夢幻の記憶

佐野心眼

第1話 記憶

 あれはいつ頃のことだったんだろう……


 遥か遠い昔のことだ。



 山深い川の岸辺で寝そべっていると、村の若い女が声をかけてきた。

「何か捕れた?」

 浅瀬に追い込んだ魚が数匹捕れただけだった。

「まあ、今日食う分には困らないだろ」



 俺達は文字を持っていなかった。



 山の獣を仕留める武器は、木の棒の先端に鋭く尖った石を付けた槍だ。村の男達はその槍を持って獲物を追い込み、槍を投げて獲物を捕らえた。

 猪一頭獲れれば一週間は食いつなげた。

 だが、俺は槍さばきは得意ではなかった。川の浅瀬に石を積み上げてV字型の堰を作り、川下のV字の先端に竹で編んだ三角錐の長い籠を置いて、そこに魚を追い込んで捕るのが俺の仕事だ。

 山の獲物が獲れないときは、俺が捕った魚や女達が拾い集めた木の実や草で飢えを凌いだ。


 先祖代々そうしてきた。


 何の疑問も抱かずに。


 そして、平和だった。


 その日も俺は、川岸の大きな岩の上に寝そべって、うたた寝をしていた。のんびりと、まどろみながら。


“奴ら”が襲って来るまでは……



 山の向こうからけたたましい銅鑼の音とともに、鎧を身に付けた男達が続々と現れた。旗には何やら模様が描かれていた。これが文字というものだろうか。

 持っている武器は様々だった。刀や剣を持っている者、矛を持っている者、斧を持っている者、弓を持っている者、それぞれが得意な得物を携えている。数は数百人といったところか。

 陽光に照らされた武器が鈍い銀色の光を反射させている。あれが鉄というものか。


 あいにくと村の若い衆は狩りに出かけていた。


 この村に残っていた老人と女と子供の十数人が一カ所に集められた。


 彼らを取り囲んで、大将格の男が言い放った。


「我らに従うか、皆殺しか、好きな方を選べ」


 村の者達は皆狼狽した。すぐに答えなど出せるはずもない。

 皆が黙っていると、大将格の男は刀を振り下ろした。

 一人の老人が血まみれになって倒れた。

 村人達は皆手で顔を覆った。中には泣き崩れる者もあった。

 支配と被支配の関係がここに完成した。


 俺はこっそり小屋に戻り、慣れない槍を手に取った。そして息を殺して身を潜めた。


 支配など、糞喰らえ。


 そう思って小屋から様子を窺っていると、大将格の男は「食糧を出せ」と言ってきた。

 皆出し渋っていると、「隅から隅まで探して集めろ」と命令が下った。兵隊達はあちこちの小屋を物色し始めた。


 その内の一人の足音が、俺の潜む小屋にも近付く。


 俺は足音を忍ばせて戸口の裏に隠れた。


「……………」息ができない。


 やがて戸はガタンと蹴破られた。


 鈍く光る鎧の姿が見えたと同時に、俺は槍を突き出した。


 偶然兵士の喉に刺さって、槍は折れた。


「ううっ…」という微かなうめき声とともに、男はばたりと倒れた。


 俺は兵士の刀を奪った。刀をこの手で握ったことはない。初めての感触だったが、しっくりと手に馴染んだ。


 俺は小屋を出て物陰に潜んだ。


 矛を持った男の影が近付いて来る。


 左右を見回しながら歩いていた男は、低く構えていた俺と目が合った。矛を振り回すには間合いが近い。男が矛を構え直す瞬間、俺は奴の膝元を一閃に斬りつけた。

「うわ〜っ」という悲鳴とともに、もんどりうって男は倒れた。


 異変を感じ取った兵士達は「敵だ、敵がいるぞ!」と叫びながら続々と押し寄せて来る。


 このままでは包囲されてしまう。俺は後退しながら、というよりも逃げるように森に走った。森の木々を盾代わりにしようと考えたのだ。だが、それほど甘くはなかった。武器の扱いに慣れていない俺は防戦一方となった。乱れた呼吸がさらに乱れる。


 じりじりと後退すると、もうそこは崖だった。下を覗くと青黒い川の深みが見えた。背水の陣とはいうものの、もはや絶望しか感じられない。


 それを察したのだろうか、一人の兵士がこう言った。

「お前の負けだ、おとなしく奴隷になれ」


 それを聞いて、ふつふつと心の奥から怒りが湧いてきた。平穏を切り裂いたお前達の言いなりになど、誰がなるか!


 俺は「わーっ!」と喚きながらその兵士に向かって刀を投げつけた。


 怒りの一撃はあっけなく叩き落とされた。と同時に俺の右腕と胸に矢が刺さった。さらに他の兵士達が一斉に俺に切りかかって来る。


 俺は崖から飛んだ。抱えきれない絶望と一縷の望みとともに。


 水の衝撃を感じて目を開けると、青黒い川の中で無数の小さな泡がゆっくりと踊っていた。いや、俺自身が踊るように回転しながら流れに飲まれているのだ。うっすらと陽の射し込む川の水は、どこまでも深い青が永遠に続いているかのようだった。遠のく意識の中で、それは驚くほど美しく、安らかで静かな光景だった。







「体験型脳内映画は終了しました」


 無機質な声が響いて、俺は目を開いた。暗い室内に、卵型の容器の中だけがうっすらと青白い光を放っている。どうやらここは、いつものカプセルのようだ。ふぅっと一つ、息を吐く。

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