10 授業後、帰宅の途

 早々に聖堂を後にした杏樹はその足で帰宅の途につく。

 とは言っても今の杏樹が帰る場所は星聚学院の学院生寮だ。当然同じ敷地にあるわけなのでそれほど歩くわけでもないのだが。

 緩やかな午後の風が杏樹の髪を持ち上げる。風の行く先を追うように顔を上げれば、こちらを見る視線にぶつかり足を止めた。ぱちりと瞬き、首を傾げる。


「……あれ、どうしました?」


 そこに居たのは杏樹にとって紛れもなく知り合いである。だがなぜ今ここに現れたのか。

 不思議がる杏樹の問いに相手は優しく微笑んで口を開く。


『     、  』


 その相手の言に対し、杏樹は驚いたり肯いたりしながら話を続ける。


「え、そんなことが?


 ……わかりました。気をつけておきます。


 ちなみにですけど、その人の……


 え!


 あ、いや気のせいかもしれないし。でもその可能性は高いからもしそうなら案外話は早いかも。


 ……え?あらやだ、いけないいけない」


 その時の杏樹の表情を見た人は誰もいない。


   

   ○


 エスタ教の授業の後、そのまま帰宅の途につく生徒も多いが教室に戻る生徒もいる。

 とは言え時間は放課後なので部活に行く者、課外活動に赴く者とさまざまですぐに教室からは人が減っていく。

 ついにはふたりだけが残り、自席で手持無沙汰に髪をいじっていた玲於菜は、意を決して自分ともうひとり残っていた人物の元へ向かった。


「……っ、ユリちゃん」


 クラスメイトに声をかけるだけのことで、握った手が汗ばむほどの緊張である。


(しかも声裏返っちゃったし)


 内心自己嫌悪に陥った玲於菜だが、幸い相手は気にした様子はない。

 姿勢よく席についたままくるりと首だけを巡らせ、淑女のお手本のように微笑んで、


「あらレオナ、私に話しかけてくださるなんてお珍しいこと」


 眼鏡のレンズ越しに、まっすぐ玲於菜を見つめてくる。

 玲於菜とこの眼鏡をかけた美しい淑女、土浦百合つちうらゆりは小学校から星聚学院に在籍している。小学校時代などは仲がよかったほうだ。名前呼びはその名残。


(今は普通に話すことすら滅多にないけど)


 そんな自嘲はさて置き。


「ゆ、ユリちゃん。あの三人、何か変なことしようとしてるよね?それ、ユリちゃんなら止められるんでしょ?」

「あの三人がどの三人を指しているのかわからないし、変なことがどんなことだか心当たりがないのだけど?」

「とぼけないで。ユリちゃんが気づいてないわけないもん……気づいてて止めないんだよね?むしろそのまま誘導した。なんで?」

「レオナはどう思うのかしら?」


 百合ははっきりとは答えず、玲於菜に質問を返した。その間も百合は美しい笑みを浮かべたままだ。


「緋上さんのことが気に入らないの、かな、って。確かに綺麗だし賢い人だから目立つけど……でもそんなのはユリちゃんだって、そうだし。追い落とすようなことしなくたって、ユリちゃんが凄い子なのは事実で、」

「あらいやだレオナったら」

「え?」

「そんなこと……」


 音もなく席を立った百合は、迷いのない動作で玲於菜に手を伸ばす。

 半袖から伸びる染みひとつない白い腕が玲於菜の制服の胸元に到達し、ぐんっと勢いよく引き寄せられた。


「っ!?」

「当たり前でしょう!?」

「ゆ、ユリちゃ……っ」


 玲於菜の眼前に、眼鏡のレンズ越しでもわかる不快げに吊り上がった目が迫る。常に淑女のお手本のような百合が感情を剥き出しにした形相に、玲於菜は喉の奥で声が絡まるのを感じた。


「そうなるべく生きてきたのよ……!そうでなければ意味がないの!それなのにあの人は私を下そうとする。私だって、二度は御免なのよ!」


 百合が声を荒げることなどそうはない。知り合って既に十年近い玲於菜でも、もう何年も記憶になかった。


(二度……?)


 微かな引っかかりを覚えたが、百合の剣幕によりすぐさま霧散していく。

 そしてまた唐突に、引き寄せられた躰が解放された。


「ゆ、ユリちゃん?」

「失礼、あなたには関係のないことでしたわね。あなたが何を思おうと勝手ですけれど……何も知らない人が首を突っ込むのはやめてくださらないかしら」

「……、」

「と言っても、何かができるとも思えませんけれど」


 最後に一瞥を向けた後、何事もなかったかのように視線は逸らされる。まるで興味を失ったように。

 さっきまでの剣幕が全て幻だったかのように、百合は淑女のお手本のような足取りで去って行った。

 取り残された玲於菜は呆然と立ち尽くす。その頭にあったのは、


(激昂してもすげなくしても、淑女の美貌は損なわれない)


 と言うちょっとずれたことだった。だがそれは紛れもない事実でもある。

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