第10話 神流川の戦い

 豊臣秀吉、丹羽長秀、柴田勝家、池田恒興の4人の重臣が行方をくらました。

 光秀はヒヤヒヤしていた。どこで狙っているか分からない。

 

 6月2日、信長が本能寺の変によって横死すると、信長の死を知った北条氏政は、6月11日付の書状において、深谷の狩野一庵から本能寺の情報を得た事を一益に伝え、引き続き協調関係を継続する旨を伝えている。

 しかし実際には6月12日に領国に動員をかけており、北条氏の上野侵攻は確定していた。


 一益が信長の死を知ったのは事変から5日後の6月7日であった。6月10日、一益は重臣の反対を押し切って、上州の諸将を集め信長父子兇変を告げ、「我等は上方にはせ帰り織田信雄、信孝両公を守り、光秀と一戦して先君の重恩に報いねばならぬ。この機に乗じ一益の首をとって北条に降る手土産にしようと思う者は遠慮なく戦いを仕かけるがよい。それがしは北条勢と決戦を交え、利不利にかかわらず上方に向かうつもりだ」と述べた。


 6月11日、一益は長昌寺(厩橋)で能を興行しているが、総構を大竹にて二重につくるほどの厳重ぶりであり、上州衆を討ち果たす計略ではないかとの噂が北条高広の家臣らの間で流れるほどであったという。


 一方、一益は6月12日付けの書状で、信長の安否を聞いてきた小泉城(東毛)の富岡秀高(六郎四郎)に対し、「京都の情勢は、それ(信長死去)以後なんとも聞いてはおりません、別に変わったことはありません」と書状を送っている。一益が集め真実を告げたのは、上州諸将の内、北条高広などの主要な武将のみであったとも考えられる。

 また、箕輪城を明け渡した内藤昌月は謀叛を疑われ、箕輪に身を寄せていた保科正俊、保科正直等と共に一門命運も尽きたと覚悟していたところ、本能寺の変の知らせと合力の使いが一益よりもたらされ、驚くとともに安堵したという。


 本能寺の変の報に際し、沼須城主(北毛)の藤田信吉が反乱を起こし沼田城を攻めたが、城主・滝川益重から報告を受けた一益が2万の兵(新田の滝川豊前、小幡、安中、和田、倉賀野、由良、館林の長尾、箕輪の内藤)とともに駆けつけ鎮圧した。

 


 明智光秀が北条氏と結託して滝川一益の軍勢と激突するのを杏奈は目の当たりにした。松本一は最新兵器・無限銃を駆使して一益の軍勢を蹴散らした。


 明智・北条連合軍

 北条新九郎氏直

 北条左京太夫氏政

 北条安房守氏邦:(鉢形)

 北条美濃守氏則:(川越)

 石巻勘解由:(相州はた)

 松田尾張守:(岩槻)

 大道寺駿河守入道:(川越)

 芳賀伊代守秋國:(下総さくら)

 黒津上野介秋則:(下総さくら)

 高井主水正正秀:(下総さくら)

 伊勢備中守貞宗:(三州岡崎)

 田目権兵衛尉長定:(上総村田)

 波多野由左衛門恒武:(三州田口)

 石山大学廣清:(遠州掛川)

 原藤右衛門:(下総菰野)

 原田左近範吉:(下総菰野)


 明智軍

 美濃衆 斎藤利三・柴田勝定


 近江衆 阿閉貞征・溝尾茂朝


 山城・丹波衆 松田政近・並河易家


 旧足利幕臣 伊勢貞興・諏訪盛直・御牧兼顕


 河内衆 津田正時


 光秀本隊 藤田行政など


 その他、小川祐忠、進士貞連、可児吉長、津田信春、明智光忠などが参加していた。


 滝川軍

 尾張衆

 滝川伊予守一益

 滝川儀太夫

 滝川彦四朗:(厩橋城在番)

 長崎図書亮

 牧野傳蔵

 谷崎忠右衛門尉

 稲田九蔵重則

 津田小平次之清

 津田八朗五郎

 津田治右衛門尉

 蔵田小次郎

 日置文左衛門

 太田助三郎永宗


 関東衆

 倉賀野淡路守:(上州倉賀野)

 小幡上野介:(上州小幡)

 内藤大和守:(上州箕輪 )

 高山遠江守:(上州東平井)

 和田石見守:(上州和田)

 白倉宗任:(上州白倉)

 安中左近廣盛:(上州安中)

 木部宮内少輔貞朝:(上州木部)

 北条高広:(上野厩橋)

 由良信濃守國繁:(上州金山)

 長尾但馬守:(上州館林)

 長尾新六:(上州館林)

 長尾新五郎累繁:(上州館林)

 朝倉小治郎永時:(上州倉田)

 長根雅楽介:(武州長根)

 本庄近朝:(武州本庄)

 佐野宗綱:(野州佐野)

 真田安房守昌幸:(信州上田)

 芦田下総守幸成:(信州依田)

 芦田右衛門大夫幸盛:(上州藤岡)

 佐伯伊賀守:(小野田原)


 6月16日、北条氏直が倉賀野方面に進軍した。


 6月18日、初戦は滝川勢が、北条氏邦の配下であった斎藤光透とその弟・斎藤基盛が守る金窪城(武蔵児玉郡)と川井城を攻め、陥落させた。更に金窪原で行われた合戦では、信玄・勝頼の旧臣を主体とした上州衆と滝川勢が、北条氏邦の鉢形衆5千と戦い、石山大学、保坂大炊介を討ち取ったが、上州衆も佐伯伊賀守が討ち取られた。しかし最終的には北条方が敗れて追撃を受け二百余人が討ち取られた。またこの戦いに北条氏直も参加し、「鉢形衆3百人に加え氏直の身辺の者多数が討ち取られた」との記録もある(松平義行氏所蔵文書)。


 6月19日の合戦では、先ず北条氏直が2万の兵を率い、滝川一益は手勢3千を率いて戦い、北条氏直の兵が敗走した。北条氏政はこれを見て1万の兵を弟の北条美濃守氏則(氏規)に与え滝川勢を囲み攻めた。一益は当初の手筈通りに後陣の上州衆を投入しようとしたが北条高広をはじめとする諸将の出足が鈍く進軍してこなかった。これを見て滝川一益は、関東衆は頼りにならないと考え、「運は天にあり、死生命あり、敵中に打ち入りて、討死せよ」と下知し敵中に討ち入った。この為、囲んだ北条方は逆に追い立てられ、最後には北条氏則が30騎程で打ってかかり滝川勢と渡り合った。この時、北条方の3百余人が討死したという。しかし兵を立て直した北条氏直が再度滝川勢を攻めると、滝川一益も終に破れ夕刻には敗走した。この時、滝川方の重臣・篠岡、津田、太田、栗田など5百騎が踏み止まって討死し、滝川方の上州衆では木部貞朝、倉賀野秀景の子(五郎太、六弥太)等が討死した。


 同19日、滝川一益は、倉賀野城を経て厩橋城に退却し、城下の長昌寺において戦死者の供養を行った。翌20日一益は上州衆の人質であった北条高広の次男などを解放し、そして同夜、上州衆を箕輪城に集め別れの酒宴を開いた。この時、一益が自ら鼓を打って、「武士の交り頼みある仲の酒宴かな」(羅生門)と謡うと、倉賀野秀景は「名残今はと鳴く鳥の」(源氏供養)と唄い、互いに名残惜しんだと伝わる。一益は太刀、長刀、金銀、秘蔵の懸物等を上州勢に与え、深夜に箕輪城を旅立った。


 翌21日、滝川一益は松枝城にて津田秀政とその旗下・千五百騎を加えて2千強の兵とし、碓氷峠を越え、同日のうちに道家正栄が守る小諸城に着陣した。一益は、ここで佐久郡・小県郡の国衆の人質(依田康国や真田昌幸の老母など)を木曾義昌に引き渡すことにより木曽谷の通過の容認を得て、27日に小諸城を立った。この時、一益は、小諸城を依田信蕃に引き渡すよう、道家正栄に命じたという。


 翌28日に滝川勢は下諏訪に着き、ここで木曾義昌の通行認可の返書を受け取り、木曽谷を通過し織田家の領国である美濃に入ると、尾張の清洲にて三法師(織田秀信)に拝礼し、7月1日に伊勢長島に帰還したところ松本一の無限銃の前に斃れた。


 僕は大学時代、史学部に所属していて戦国時代について研究していた。阿閉貞征はお気に入りの武将だ。

 阿閉は、阿辻ともする。 代々北近江伊香郡の国人であったが、浅井氏が京極氏に代わって勢力を拡大するとこれに従うようになった。 貞征は浅井家の重臣として北国街道や琵琶湖の湖北を見渡せる要害・山本山城を任された。


 元亀元年(1570年)姉川の戦いには1000騎を率いて参陣。磯野員昌、浅井政澄に続く3段目に布陣した。姉川の戦い後も対織田戦に参陣し、山本山城が織田信長の攻撃を受けたが、撃退した。しかし天正元年(1573年)、信長に内応し山本山に織田軍を引き入れたため、小谷城は孤立し主家滅亡の遠因をつくる。8月8日、子・貞大と共に信長に降参し、後すぐに朝倉攻めの先手を務めた。このとき磯野員昌・堀秀村と共に、一時、越前国木ノ芽城の守備についている。


『浅井三代記』ではこれらの功により伊香郡を与えられたとあるが、北江は羽柴秀吉に一職支配権が与えられており、貞征は伊香郡内の本領と浅井郡管浦の地などを安堵されたに過ぎないらしい。秀吉の与力とされた。


 天正3年(1575年)の越前一向一揆にも秀吉と共に参戦しているが、次第に秀吉の圧迫が募ったようだ。竹生島の寺領の横領で訴えられたが、逆に竹生島にある扶持の過半を秀吉に取られたのであると、貞大が信長側近の菅屋長頼に弁明している。


 天正5年(1577年)より秀吉は中国攻めで播磨国へ赴くが、阿閉父子は近江に留まり、信長の旗本に組み入れられたらしい。同6年(1578年)11月より始まる有岡城攻めには信長に従って参戦。同9年(1581年)の伊賀攻め、同10年(1582年)1月15日の左義長の爆竹でも近江衆のなかに名がみえる。同年3月の甲州征伐にも信長に随従した。


 天正10年(1582年)、本能寺の変の後、明智光秀に加担して、秀吉の居城・長浜城を占領した。山崎の戦いに参加するが、敗戦。秀吉方に捕縛され一族全て処刑された。『天正記』『惟任退治記』によれば、処刑方法は磔刑であった。


 なお、藤堂高虎や渡辺了も一時期、貞征のもとで家臣として仕えていたことがある。


 2020年7月5日午前0時半ごろ、名古屋市郊外の民家から出火し全焼。現場からこの家に住む74歳男性と69歳女性の夫婦2人の殺害された遺体が発見された。


 殺害された男性は地元では特に有名な資産家として知られており、個人でアパートや土地など約80件にも上る物件を所有し、不動産関連の収入で生活していた。普段は毎晩のように夜の街にくり出し、一晩で100万を使うこともあったという。昼間はほとんど自宅におり電話にも出ないこともあり、近所の住人との付き合いはあまりなかった。


 犯人は被害者夫婦の頭を鈍器のようなもので執拗に殴ったうえ刃物で胸や腹を刺して殺害した。この際被害者夫婦は何らかの理由で犯人に抵抗できない状態にあったとみられ、2人の遺体には防御創がほとんどなかった。また被害者の男性が普段外出のときに着用するネクタイやワイシャツ姿でなかったことから、室内で襲われた可能性がある。


 用心深い性格だったという被害者の男性は、常に敷地にある4カ所すべての出入り口を施錠し、他人を敷地内に入れることは滅多になかった。この出入り口には人の動きを感知する赤外線センサーが設置され、人の出入りを感知すれば室内にいる人間に音で知らせる仕組みになっていた。また男性は自宅に高額の現金や所有する不動産に関係する重要な書類を保管していたとも言われ、こうした事からこの事件は被害者の家の事情に詳しい犯人による計画的な犯行も疑われている。

 主人、百地陽介の遺体のそばにはタロットカードが9枚落ちていた。愚者、魔術師、教皇、恋人、女帝、太陽、世界、力、吊るされた男の順番だ。

 

 愛知県警の内藤は、捜査本部でスマホでタロットに関して調べた。

 愚者のカード番号は0

 魔術師は1

 教皇が5

 恋人が6

 女帝が3

 太陽が20

 世界が22

 力が11

 吊るされた男が12

 組み合わせた番号を、押収した百地陽介のノートパソコンのパスワード欄に入力した。かなり長いパスワードだ。

 ピポーン♪

「よし、立ち上がったぞ」

 内藤が子供みたいに喜んだので、部下の六角岳は苦笑した。内藤は愛知県警にやって来て久しいが、六角警部補とはパチンコに一緒に行ったりしてる。

 内容を見て内藤は驚いた。


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