7 鉄面皮も笑います

 保健室で授業終了のチャイムを聞いた杏樹は、化学室ではなく自分のクラスの教室に戻った。


「ひ、緋上さん!」


 杏樹に気づいた玲於菜がぴょこぴょこ駆け寄ってきて、抱えていた教科書と筆記用具を勢いよく差し出してきた。


「あぁ、わたしのか。どうもありがとう」


 差し出されたのは自分の持ち物で、彼女が移動の際に持ってきてくれたとわかる。


「そんなの全然……っ、怪我は?」

「もう痛くはないよ。ちゃんと処置してもらったし」

「よ、よかった……!わたしのせいでごめんなさいっ」

「いや別に。もっと上手に避ければよかったね」


 さっき保健室で思っていたことを口に出して言ってみる。玲於菜はぶんぶんと首を横に振った。タンポポの花が茎からもげそうである。


「つか緋上さー、格好よすぎじゃね?」

「あ、俺も思った。女の子庇って自分が負傷とか男前のやることだろ」


 近くで杏樹と玲於菜のやり取りを見ていた男子ふたりが口を挟んできた。


「マジ俺が女子なら惚れてるわ」

「え、わたし女子だから女子に惚れられても嬉しくない」

「あ、そっか。じゃあアレだ。俺が女子でおまえが男だったら」

「ややこし……両者完全に逆転してるし。なんでふたりして性転換しなきゃダメなのよ」

「うお、マジだ!」


 馬鹿みたいな会話だが、杏樹がクラスメイトとこんなに長く自然に話すのは入学以来初めてである。


「なにこの会話。頭悪すぎじゃない?」


 しかも会話のあまりの馬鹿らしさに、思わず表情が崩れた。


「う、わ」

「……」


 話していた男子が小さく呻き、もうひとりはと言えば完全に沈黙している。


「うん?」


 それまで自然に話していたのが突然ぎこちなくなり、杏樹は首を傾げた。


「や、笑った顔見たの初めてかも。つかおまえ笑うんだな」

「うんうん」


 杏樹はぱちぱちと目を瞬かせ、考える。言われてみれば最近笑った記憶があまりないが。


「面白くもないのにへらへら笑えないじゃない」


 実際振り返ってみても面白いことなんてなかった。


「あー、それもそうか」

「なんだ緋上って無愛想な奴かと思ったけど、単に正直者なだけだったんだな」


 良いように納得する空気になっているが、杏樹が無愛想なのは間違いのない事実である。


「ところで美並さん、さっきの授業って……美並さん?」

「っハ!」


 ふと思いついて傍らに立つ少女に話しかけると、会話に参加していなかった玲於菜は突然呼ばれてビクッと躰を震わせた。

 ぎくしゃくとぜんまい仕掛けの人形のような動きをする玲於菜に、胡乱な目を向ける。


「なに、どうしたの」

「ううん、なんでもないっ」


 またまた勢いよく首を振った玲於菜が小さく「美人の笑顔の破壊力……」と続けていたことに、杏樹は気づいていなかった。


     ○


 杏樹達の歓談する様子を、教室の別の場所で見ている者達がいる。


「うっわ男子連中、手のひら返したようにちやほやし出したよ」

「結局、顔のいい子がイイってことじゃなーい?」

「むしろ、どうにかして話しかける隙を窺ってたようにも思えるわねぇ」


 キツネのような吊り目の少女、豪奢な巻き髪の少女、口元にほくろのある少女。言わずと知れた杏樹をよく思っていないクラスメイト達である。


「だからって近づいてきた途端イイ顔する女のほうもどうだかな」


 キツネ目が軽く鼻を鳴らして言う。彼女自身は長身で性格も気が強くやや男まさりでもあり、男子に取り入るタイプの女子はあまり好まない。

 その時、決して大きくはないのによく通る美しい声が空気を震わせた。


「……心配ね」

「何が心配だって?土浦つちうら


 自分の言葉を問い返された少女は、混じりけのない艶やかな黒髪を揺らして顔を上げる。細いフレームの眼鏡がわずかな動作の変化で光を反射した。


「あの人、旧家の出と言うわけではないのでしょう。どなたかが後見についているとも聞きませんし」

「つかどっちかって言うと庶民でしょ」


 目敏い学院生の中で彼女を調べ上げた者がいるらしい。『緋上』などと言う名前は聞かないし、富裕層の多いこの学院ではかえって珍しい一般家庭の出だと。

 実際には珍しいと思っているのは主に中層階級のブルジョワ達で、素朴な一般家庭の者は案外いる。そもそも絶対数が多いのだから大金持ちばかりでないのは当然だ。


「既に入学式と体育祭で充分目立ってましたもの。変に男子人気まで出てきてしまったら『お姉さま方』の目に止まってしまうかも」

「あぁ、確かに。今までは目立ってはいても孤立してたものねぇ」


 口元のほくろを撫でながら同意するクラスメイトに、眼鏡の少女は肯く。

 伝統としきたりとでも言うのか、目立つ生徒(但し女子限定)に複数の女子が『教育的指導』を行うのはお約束である。


「じゃーさ、わかってるなら事前に『注意換気』してあげるのも親切~?」


 肩口から垂れた自身の髪をくるくると指で弄びながら、縦ロールの少女が語尾を伸ばして含みのある感じで言う。

 もともと切れ長の眸を更に鋭く細めたキツネ目は、ゆるりとこうべを巡らせた。


「親切、か。……確かにな」


 視線の先には、普段よりいくらか穏やかな表情でクラスメイトと話す杏樹の姿があった。

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