12 判決を言い渡さぬ
肩に腕を引っかけぶら下がるように体重を預けていた杏樹は、先輩男子がぶるりと大きく震えたのに気づく。そして次の瞬間、振り払うように押し退けられた。
「ふざけ……っ」
「ひどーい。お互い裸見せ合った仲じゃない。今更なに恥ずかしがってるんですかー」
勢いよく突き飛ばされた杏樹は いかにも『怒ってます』なポーズと表情をわざとらしく作り、明らかな棒読みで宣う。当然挑発である。
「おまえな!」
「ん?」
下から挑むように見つめると、すぐ鼻白むあたりが小物感を演出して面白い。
いっそ憐れなほど血の気の引いた顔が照明の下に曝されるのが気の毒でさえある。
(にしても、こういう場所で女子を襲うなら薄暗いほうが雰囲気がありそうなものだけど……そこまでは考えつかなかったのかな)
照明のスイッチは入り口付近にある。ふたりのどちらかが気を利かせれば簡単にできる演出なのにと頭の片隅で思いつつ、にっこと笑って待ち構えていたら。
「……っう」
先輩男子は呻き声だけ残して体育倉庫を出ていった。
さっき施錠したせいで開けるのにもたついていたのはご愛敬である。
「え、ちょっと!」
「せんぱ~い?」
途中から空気の変化について行けず、怪訝な顔で成り行きを窺っていた女子ふたりが慌てた声を上げた。
ふたりにしてみれば無理もない。杏樹を脅す材料が欲しくてわざわざ評判の悪い男子にオファーしたのに、役者が勝手に舞台を降りてしまったのだから。
(紹介してもらうどころか結局名前すら名乗らず退場してったじゃない。別に全部知ってるからいいけどさ)
それよりもこの空気をどうするのか。どうにかしてやる義理は杏樹にはないが。
「はぁ、」
わざとらしく溜息をつくと、呆然と取り残された女子ふたりの双肩がびくりと震える。
「ひのえさん、あのこれは~……」
あわあわと落ち着きのない動作で取り繕おうとする縦ロールに対して、口ぼくろはやや強張った表情ながら既に落ち着きを見せている。
「お知り合い、だったのねぇ」
「あんたに関係ないでしょ」
「……そうね」
杏樹のばっさりとした物言いに一瞬不愉快そうな様子は見られたが、自分達のしようとしたことを省みて言える立場ではないと判断したようだ。
「何か言いたいことがあるなら聞くし、ないなら聞かない。どっちでもいいけど、どっちにしろわたし授業をサボる気はないんだよね。だから教室戻るから」
結構時間を取られたせいで、今にも次の授業開始のベルが鳴りそうなのだ。
話しかけられる様子がないので、さっさと去ることにする。
(そうだ。ボール……)
少し通路側に出ていたボールの籠を思い出し、律儀に奥に押し込んで。
杏樹は悠々とふたりの間を通り抜けて体育倉庫を後にした。
○
バタンと鉄製の重い扉が閉まり、少女ふたりは肩を大きく上下させた。緊張から解き放たれた安堵で。
「これはあれだね~、売ったらダメな人に喧嘩売っちゃった感じ……」
「そうねぇ……同意見よ」
互いに顔を見合わせて意見を交わす。
杏樹と話をしても、しなくても。それまでの期間は執行猶予期間と言うわけだ。
力なく肩を落としたまま、ふたりは教室に戻ることにする。
「お、済んだのか。どうなった?」
教室に戻ったふたりに声をかけたのはキツネ目。今回別行動だったのは別の役割があったからだが、事情を知って噛んでいるため同罪だ。つまり知らぬところで執行猶予の身になった。連座で実刑になるかどうかはまだ不明。
「ん~、失敗……ってか不発だね~」
「このテの方法で男のほうが返り討ちにされるって何なのかしらねぇ、あの人」
「ほぇ?」
普段と変わらない軽口を装ってはいるが、ふたりとも実は憔悴している。
仔細を知らないキツネ目は吊り上がり気味の目を珍しく丸めて、不思議そうな顔をした。
「まぁ、話はまた後で……あら」
疲れた顔でくるりと視線を巡らせた口ぼくろが、どこからか教室に戻ってきた眼鏡の淑女の姿を捕らえる。
こちらの状況を知っているのかいないのか。平常時と変わらず美しい佇まいは、まるでそこだけ世界から切り取られたかのようにかえって現実感がない。
こうして、短時間にさまざまなことが起こった密度の濃い授業間は終わった。
○
時間を少し巻き戻そう。
体育の授業終了後。自分の持ち場での作業を終えた土浦百合は一度体育館を出て、さりげなく更衣室に行く生徒の波から外れる。
体育館の外から体育倉庫の様子を窺える場所に立ち、気配を殺して聞き耳を立てた。
「ひょっとして怖がってる?大丈夫だって。言うほど怖くないって」
耳慣れない男性の声が聞こえた。あまりに軽薄な声のトーンに覚えず眉をひそめる。
クラスメイトの口ぼくろの考えはわかっている。彼女が声をかけて連れて来たひとつ上の先輩は、この広い星聚学院高校内でも有名人だ。主に女性関係の交流の派手さ、有り体に言って女癖が悪いとの噂で。
「せんぱ~い、それ地雷踏んでない?多少は怖いって言ってるのと同じですよ~」
「あ、いけね」
「っふふ」
杏樹を陥れるために根回ししているのだから当然だが、追い詰めるように囃し立てる縦ロールと口ぼくろはこう言っては何だが……品がない。
全部知っていて何も言わなかったのは自分だし、むしろこの方向に誘導さえしたのだから百合自身もまた同類とわかっている。
そもそも気品に満ち溢れた悪事などありはしないだろうが。
「まぁいいじゃん、どっちでも。そろそろ顔見せてよ」
人の動く気配がする。いよいよかと壁一枚隔てたところで百合はクッと息を詰めた。だが次の瞬間。
「っは、何て顔してんの」
空気に触れている皮膚がぞわりと粟立つ。
先の台詞を述べたのは杏樹である。その声色に、頭ではなく本能が反応したのだ。
自分はこの声を知っている。そしてこの声を持つ者に、これまで敵ったことがない。
直後、まるで天啓のようにそれは証明された。
「……っひ、」
力ない短い悲鳴が聞こえてきたからだ。
「……で、何するって?『多少は怖いこと』だっけ?」
「おま、なん……話がちが……っ」
意味を成さないことをぶつぶつ言う先輩男子が、すっかり及び腰になっているのがわかる。
「いやだセンパイ、そんなにどもって。ひょっとして怖がってる?大丈夫ですって。――あの時ほど怖いことはしませんよ」
最早空気に触れている皮膚どころか、躰の内側から細胞のひとつひとつを直接握り潰されるような心地がした。
自分に向けられたわけでもないのに、指一本すら動かせなくなるほどの恐怖。
その時、姿の見えない杏樹を心配したのだろう。鮮やかな色の髪を振り乱した少女がこちらに向かってくるのに気づいた。
百合は精一杯の矜持で固まった躰を無理やり動かし、その場を離れる。そして少し離れた場所で何事もなかったように玲於菜を迎え撃つ。
「遅かったのね、もう終わってしまっていてよ」
「ゆ、ユリちゃん……っ」
ぜはぜはと肩で息をしながら駆けつけた玲於菜に、百合はつれなく言い放った。駆けつけることに必死だった玲於菜に、言葉が通じているのかはともかく。
「ただし、結果は想定外のものだったけれど」
「え?」
疑問符いっぱいの顔をする玲於菜の問いに答える気にもなれず、百合はその横を通りすぎる。
企みが不発に終わった以上ここにいる意味はない。こうして百合の授業間は傍観に終わったわけである。
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