エイトが死んだ。

紫乃

第1話 感謝

 仄かに顔が見える程度の薄暗い灯り。耳障りの良いジャズが店内には流れ、人々の笑い声が微かに聞こえる。


「そうか、明日か。そうか……。」


 二人の男はバーカウンターに並ぶように腰掛け、酒を呷っていた。一人は手の中のグラスをくるくると回し、球状に削られた見事な氷の動く様をじっと見つめていた。もう一人は二人から少し離れた位置にいるバーテンダーが振るシェイカーの動きを目で追っていた。


「お前、怖くないのか?明日死ぬって決めてさ。」


 鈍く光るシェイカーから目を離さずに男は尋ねた。氷を見つめていた男もまた氷から目を離さずに答えた。


「ああ、怖くないね。寧ろ、喜ばしい。」

「喜ばしい、ねえ?」


 それから二人の間に会話はなかった。だが、二人は同じことを思い出していた。安楽死・尊厳死法案が可決された時のことだ。


「俺はさ、未だに自分で死を選べるなんて信じられねえよ。例え、お前がそれを導入した張本人だとしてもよ。」


 隣の氷を見つめ続ける男、エイトに視線を移した。視線に気づいた彼はグラスを回すのをやめ、残りを一気に飲み干した。


「信じようが信じまいが君の勝手だけどね……僕は明日、されるんだし。」

「身辺整理は済んでるのか?」

「勿論。妻や子どもに別れの動画や手紙は残したし、遺産相続も手を打ってある。彼女たちが生活に困ることはないさ。」

「そうか……。」


 「ああ、マティーニを一杯」と空になった杯をずいっと顔馴染みのバーテンダーに押し付けるようにエイトが言ったので、「俺にも同じものを。」ともう一人の男は慌てて付け足した。自分のグラスがすっかり空になっていたのを見落としていたのだ。


「僕はシンに感謝してるんだ。僕への熱狂的な支持や声に惑わされることなく、自分の意見を真っ直ぐ言ってくれるからね。まあ、時たま真っ直ぐすぎるんだけど。」

「余計なお世話だ。……それに、感謝してるんだったら、安楽死を撤回しろよ。」

「嫌だね。僕は生きることが辛いんだ。」

「そんなに人気もあって、金もあって、美人な妻と可愛い娘が二人もいるのにか?」

「ああ、辛い。全く幸せだなんて感じたことはない。そもそも妻と結婚したのだって……。やめておこう。」


 シンはエイトが何を言おうとしていたのか察して「あのなあ……」と説教を始めそうになったところで、マティーニが二杯、二人の前に差し出された。


「どうぞ。」


 バーテンダーに微笑みながら出されたグラスに、シンは何も言えなくなってしまった。エイトはそれを横目にグラスを受け取ると、一口口をつけた。


「さて。最後の晩餐を君と過ごせて幸せだよ。僕の味気ない人生の中でも味のある一日だ。」

「うまいこと言ってるんじゃねえよ。」

「まあまあ、そう言わずに。小学生からの付き合いじゃないか。」

「腐れ縁だよ、本当。」


 シンはエイトを睨みつけながら、マティーニを一思いに呷った。エイトはそれをニヤニヤと眺めながら、自分も飲み干すと空になったグラスをテーブルに音も立てずに置いた。今日は随分と二人とも飲んだ。シンは酔っ払ってきたのかうとうとと船を漕いでいた。


「じゃあ、僕の奢りということで。広島さん、お会計で。」

「畏まりました。」


 バーテンダーが返事をし、すぐに伝票が渡された。エイトはそれを確認し、クレジットカードを挟んでバーテンダーに返す。署名をしてクレジットカードを受け取った後に、深々と「ありがとうございました。良い旅を」とバーテンダーは言った。エイトは色々な意味が込められていることに瞬時に気付き、心底幸せそうに「こちらこそありがとう」と微笑んだ。


「シン。行くよ。」


 エイトはシンを無理矢理立たせると、バーを後にした。階下に呼んでおいたタクシーに彼を後部座席に押し込み、自分は助手席に乗り込んだ。シンの住所を最初に伝え、彼を送り届けた後、エイトは海に行くように指示を出した。運転手は訝しげな顔をしたものの、理由は聞かずに車を発進させた。

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