今日は苦

えまま

うるさい

「…………」


 ――まだだよ。まだ、手は汚れてる。


「…………」


 ――もう1回、洗いなよ。

 ――そう、水で石鹸せっけんを落として。つけて。


「…………」


 ――あれ? 洗うのやめるの? ほんとにいいの?


「…………っ」


 ――17回目、もういいよ。


「…………」


 蛇口を閉め、タオルで手を拭く。

 私は、なにをやっているんだろう。


 こんな、バカバカしいこと。

 トイレに行って、手を洗う。


 それだけ。なのに、なぜか何度も何度も手を洗う。

 自分でも意味がわからない。


 けれど、洗わないと漠然とした不安が襲いかかる。

 その不安を洗い落とそうとしているのかもしれない。


 ……時計を見れば、そろそろ高校に行く時間になっていた。

 玄関に向かい、右足から靴を履く。次に左足。


 左足から外へ出る。マンションの4階だからか、風が少し強く感じる。


 ドアに鍵をかける。

 親はすでに仕事へ向かった。


 私はいつも最後に家を出るので鍵をかけている。

 ダブルロックの鍵をかけ終え、階段を下っていく。


 ――鍵、閉め忘れてない?


 ……大丈夫。さっき、閉めた。


 ――ほんと? いいの? 泥棒とかになにか盗られたら、誰が責任を負うのかなぁ。


 ……。

 階段を下りる脚がにぶる。


 唇を噛み、階段を下る。やっと1階についた。


 ――いいのかな。本当に。


 ……。


 …………。


 私は階段を上った。



 ・・・・・・・・・・



 ……結局、鍵をかけてるかを7回も確認しに行ってしまった。

 下りては上り、下りては上り。

 4階から1階に着くと、不安になる。


 九月の中旬、まだ少し暑い。

 そのせいか階段の上り下りで汗を少しかいた。


 一年前から語りかけてくるこいつもうっとうしい。

 おかげで心身ともに疲れてしまった。


 なんで自分はこんなことをしているのだろう。

 わからない。


 けれどやらなければ、不安になってくる。

 こいつの言う通りにならなければ、不運な目にあうかもしれない。


 ……気にしすぎだろうか。

 神経質になり過ぎていたかもしれない。


 ……あまり、気にしないようにしよう。



 ・・・・・・・・・・



 学校に着き、教室に入ればクラスメイトの喧騒の中で、見知った顔が駆け寄ってくる。


さきー!」

「ん……」


 彼女――美優みゆはとても快活で誠実、先生だけでなく生徒からの信頼も厚い。


 高校二年になってから同じクラスになり、意気投合し、いつも一緒にいる。

 私は一年の頃、いわゆるボッチになり、この先もこう過ごすのかなと思っていた。


 しかし今は美優のおかげで楽しい。


 そんなことを思いながら、私はいつも通り自分の席へ座ろうとした。

 座ろうとして、異変に気づく。


「あ、れ……?」

「ん?……あ! 席替え、あったでしょ? アタシが咲の席も移動させといたよ」


 美優が異変を教えてくれた。

 たしかに、自分の席が移動させられている。


「あ、ありがとう……」

「どういたしまして! あ、ちょっとトイレに行ってくるね!」


 たたっと駆けてく美優の背を見送り、移動させられた自分の席――椅子と机を見る。

 いつもの、位置に無い。

 それだけでとても気になる。

 それに――、


 ……ハッとし、頭から考えを振り払う。

 ダメだ、ダメだ。これ以上は。

 気にするな、気にするな。


 ――ねぇ。


 うるさい。うるさい。


 ――その机と椅子さ、


 うるさい! うるさい!


 一瞬の隙を見つけては色々と言ってくる。

 心の中でそいつを否定していると、


「咲、どうしたの?」

「え……」


 美優が不安げに、私の顔を覗き込んでいた。


「具合でも悪いの?」


 私は慌てて、「なんでもない」と告げ、席に座った。


「そう……」


 美優の返事と同時にチャイムが鳴り、美優も席に座る。授業が始まる。

 危なかった。

 できればこんなこと、美優には知られたくない。

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今日は苦 えまま @bob2301012

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