお酒くらい。リディアとアデルがお店に入ると、「今日のおすすめは鶏と赤玉葱のシチュー!」と笑って迎えてくれて、飲み物は決まってホットミルクを出してくれた。

 分厚いメニューのページをめくりながら、リディアは指で文字をなぞった。

 ひらがなと、かたかな。時どき、漢字。

 読むことはできるし、音も思い浮かぶけれど、それが一体どんな食べ物だったか、飲み物だったか、断片的にしか思い出すことができなかった。


「……わかんない」

「わかんないっておまえ……」

「……ホットミルクは?」


 兄と名乗る青年はほっとしたように「あるよ」と顔を緩めた。

 店員を呼んだ兄がホットミルクとコーヒーを注文して、飲み物が届くまでの間に、リディアはいままでの経緯をぽつりぽつりと打ち明けた。


 父が兄を連れて家を出たあとのこと。

 母が家に寄りつかなくなったこと。

 アデルの両親が亡くなり、ふたりで逃げだしたこと。

 逃げた先で雪の森に迷いこみ、魔法使いを名乗る一人の男に拾われ、家族には疎まれたこの髪や目を受け入れてくれたオクの町のみんなに育てられたこと。

 きっと兄にとっては荒唐無稽な話だったに違いないが、彼は一言も挟まずにうなずいた。


「そうか……」


 その反応に、リディアは逆に不安になった。

 憶えているかぎりではこの日本という国は、魔法はおとぎ話のなかのもので、現実に使えるはずもなく、また異端を排除したがる場所だった。生まれたときから親に似ない色素をしていたリディア、他の人には見えないものが視えていたアデル、容赦なく排除の対象となった二人はそれゆえ逃げたのだ。

 だからこそ、兄のこの反応の薄さは、おかしい。

 訝しむリディアに気づいたのか、兄は疲れたように笑った。


「それだけ目立つ容姿をした子どもが六年も見つからなかったんだ。死んだか、そうでなければ神隠しにでも遭ったか……それくらいのことは考えるさ」

「かみかくし……」

「神さまに攫われてしまうということだよ。聞いたことくらいあるだろ」

「うん、……あったと思う」


 曖昧に顎を引いたとき、店員が飲み物を持ってきた。

 明るい茶色の髪をした女性だ。染髪しているのだろうな、と思う。店内にいる他の女性客にも、明るい髪色をした人が見られた。

 子どものときはこんな髪のいろをしていて損ばかりだったのに、大人になったらみんな髪の毛を茶色くするのだ。

 ならばリディアはなぜあのとき、あんなにも疎まれなければならなかったのだろう。

 どうせみんな茶色くするのに?


 胸の隅にふっと湧き上がった澱みのような感情を誤魔化すように、ホットミルクを一口啜る。

 オクで飲むミルクのほうが何倍もおいしい。

 マーサの食堂で出すホットミルクは、鍋でゆっくりと温めた牛のお乳に、ベルトリカの森で採れるあけ咲きメリメの花の蜜が垂らしてある。温かい食堂でアデルと並んで、オクの町のみんなと他愛もないお話をしながら飲んだ味がまざまざと思い起こされた。

 ……帰りたい。

 お店のなかにはたくさんの人がいるのに、リディアはこんなにも孤独だった。

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