ランブラス通りの忘れもの
レネ
第1章 画廊にて
1
晩秋の、薄曇りの日の夕刻、私の経営する小さな画廊に初老の紳士がひょっこりとやって来た。
紳士といってもスーツを着ているわけではない。えんじのセーターにジーパン姿だが、白髪の混ざった長めの頭髪や、眼鏡の奥からチラとあたりを見る繊細な感受性を秘めた瞳に、私はその男を紳士だと感じた。人間的な懊悩に呻吟しながら真摯な生き方を貫かなければ、こういう雰囲気は生まれるものではないと私は思う。これは六十年近い年月を経た私が、僅かに自負する人間への洞察だ。
私とほぼ同世代かと思われるその男は、私と目が合うなり、小さく頭を下げて、
「ちょっと見せていただいていいですか?」
「ええ、どうぞ」
それだけで、互いが相手に尊重の気持ちを抱くには充分だった。
どうぞ、ゆっくり、心ゆくまでご覧になってください。私はその男に対し、そんな気持ちになった。
男は店内をゆっくり一周した。そして一枚の絵の前に戻ると、じっとその絵に見入っていた。
男はその横顔に、何か深い思いにとらわれた、憂愁とも、苦悩とも表現できない複雑な情感を漂わせ始めた。こういう特別な思いにとらわれた様子で絵を眺める人は別に珍しくはない。
その絵を味わってもらうために、私は男にしばらく声はかけなかった。するとどうだろう。三十分経っても、一時間経っても、男は絵の前から離れない。憂いを含んだ表情で、じっとその絵に見入っている。まるで、絵の中を一編の長い物語が流れていくかのように。
私は少しためらったが、一時間半くらい経ったところで、男に声をかけてみることにした。
私はゆっくりと男に近づき、そしていった。
「余程気に入られましたか」
男は我に返って私の方を振り返り、いった。
「ええ、いい絵ですね。なんとも表現しがたい趣きがある。スペインの画家の絵ですか?」
「ええ、日本では無名の人ですが、本国のスペインでは最近人気があるようです。まだ新鋭でしょうね」
その絵は、つい先日、欧米に買いつけに行った友人から安く譲り受けたものだった。私もその画家については全く知らない。ただ、独特の、ノスタルジックとでもいうのか、古き良き時代を思わせるようなタッチが悪くないと思い、友人にいわれるままに店に一枚置いてみただけのことだった。
「スペインの、バルセロナのランブラスという通りだそうです」
私がそういうと、
「ええ、そうですね。懐かしい。昔行ったことがあるんですよ」
男はそう答えた。
中央に花を売る店があって、数人の人が行き交い、両側に古い石造りの建物が遠近法を使って描かれている。一見変哲のない風景画だが、その不思議な寂しさとでもいうのか、街中を描きながらも画面に漂うノスタルジックな寂寥に、男も強くひかれているようだった。
「一九八四年のことでした」
男はいった。
「旅行か何かで?」
私は尋ねた。
「ええ、まあ長期の旅行といえば旅行なんですが、このランブラス通りを港の方へ下ったところに公立の語学学校があったんです。そこのスペイン語科の夏期講習に二ヶ月ほど通いました……懐かしいなあ」
「そうですか。この絵も決して明るくはないのに、人々は半袖です。夏なんでしょうね」
「そう、夏ですね……夏でもずっと長袖だったあの人のことを思い出します」
「あの人、というと?」
「いや、僅か二ヶ月の滞在でしたけどね、わたしはそこでひとりの女性と知り合ったんですよ。いや、女性というよりはまだ少女というべきかもしれない。その娘は夏なのに、いつも長袖の白いブラウスを着ていた。そうしてランブラス通りのカフェテラスに座っていた。わたしが毎日語学学校の帰りに立ち寄り、宿題をやっていると、決まってその娘は同じカフェテラスに座って、石畳が照り返す日差しを浴びながら、憂いを含んだ表情で分厚い本を読んでいた……」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます