第2話 わたしが逃げたかった
――わたしが、逃げたかった。
――わたしが連れてきてしまった。きっとあのとき手をつないでいなければ、彼は逃げずに、きちんと悲劇と向き合ったに違いない……。
その後悔を忘れたことなど一度たりともない。
アデルの右脚が少し地面を引き摺るたびに湧き上がる罪悪感は罰だった。
彼をこの世界に巻き込んだ自分への。
違う世界に迷いこんだ二人は、あのあと魔物に追われ、追われて迷い、迷っては追われ、どんどん雪の森の奥深くへと追い詰められていった。
ついに魔物に襲いかかられたとき、リディアを突き飛ばしたアデルの意外な力の強さも、そのすぐあとに聴こえた呻き声も、血のにおいも、リディアはいまでも夢に見る。
一人で眠れば、必ず。
アデルが右脚を喰われたあとどうやって逃げていたのか、そのあたりのことは記憶が曖昧だった。気づけばふたりは冬枯れの木の根元に倒れ込み死を待っていた。現れたイルザークと言葉を交わしたはずだが、これについてもあまり憶えていない。
リディアは知らない町のなかに立っていた。
ちょうど六年前、あの世界で初めて外の空気を吸ったとき、リディアを殺そうとした冬が素知らぬ顔で春の女神を迎えていたように――いつの間にか。
「ここ……」
いつも通り、イルザークの家へ続く帰路を辿って、ベルトリカの森のなかを歩いていたはずだった。
その途中、アデルが天ぷらにしようと言ってくれたつくしを見つけて、ちょっとばかり摘もうと茂みを越えた次の瞬間、リディアは燃えたばかりの灰のような色をした地面を踏んでいたのだ。
「……どこ?」
ぎゅむ、と地面を踏みしめる。
硬い。まるで石の上を歩いているようだ。わずかに反発するような、ベルトリカの森のやさしい大地でないことは明らかだった。
だが確かに見覚えがある。
リディアはこの灰色の大地を歩いたことがある。
細いその小路の両脇には、石でできたとみられる四角い壁がリディアの目線あたりまで聳えていた。そのなかにはよく手入れされた木々や、一軒家がある。木と石でできたオクの町とは異なるが、ここはどこかの町で、人の住む場所なのだろう。
未知の──それでいて既視感のある住宅街。
空気が薄い。どこか埃っぽい。天海は濁った色をしている。くじらの姿はない。
「天海、じゃない」
愕然とした。
同時に理解もした。
「そら、だ。……空!」
天海でなく空。雲海でなく雲。くじらはいない、神々の住まう宮殿もない、空気中に
リディアは思わず走りだしていた。足の裏が痛くなりそうなアスファルトを蹴って、同じような家の立ち並ぶ路地を抜ける。
すれ違った大人の顔立ちや格好を見て、日本だ、と確信した。
角を曲がって坂を上る。通りがかるたびに吠えてきたラブラドールの家。満開の桜。日本もいま春なのか。いつもアデルにつっかかってきたクラスメイトの家。表札の名前は、加藤。よくおやつを買いに来た駄菓子屋は、閉店して朽ちていた。秘密基地をつくって遊んだ空き地には知らない家が建っている。
走っているうちに胸が苦しくなってきた。
この世界はあまりにも空気が薄い。
そうやって辿りついた一軒の家の前で、リディアは立ち尽くした。
アデルがこの世界で名乗っていたものとは違う苗字が、表札に書かれている。おばさんが大切に育てていた花壇も、スズランの絨毯も、おじさんの作ってくれたアデルとリディア用のちいさな椅子も、何もない。
「……よめない」
表札に書かれていたのは、九歳でここから逃げだしたリディアには読めない漢字だった。
(どうしてわたしはここにいるんだろう……)
胸が、どきどきして痛い。
(誰かの魔法? どうやってベルトリカの森に戻ればいいの?)
この世界には、だって、リディアの家なんてない。
魔法も魔術も使えないリディアにはどうしようもなかった。
「うちに何かご用ですか?」
不意に話しかけられて、肩を震わせながら振り返ると、女性がひとり立っていた。
買い物袋を片手に提げて不思議そうに首を傾げている。どうやら彼女がいまの住人であるらしい。
リディアは真っ白になった頭で必死に口を開く。
「あ、あの……昔、一緒に遊んだ男の子が、この家に住んでいたと思ったんですけど」
「ああ、そうなの。私たちが越してくる前のご家族かしらね。確か男の子がいたってご近所さんに聞いたことがあるわ」
そこで女性は口をつぐんで、いたましげに眉を下げた。
「なんでも、お父さんとお母さんが事故で亡くなってしまって、ご葬儀の日に男の子も行方不明になってしまったんですって」
「そう、なんですか」
当然ながらリディアも当事者である。
嘘をついている後ろめたさで返事がぎこちなくなったが、女性はその反応を、ショックを受けたと勘違いしたようだった。
「一緒にいた近所の女の子と二人でどこかに行ってしまったって……。そのあと、親戚の方が色々と手続きなさったみたいだけど、どこかで見つかったりしたって話は聞かないわね」
一緒にいた近所の女の子、リディアのことだ。
ありとあらゆる内臓に氷の塊が滑り落ちていくような気がした。
「あ、ありがとうございましたっ」
「ええ。……だいじょうぶ?」
「大丈夫です、お家の前でうろうろしていてごめんなさい。失礼します!」
勢いよく頭を下げたリディアは逃げるように女性のそばを離れた。
戻らなくては。
仮にこれが何者かの魔法の仕業だとして、リディアにできるのはイルザークやアデルからの動きを待つことだけだ。最初の場所に戻って、二人から連絡があるのを待つしかない。
リディアはもときた道を引き返して、先程の小路に向かって歩きはじめた。
自分がどの道をどう走ってきたかなんて覚えていなかったが、不思議と記憶の片隅に残る薄ぼんやりとした映像のおかげで、全くわけのわからない迷子にはならずに済んだ。
満開の桜並木に囲われた公園の横をてこてこと歩いていく。
慣れないアスファルトのせいで足の裏が痛い。埃っぽい空気を吸うのが億劫で、呼吸を浅くしているせいで胸が苦しい。霞がかったような空が気味悪い。天海のくじらの庇護下にいないことが、こんなにも恐ろしい。
不安でいっぱいになった胸をおさえたそのとき、リディアとすれ違った一人の青年が、はっと足を止めて振り返った。
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