25 無垢な目を装って

 朝のひと悶着の記憶も薄まってきた頃、本日最後の授業は生物であった。

 今習っているのは目の構造について。中学でも高校でも大抵の学校で習う項目だろう。

 教師に当てられた杏樹が、眼の水平断面図を参照しながら解答する穴埋め形式の問題文を読み上げる。玲於菜はそれを聞きながら問題文を凝視していた。


「ものが見える仕組は、光の情報が『①角膜』から『②瞳孔』へ入り『③水晶体』で屈折し『④ガラス体』を通って『⑤網膜』に像が写し出される。また『⑥虹彩』により明暗に応じて光の量を調節している。目で見た情報は『⑦視神経』を通って脳へと伝わり最終的に映像として認識される」


 一度も詰まることなく読み上げられるので耳障りがよすぎて聞き流してしまいそうになる。

 実に危なげなくスラスラと読み終えた杏樹に教師も満足そうに肯いていた。


「そこまでで結構。全問正解だ」

「はい」


 杏樹が椅子を引き着席する。


(さすがアンジュ)


 もし自分が当てられていたらこれほどスラスラとは読み上げられない。あたふたとつっかえながら挑むことになるに決まっている。

 それは当てられることによるプレッシャー、それと単純に解答に自信がないため。


「目の働きはカメラにたとえるのが解りやすいな。カメラでは被写体の像はレンズを通してフィルムに到達する。『水晶体』がレンズで『網膜』がフィルム、光の量を加減する『虹彩』は絞りの役割をするな」


 教師の解説を聞きながら、玲於菜はむぅと顔をしかめた。


(カメラって言うけどさぁ、逆に解り難いと思うんだけどな。……わたしだけなのかな)


 今でこそレンズが被写体を写し、フィルムが現像をするというカメラの仕組みを理解しているが、このたとえを初めて習った小学生の時はそもそも写真がどうやって作られているかなど考えたこともなかった。

 今となってはスマホやパソコンにいくらでも保存しておけるから写真として形に残すことも少ないが。

 当たり前のようにカメラと同じだからと言って、カメラの仕組みを解っている前提で説明していた初等部の教師を思い出してイラっとしたのはさておいて。

 授業時間も残り少ないため、教師は先に進むのではなく雑談混じりにもう少しコアな話をすることにしたらしい。教科書にも書いていないしテストに出るようなことでもない、あくまで小休止の話題だ。


「ちなみに、網膜より手前と網膜より奥で像が結ばれる違いで遠視になるか近視になるかが変わる。君たちの年齢ならなるとしたらほとんど近視だろう。この中にもメガネ、コンタクトを使用してる者もいるだろうが、近視の場合は網膜が引っ張られまん丸ではなく楕円形になっているため手前で結ばれるわけだな」


 かなり専門的な話だ。玲於菜にはもうまったくのちんぷんかんぷんだ。

 だが玲於菜は見逃さなかった。教師がメガネ・コンタクト使用者の話をするくだりで眼鏡をかけている生徒何人かに視線をやったが、百合のことを殊更に見ていたことに。


(そりゃキレイだけどさ、)


 またしてもむぅ、と顔をしかめる。

 恐らくこの教師は配慮が足りているタイプだ。

 百合ははっきり言って男の目を引く容姿をしているので見られるのは最早仕方がない。だからと言って下心ありきでジロジロ見るのは立派なセクハラで、教師の立場でそれをするのは大いに問題がある。

 だから堂々と見ても不自然ではない状況で、少しだけ長く見てしまう程度なら弁えているほうだ。そうやって自ら注意しておかなければ無意識にでも目で追ってしまいそうな、危うい色香とでも言うべきものが百合にはある。

 玲於菜も杏樹も人目を引く容姿をしているが、こと相手を男性に限るなら百合が圧倒的だ。


(ユリちゃん、あれはたぶん見られてること気づいてるなー……)


 チラッと百合のほうを見ると意に介さず平然と授業を受けている。気づいていないのではない。気づいた上で気づかない振りができるのが百合だ。


『見られるだけで済むのなら、見せておけばいいの』


 前に百合が言っていたことだ。


『ほとんどの人は見ているだけだもの。本当に危ない人には一、二回しか会ったことがないから』


 その時も百合は平然としていた。あまりに平然としていたのですぐには気づかなかったのだが。


(それってつまり一、二回は本当に危ない人と会ってるってことじゃないの!)


 という百合の過去話は余談として。

 教師の小休止はまだ続いている。


「人間の目の色はメラニン色素の割合で決まる。日本人の多くはダークブラウンだが、それでもみんなが同じ色というわけではない。稀にひとりの人間の右と左の色が違う虹彩異色症というのもある。いずれも、あくまで個性だがな」


 最早完全に雑談と化した教師の話に教室内の空気は弛んで既に授業中の空気ではなくなっている。そんな中で玲於菜は今度は杏樹の様子をチラリと見た。

 こちらもまったく表情に変化はなさそうだ。そう確認した後、にわかに襲ってきた寒気に玲於菜はぶるりと躰を震わせた。


(……?朝は平気だったのにな)


 自分の肩を手でさすり、窓の外を見た。季節は梅雨に入ったばかりであり、天気が悪い日が多い。

 今日も午前中は比較的ましだったのが、お昼頃から天気が崩れてきて今は雨が降っている。

 玲於菜は寒がりであまり雨は得意ではない。梅雨ぐらいでと言われるかもしれないが、ただ単に寒いのより雨の時のほうが調子が悪いぐらいで。

 集中力も削がれる嫌な季節だ。……今に限らず大体いつでも散漫だろうとは言わないでいただきたい。


   ○


「ちょっと、顔色悪いけど大丈夫?」


 帰りのホームルームも終わったので教室内は帰り支度をする生徒でざわついている。

 そんな中を席についたままボーッとしていた玲於菜を不審に思って見に来た杏樹が先のように言った。


「うーん……雨の日は調子悪くてね」

「自宅通学組よね?迎えは来てるの?」

「うん、だから車まで行けば平気」

「つき合おうか?」

「ううん、アンジュさっき用事頼まれてたじゃない。ちょっと休んでから帰るよ」


 正直、今のこの状態で車の揺れに耐えるのは気が進まない。


(我が家の運転手の運転技術は抜群だけど、気分の問題ね)


 そうこうしている間に用事を頼まれていた杏樹は去って行った。今日は朝からべったり貼りついていたが杏樹に悪意を持って接触した者はいなかったと思う。


(もう放課後だし、大丈夫だよね)


 実は学校でなにかが起こるとしたらかなりの高確率で放課後と相場は決まっている。実際昨日の放課後にも事態は急展開していたのに、既にすっかり忘れているのだから純粋培養のお嬢さまとはおっとりしたものだ。

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