17 いいえ、人違いです

 首がもげそうなほど周囲を警戒するタンポポもとい玲於菜をよそに、事態は特別大きな動きを見せなかった。

 杏樹は平素と同じく愛想のない優等生。百合はそつなくお手本淑女。そして百合に誘導され各々動いていた今回の実働部隊三人は、実に大人しいものである。


(陥れようとした張本人にあれだけ見事に上手を行かれたら、さすがに何もできないか……)


 だからと言って警戒しないわけにはいかないため、玲於菜は元気に首を振るのだが。

 午前の授業はいずれも恙無く済んで、なにが起こることもなく学院は昼休みを迎えようとしていた。


「……と、時間だな。今日はここまでだ」


 低音の美声がそう述べた直後、午前の最後の授業終了のベルが鳴った。玲於菜はホッと肩の力を抜く。

 これは警戒レベルを下げたとかではなく、単に苦手な数学の授業が終わったことによる安堵である。

 午前の最後の授業は数学だった。担当教師は泉水いずみ統吾とうご。学院生徒の多くは下の名前で呼んでいる。

 目ツキが鋭く口調も荒っぽいので凡そ『教師らしく』ない部分が多いが、以外にも授業はわかりやすいと評判だ。それに凶悪そうな特徴を兼ね備えてはいるが容姿事態は整っているので、ワイルドな男性をお好みの女子生徒からは大層人気がある。

 毎回授業終了のベルが鳴った後に数人の生徒が質問をするために駆けて行くが、女子率の高さがそれを物語っていた。


(まぁ、男子からの人気だってあるんだけど)


 ちなみに玲於菜的には苦手である。教師としては良い先生なのだろうし容姿レベルが高いのは間違いないが、玲於菜の性格の問題であの強面を前にすると萎縮してしまう。


「せんせぇ、ここの問題なんですけどぉ」

「わたしはこっちの問題がわらなくてぇ」


 猫撫で声ですり寄るように質問を投げかけるクラスメイトの声に、玲於菜はよくやるなと素直に感心していた。


「どれだ?あぁいい。今日までにやったところをまとめた課題のプリントを用意したからそれをやれ」

「え、」

「課題……」

「ちょうど今日配るつもりだったんだ。……ん?課題のプリントを持って来るのを忘れた。おい教科担当か日直いるか?」

「数学の教科係は今日はお休みだったかも」

「日直はさっき別の用事を頼まれて授業が終わると同時に走って行きました」


 泉水の問いにそれぞれ答えたのはすり寄っていた女子達ではなく別の生徒である。すり寄っていた女子達は課題と聞いた時点で表情をひきつらせていた。わかりやすい。

 邪心を持って近づく者をあっさりかわす数学教師もさすがだと感心する。


「そうか、ならクラス委員いるか?」

「はい」


 答えて席を立ったのは早々に数学の教科書を片づけていた杏樹だ。首席生徒は余裕である。


「悪いが一緒に来てくれるか」

「わかりました」


 比較的距離が近かったので一連の会話は聞こえていたのだろう。短いやり取りですぐに動き出すふたりを玲於菜はそのまま見送りかけて、はたりと動きを止める。


「ひ、緋上さんっ、手伝おうか?」


 杏樹に単独行動させてはいけないと、なんとか不自然でないように申し出た。ただ玲於菜の言動は残念ながら大抵において不自然である。


「ありがとう。でもひとクラス分のプリントくらいなら大した量でもないでしょ」


 杏樹は玲於菜の言動の不自然さを指摘することなく、更に不自然なく申し出を断った。

 じゃーね、と言って数学教師の後を追って出ていく姿を見送り息を吐く。


(先生と一緒なら単独ってわけでもないから……大丈夫、だよね)


 そう言い聞かせ、再び肩の力を抜くのだった。

 はたしてなにを以て『大丈夫』とするのかは謎だが、玲於菜の思考力ではそこまでが限界だった。


   ○


 課題は数学準備室に置いてきた、と言う数学教師に言われるまま杏樹は職員室ではなく数学準備室に足を運んだ。

 実験の必要な理科系の科目ならばともかく、教室での座学しかない数学に準備室が必要なのかは甚だ謎である。


「悪いな、うっかりしてた」

「いいえ」


 謝る声に応じながら、先にドアをくぐった数学教師の後に杏樹も続く。


「あ、完全には閉めるなよ。少し開けとけ」

「あぁ、はい」


 途中で振り返って言う泉水に、杏樹は素直に肯き閉じかけたドアを止める。少し考え、内側に備え付けられたU字型のロックをストッパー代わりにしてドアを押さえておくことにした。

 疚しいことがなくても部屋にふたりきりになるのが問題視されるような風潮ということだろう。嫌な風潮なのはともかく、こんな悪人面で口が悪くてもちゃんと教師なようである。意外と言っては失礼か。

 杏樹が視線を戻すと、泉水はデスクの引き出しを開けているところだった。


「おまえ、噂になってんな。自分で自分の身を守れるのは立派なもんだ」


 引き出しを探りながら唐突に言われ、杏樹は一瞬押し黙る。単に感心されている理由がわからなかっただけだが、よく考えなくても昨日の今日なら例の件しかない。


「そう大したことでは。学院の有名人がたまたま知り合いだっただけですよ」

「たまたま、な。運も味方につけてるってことだろ。やっぱ愛されるべくして生まれたからか。生まれる前からそうだったもんな」

「……、」


 いくつか引っかかることを言われた。杏樹は無言で、引き出しから取り出した紙の束に視線を落とす泉水を見る。


「かつては天使と呼ばれてた。だろ?……


 バサッと音をさせて紙の束が目の前に差し出された。だが杏樹はそちらではなく、自分に照準を合わせた凶悪な美貌を迎え撃つように見つめ返す。反らせば負け、狼狽を見せる気はない。

 差し出された紙の束を両手で受け取り、


「――いいえ、人違いですよ」


 一瞬の溜めもなく、眸の揺らぎも声の震えもなくそう言い放つ。

 向かい合った数学教師の口元がにやりとした笑みを刻む。更に悪人面が増したのを目撃したところで、平淡な声で退室の挨拶を述べ踵を返した。

 自分でかけたストッパーに手間取ったりはしない。昨日目の当たりにしたことがこんなところで教訓として生きている。

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