差せ!差せ!

へろ。

差せ!差せ!

 私の父は競馬が大好きで、というか博打全般が大好きで、ママが産気づいた時に父はパチンコに行っていたらしく、ママは一人、陣痛で意識を朦朧とさせながらも自家用車に乗り、根性だけでかかりつけの病院へ。

 本当に申し訳ないのだけど、私は中々お腹から出たがらなかったらしくて、だからママは薄っぺらい産婦人科医の、「もうすぐですから!」という言葉だけを信じて十時間、陣痛にもがき苦しんでいた。



 十時間後、やっと病院に来た父に、「お前ッなにしてたんだよッ」とママが怒鳴り聞けば、「ごめん。確変が終わらなくて……。」と応える、父。

 幸いな事に、この時まだママは『確変』の意味が分からなくて、父が仕事で『確変』なるものをやっていたとばかり勘違いしていたらしく、それに父も父で、「確変のおかげで、高級ベビーカーが買えるよ!」なんて甘言を吐くものだから、ママは確変にありがたささえ感じてしまっていたらしい。


 そのことは、今も溜め息混じりの思い出話として、私によく聞かせてくれる。


――本当にね、アイツ……。パパは……。

 最悪だったのよ、アイツ。

 十時間よ、十時間。本当に痛くて苦しくてね、ちょっと、千世(ちよ)ちゃん! 頼むから早くお腹から出てきて! なんて私はまだ見ぬ千世ちゃんにお願いしてしまうくらいだったんだから。

 というか、あの産婦人科医も産婦人科医なのよ。

 あれは病院についてから六時間くらい経ってたかしら。ママね、ついつい痛みのあまり、「いい加減にしろッこのヤブ医者がッ。もうさっさと腹かっさばけやッ」なんて怒鳴ってしまったの。

 私の気迫に怖じ気付いてしまったヤブ医者は、それからトイレから出てくる事はなかった。

 もう!ホントいい加減にして!って、看護士さんの傍らで苛立ちを覚えながらも悲しくてね、だってパパとは連絡が取れないし、唯一の頼みである産婦人科医すらトイレに引きこもってしまう始末だったから。

 ああ、私一人っきりだ。たぶん、このこっそりやってるけどバレバレのアプリゲームに夢中になってる看護士の隣で、私はこのお腹の子と死んでいくんだ。なんてネガティブな気持ちになっていたわ。

 ママね、マタニティーブルーってなかったのよ、パパは大手企業に勤めていたし、パパ側の親族とも上手くやれていたし、私の両親も手助けしてくれて、それに一番大きかったのは、千世ちゃんがお腹にいる時、つわりとか少しあったけど本当に軽いもので、むしろ生理痛が重い方だったから、それが無くてラッキーくらいにしか思っていないくらいだったから、もう本当にね、産休も取れたから、のんびり家でポテチとかマックのポテトとか食べて、録りためたドラマなんか見て楽しく暮らしてたのに――まさか千世ちゃんが産まれる直前でくるのかよッマタニティーブルーッ。なんてね、仕方が無いからそれからパパが来るまでの四時間、もうママは必死に、内心で一人ツッコミを入れながら、なんとか精神を繋ぎ止めていたのよ。

 それから、ようやくパパが来てくれて……来てくれてっていうのも、おかしいわね。ノコノコと現れやがって、アイツ、マジでなんなの?ってくらいにハァハァ息荒げてて、十時間も遅れておいて急いだ振りやめろッって思っちゃうじゃない?普通に。

 でも苛立ちを覚えるってことは、少しはパパが来てくれたことに安心を覚えていたのかな?

 だからって訳じゃないと思うんだけど、陣痛が来る波の間隔が段々と狭まってきてね、より一層の激しい痛みに襲われながらも、いよいよ産まれるって時よ。

 もうッ。本当にアイツときたらッ。

 手ぇ握ってきたのよ!?信じられる!?あり得ないでしょ、こちとら十時間孤独と傷みに堪えてきたのよッ。

 だから、「なんになるッ」って、つい怒鳴っちゃった。

 そしたらパパきょとん顔で、「えっ?」とか言ってくるから、「それがッなんになるって聞いてんだよッ」ってさらに怒鳴っちゃった。

 数秒パパは沈黙してから、気持ちを切り替えたのでしょうね。

「ご、ごめんねみっちゃん。あ、俺テニスボール持ってきたから!ほら、これで背中さすってあげるね!」

 なんてパパが言ってきて、此奴マジでなに言ってんだ?と、だいぶ前にもうそれやるタイミング終わってからッ。と、怒りのあまり思わずテニスボールをパパから奪って、「クソがッ、マジでもう意味ねーからッきかねーからッそんな軟弱なボールじゃッ」って怒鳴りながら、ぶん投げてやったわ、テニスボール。

 そしたらそのテニスボールが看護士の携帯を持つ手に当たってね、落として画面割ってた。

 現代っ子なんでしょうね、怒り狂う看護士に、パパは必死に謝っていたわ。

 そんな中、もういよいよ痛みがピークに達して、もう一種の錯乱状態にまで陥ったママはパパにお願いしたの。

「おいッ。そんなヤブ医者の愛人とかどうでもいいからさっ。アレ持ってこいッあれッ」

「え?みっちゃんアレってなにかな?」

「アレっつったら、アレしかないでしょうよッ」

「あ、ああ……。アレね、アレ!」

 そう知ったかぶってパパが持ってきたのは、紙コップに入った水だった。

「これじゃねーッ。」

 ママ、思わずパパに水ぶっかけちゃった。

「……。」

「アレっつったら、アレしかねーだろうがッ。グッ……イテぇ。」

「……携帯?」

「鉄球だよッ。鉄球ッ」

 もうママも何であんな事言ってしまったのか分からないのだけど、あまりの傷みに鉄球を欲していたの。

「え、えぇ。鉄球なんて持ってきて無いよ。」

「なんっでっだよッ。なんで持ってこねーんだよッ鉄球ッ」

「いや、だって……。というか、みっちゃん鉄球ってなんに使うの?」

「決まってんだろうがッ。鉄球をッ私のッ腰にッ全力で投げてッ砕いてくれぃッ」

「こ、怖いよ、みっちゃん」

「十時間遅れてくるお前の方が怖いわッ。ああ、もう限界。やばいやばいやばいってッマジでッ」

「みっちゃんちょっと落ち着こう!ほら息を整えて!」

「うるせぇばかくそだまれしねッ」

「……。」

「ハァハァ。つーか、確変ってなんだよ?仕事してたんかッ?妻が産気づいて死にそうな時にッ仕事してたんかッ?」

「……いや、でも確変が終わらなくて……」

「だからッ確変って、なんなんだよッ」

「……でもね、みっちゃん。確変のおかげで、みっちゃんが欲しがってた、あの高級ベビーカー買えるよ!」

「……確変、しゅごぃ」

 もう本当にママがバカだったの……。

 確変が確率変動で、パチンコ用語だって知っていれば……。

「だから安心して!みっちゃん!今だけだから!赤ちゃん産んだらさ、待ってるからね!家で高級ベビーカーが!」

「いいからッ早くッ鉄球持ってこんかいッ」

「え、ええー。」

「は、早くッ。頼んます。早くワテの腰砕いてくだぁさい」

 そんな錯乱し発狂するママに見かねたパパが取り出したのは……。

「こ、これでいいかな?」

 そう言って、片耳からパチンコ玉を……。

 ええ、その時全て合点がいったわ。それと同時にドン引きした。

「お、お前……マジか!?パチンコ行ってたんかッ?」

「……ちょうど、そこにあったから」

「ちょうどってなんだよッ。あ、もうムリ。あんたとかムリッ」

「みっちゃん愛してる!」

「今、言うッ?それッ」

「逆に今しかないと思ったから」

 パパがそう言えば、さっきまでプンスカ怒ってた看護士が笑い転げていた。

「……あ、出る……」

「え、なに?」

「赤ちゃん……出てきてる……」

「うっそ!マジで!?凄くね!?」

「凄くねーよッ。つーかうぜーよッ。どうしようどうしようどうしよう」

「頑張れ!」

「黙れッ。つーか看護士のお前、仕事しろよッ」

「え、私ですか?」

 私がそう怒鳴り注意すれば、彼女、自分を指差しキョトンとしていたわ。

「お前しかいないんだよ~。どうすりゃいいんだよ、これッ。もう頭出てきてんぞッ」

「あ、えーと……。」

 絶対この病院訴えようって、ママこの時に決意したの。

 焦る私の傍らで、私の局部をガン見しながら、パパは一人興奮していた。

「すごいすごい!みっちゃん、赤ちゃんの頭出てきてる!」

「おまえはもうマジで頼むから黙っててくれッ」

 正直な話、もうママはパパに構っている余裕がなかった。

 でも、そんな言葉はもう興奮したパパには聞こえていなかったみたいでね、パパはね、片手振り上げながらに言ったのよ。

「差せ!差せ!」って……。

 今、産まれようとしている千世ちゃんに向かって大声で……。

 いや競馬じゃねーんだからって話よね。

 私、その時、言ったのよ。ちゃんと。

「お前ッマジでもうギャンブル禁止なッ」

 そう私が怒鳴った時だった。

「あ!もうたぶん、ウンコ出る要領で赤ちゃん出ると思います!」

 ママはその看護士の言葉に呆気にとられている内に、本当にスルっと千世ちゃんが産まれたのよ。



 そんなこんなで私は生まれたのだけれど、ママが父に課した『ギャンブル禁止』という約束は、私が三歳の時にはもう破られていました。

 というか、その事実が明らかになった時にはもう、どうしようもない事態に陥っていて……あろうことか、父は会社のお金を横領、ギャンブルをする為の費用に充てていたのでした。

 なんでそんな事をしたのか?と、ママにきつく問われた父は、言いました。

「だって、家のお金遣ったら、みっちゃんにバレるから……。」と。

 ええ、父はバカだったのです。

 バカやった父は、会社を首に、そしてママは私が四歳の時に、父と離婚しました。

 だから私にはほとんど父と一緒に暮らしていた記憶がなくて、でも週一回、父……。やっぱり育てて貰った覚えがないからかもしれませんが、お父さんって感じがしなくて、のりおって下の名前で父を呼んでいるのですが、のりおと会って、遊ぶというのもおかしな話だけれど、十五歳になった今でもそれは変わらない週間なのです。


 のりおはママと離婚してから、千葉県の船橋市って所に住んでいて、ママは、私たちが住む東京都足立区から車を走らせ、少し不機嫌ながらも千葉まで私を連れて行ってくれるのでした。

 のりおは私と二人っきりの時、父親ぶりたいのか、あれこれと教えようとしてくれるけど、純粋な私の「どうして?」って質問には言葉を濁すのが幼少期からの常で、やっぱりのりおはのりおで、でものりおは優しい人です。

 だからママも、「どうして私が送ってかなきゃいけないのよ。千世ちゃんに会いたきゃ東京来ればいいじゃないッ」と、ひどく真っ当な不満を垂れながらも、千葉まで私を送ってくれるのでしょう。



 私とのりおはいろいろな話をこれまでしてきました。

 たしか、あれは私が六つになったばかりの頃です。

 私はのりおにマクドナルドに連れて行ってもらって、ハッピーセットを食べていたときでした。

 のりおは私のポテトをつまみながら、言いました。

「いいかい、千世ちゃん。ときめきだよ。この世にはたくさんのときめきがあるんだよ!千世ちゃんにも、たくさんのときめきを感じて育って欲しいなぁ!」

「ときめきってなーに?」

「良い質問だね、千世ちゃん」

「うーん、そうだなぁ。千世ちゃんは今、好きな人いる?」

「ママが好き!」

「パパは?」

「よく分かんない」

「そっかそっか。じゃあ、ママに優しくしてもらったら嬉しくなるでしょ?」

「ママはいつも優しいよ。のりおの所に行くとき以外は」

「そっかそっか。千世ちゃんにはまだ早かったかもしれないね。好きな異性……男の子とかいないでしょ?」

「いるよ、よしくん!」

「誰それ?聞いてないんだけど、パパ。よしくんって何してる人?あーまだ六歳か、よしくんのパパってなにしてる人?」

「しらない」

「……じゃあ、そのよしくんって男の子に優しくされたら、胸の辺りがキューッとしない?」

「よしくんはね、さかちゃんの事が好きなの!」

「はぁ?なんで?おかしくない?なんで?千世ちゃんの方が絶対可愛いでしょッ。おかしくない?」

「でも、よしくん。ちよにも優しいよ!」

「やべーよ、そいつ。垂らしだわ」

「たらし?」

「……千世ちゃんにはまだ恋愛の話は早かったかな」

「のりおはときめき?」

「パパはもう毎日ときめきの連続だよ!昨日だって、最初五万負けてたの!で、もう台変えようかな?って迷ってたんだけど、いやでも五万分の何かはあるはずだってね、パパは諦めなかった。そしたらいきなり、全回転!画面がずっとキラキラしててね、綺麗だった!それからの確変十五連!いやー、あのときめきったらないね!」

 と、意気揚々に語るのりおに、私は聞きました。

「パチンコの話?」

「……なんで分かるの?」

 そう私に問うのりおの表情には、明らかな動揺が見えていました。

「ママがよくお話してくれるの。ママがちよを産むときすごく大変で、でものりおはパチンコで確変してたから、十時間も来てくれなかったって」

「……。」

「のりおはちよより確変が大事?」

 そう、純粋な気持ちでまだ幼かった私が問えば、のりおは焦りながらも否定してくれました。

「そ、そんなことあるはずがないよ」と、でも続きの言葉がありました。

「でもね、パパはちょっと病気……取り憑かれているのかもしれないね……」

 そう悲しげな顔で、のりおは言ったのでした。

「おばけに?」

「おばけなんて生やさしいものじゃないよ。パパは取り憑かれているのは……数字なんだよ」

「3とか?」

「3も良い数字だよね。パパは7が一番好きだけど」

「じゃあ、のりおは7にときめいてるんだね!」

「そう!パパはどうしても7にときめいちゃうんだ!」

「あ、思い出した!この前ね、ちよの学校に算数の偉い人が来たんだよ!あの人も数字が大好きって言ってたから、のりおと一緒だね!」

 そう私が言えば、のりおはあさっての方向に目を泳がせていました。

「その人とは、たぶんだけど、数字に対してのときめき方が違うっていうか……。近いんだけどね!ちょっと大好きの意味合いに語弊があるかもしれないなぁ」

「ちよには、よく分からない。」

「千世ちゃんはまだ子供だからね、知らなくていいかもしれない」

 のりおに子供扱いされた私は、なぜだかそれがすごく気に入らない、というか生理的にムリと言った方が近いのでしょうか、ふてくれていました。

 そんな私の態度に気付いたのりおは、慌てて言葉を取り繕ってきました。

「でもねッ、ほらパパが好きなのは、数字が三つ揃った時なんだよ!もう揃わないと叩きたくなる。自分の心も台も……。でも7が三つ揃うと、すごくときめくんだよ!うーん……773ってときめかないでしょ?」

 幼い娘に、なにパチンコの説明しようとしてんだ、此奴は?と、今なら冷静に指摘出来るのでしょうけど、当時の私はまだ幼かったので、ついのってしまいます。

「うん!ときめかない!なんかヤだ!」

「でしょ!やっぱしっくりこないじゃない!773じゃ。776も嫌だよね?」

「やだ!」

「163とか来るとね、もうやる気あんのかと。時短やめろと。リーチしてくれ!って思っちゃうわけよ!」

「……うぅん。べつにかな?」

「ん?163が?」

「163はときめくよ!すこしだけど」

 そう私が言えば、何を思ったのかのりおは、「じゃあじゃあじゃあ!」と言いながら、息巻いていました。

「7ー6ー11は?」

「あんまり。」

「マジか。えー、でもこれはなー……2ー7ー11。これは無いでしょ!?」

「すごいときめく!」

 ええそうです。のりおは私に、競馬予想をさせていたのでした。

 そしてのりおは、2ー7ー11を一点買いし、それは大穴と呼ばれるらしいのですが、それが見事に的中。

 のりおは、マクドナルドの片隅で、私をほっぽといて、イヤホンをし、時折「差せ!差せ!」と大声を上げ、周囲の客をビビらし、その後は今まで会ったどの大人からも聞いたことがない、「うっひょっひょ」という下卑た笑い声を、私は生まれて初めて聞いたのでした。

 それからのりおはビックマック片手に馬の名や数字を矢継ぎ早に私へと投げてきて、私がときめくかどうか聞いてくるのでした。

 たぶんだけど、その日、のりおはかなりの額を儲けたと思います。

「うっひょっひょ」が鳴り止むことがありませんでしたから……。

 でも、私は正直ヒマで。だってその日、のりおにプリキュアの映画に連れて行ってもらう約束を交わしていたのに、彼は数字を言うばかりでしたからね。



 そして夕方、迎えに来てくれたママの車に乗った帰り道、いつもの様に、「今日はどうだった?」っとママに問われた私は、つい言ってしまいました。

「のりお、パチンコと競馬と数字の話ばかりでつまらなかった」と。

「のりお、私がときめく数字を言うと、その後すごい喜んでた」と。

 ママは、私が何を言っているのかよく分からなかったみたいで、訝しげな表情でハンドルを握っていました。

「うーん?あ、でもプリキュアの映画は見たんでしょ?」

 そう聞かれた私は、首を横に振りました。

「見てないよ。のりおはお馬さんに夢中だったから」

「はッ?」

「のりおは携帯と睨めっこしてた。イヤホンもしてた。」

「なにそれ?どいうこと?」

「よく分かんない。うるさかったのりお。差せ!差せ!って」

 そう私が言った時でした。

 ママの顔は鬼の形相に早変わりし、そしてハンドルを切ったのでした。

「あの野郎ックソがッ」

 そう吠えたママが向かう場所は一つでした。



 のりおが住む木造二階建てのぼろアパート102号室の扉を、ママは激しく叩いていました。

「出てこいやッおめーッ。千世と約束してたんだろうがッ。なに約束破ってッ競馬やっとんねんッ」

 それは、とても大きな声でした。

 そうとう響いたのでしょう。

 何事か?と、のりおの隣人達が様子を見に外へ出てきてしまいます。

「あんれ、どうした?ここの人、まだ帰って来てないけど?」

 のりおの右隣101号室に住むおばあちゃんが親切にそうママに教えてあげていました。

 そんなおばあちゃんに向かって一度「ちっ」と舌打ちしたママは、携帯電話を取りだし、のりおへと電話を掛けます。

 そして、「止められてんじゃねーかよッ」と怒鳴り、携帯を地面に全力投球していました。

 携帯の液晶が割れ、辺り一面にキラキラと飛び散っていました。

 なおも息を荒げブツブツとなにか呟いているママに、のりおの左隣103号室に住む、ちょっと何人かも分からない住人が、仕切りに怒鳴っていました。

 そんなカオスな現状に、幼かった私は一人困惑し、ワンワンと泣いていました。


――全部のりおがいけないんだ。ちよをプリキュアの映画に連れてかなかったからいけないんだ。ちよに競馬の話なんてするからいけないんだ。

のりおが変な笑い声をあげるのもいけないことだし、のりおがちよに、ときめくかなんて聞かなければ、こんなことにならなかったんだ。


 そんな事を思いながらに泣いてた気がします。

 間の悪いことにのりおは帰ってきてしまいます。

 ビール片手に、コンビニで買ったであろうお惣菜が入ったビニール袋を持って。

 のりお、ルンルン気分でした。

 でも、家の前にいるママの顔を見た瞬間、そんな気分は一変してしまったのでしょう。

 そろうり。そろうり。と、アパートから離れようとするのりおに対し、私は指さし、「ママ、のりお」と、チクリました。

 ママとのりおの目が一瞬だけ合いました。

 のりお、顔を背けました。

「てめぇッこのやろーッ」

 そう叫び、ママはのりおの元へ一目散に駆けていき、そして右耳をギュッと掴んで、私の元へ戻ってきました。

「おまえッ映画はどうしたッ?」

「……。」

「おまえがぁッ離婚する時にッ、どうしても千世に会いたいっつーからッ私は毎週毎週、仕事と仕事の合間縫ってよッ、ここまで千世送ってんだよッ。おめぇッ分かってんのかッ?」

 そう激しく責め立てられながら耳をガンガンに引っ張られ、もう半泣き状態なのりお。

「じゅ、重々に承知でございますッ。すいませんッ。すいやせん!俺に、俺に甲斐性が無いばっかりにッ」

「甲斐性の問題じゃねーだろッ。働いた金全部ギャンブルに遣っちまうのがッ問題なんだろうがッ」

「へ、へぇ。でも……でも、今日は千世のお陰で、へへ。200万ほど、へへっ。」

「それがッ親として恥ずかしいことなんだよッバカがッ。子供に何やらしてんだよッ」

「それは、ごもっともでございます。でも、でも!千世にはギャンブルの才能がッサラブレッドと言ってもいいくらいにあるんですッ」

「自分の子供を馬で例えんなッ。なにがサラブレッドだッ。駄馬のおまえがぁッサラブレッドとか言うなやッ」

「……。じゃあビギナーズラックだったのかな?」

「どうでもいいんだよッ、そんなこたぁッ」

「もうやらさないッ。実の娘に競馬の事も聞かないし、他のギャンブルの話も金輪際しませんッ。だから許してくだぁさい!」

「本当だなッ?つーかギャンブルやめろッ。やめなきゃ会わせないッ」

「そ、そんな。俺のときめきが……」

「なにがときめきだッ。十代の娘みたいな軽い頭しやがってッ頭ん中ショッキングピンクに染めやがって、現実見ろッ。千世の養育費もろくに払えないおっさんがッときめきとかほざくなボケカスッ」

「う、うぅ。ごめん。もうギャンブルやらない。養育費もちゃんと払うから、だから、だから千世にまだ会いたい……それだけが、生きがいなんだよ……」

 そう言って、目一杯瞳に涙を溜めるのりおの目は真剣そのものでした。

 だからママも一言、「……のりお」と言ったきり口を閉ざし、父と娘の今生の別れをさせるか否か、ためらいを覚えていたのかもしれません。

「俺はッ本気だッ頼むッみっちゃんッ!」

 そう言って、勢いよくのりおが頭を下げた時、ちゃっちゃっちゃと。

 粉々になった液晶画面が散らばる上に、銀色の玉が一粒跳ねていました。

 おばあちゃん、何人か分からない人、ママ、そして私。みんな、皆その玉に目を奪われていました。

 そんな中、のりおは……へへっと照れ笑いながら、そのパチンコ玉を右耳へと戻したのでした。

 この世のクズです。でもあまりにもそのクズ加減が常軌を逸していた為か、ちょっとお茶目でした。

 おばあちゃんが溜め息を吐きながら、のりおに言いました。

「あんた……。加藤さん、それはあんたダメだよ。いやね、あんたがギャンブル好きなのはあたしゃよく知ってるよ。あんた勝った日はあたしに焼き鳥買ってきてくれるもんね、いつも。助かってるけどね、でもこれはあまりにも……この状況で右耳からパチンコ玉出して、笑いながら戻しちゃったら……あんた、これはもう……。いいよ、あたし元々焼き鳥あんま好きじゃなかったしさ、もうほんとあたしゃーあんたの為に言うよ。やめな、ギャンブル」

 おばあちゃんに続けとばかりに、何人か分からない人ものりおに言葉を掛けていました。

「カトウさん。ボクは生まれて初めてデス。こんなにヒトを信用デキないと思ったのは。ボク、明日返しマス。あなたに借りた十万円。それで頼むから養育費払ってクダサイ。」

 子供ながらに、のりおすごく憐れまれてると、私は思っていました。

 そんな中、ママはといえば……。

 もう心ここにあらずといった感じに呆然と突っ立ち、そして白目剥いていました。

 のりおは、泣いていました。

「みんなッごめんッ!」と、言ってシャツで涙を拭っていました。

 そんなのりおを見て、再度おばあちゃんが口を開きました。

「なぁ、頼むよ。元奥さん。この男はね、悪い人ではないんだよ。ちょっと……いやかなりギャンブル癖は悪いけど、でも、悪い人ではないんだよ。だから頼むから、その……これからも娘さんと会わせてやってくれないかね?」

「そうデス。カトウさん。いいヒト。ボクひとりぼっちダッタ。国に帰りたカッタ。そんな時、カトウさん言ってくれタ。……チョットその時はまだニホンゴよく分からなかったから、なに言ってんのか分かんなかったけど、カトウさん。笑顔ダッタ!」

「み、みんな!」

 そう言って、のりおはさらにぼろぼろと涙をこぼしていました。

 そして、このアパートの住人達はのりおの為に、のりおと共に、「お願いします!」と、ママへ頭を下げたのでした。

「あ、はい。」と、まだ正気を取り戻していない状態で、ママは生返事を。

 私は、ただただ、のりおって凄いなー。なんてぼんやり子供ながらに思っていたのでした。



 そしてあれからもう九年が経ち、私は高校一年生になりました。

 ママは相変わらずに、のりおの事をぼろくそに言いながらも、船橋へと私を送ってくれています。

 私とのりおが、今話す事と言えば……。


「だから、4ー6ー8の3連単だって、今回は」

「ええー、でもさぁ千世ちゃん。4番のハルコイは調子悪いよ?」

「大丈夫、絶対くるから!」

「ギャンブルに絶対はないのにー」

「のりおは黙って私が言ったの買えばいいの!」

「ハイハイ、千世ちゃんの言うことは絶対ね」

「分かればよろしい。あ、もうママ迎えに来ちゃうわ。ちゃんといつもの様に当たったら、半分私の口座に振り込んどいてね。これ当たったら、18万!クヒヒ。」

「千世ちゃん、あんまり女の子がそういう笑い方しない方が……」

「のりおの血のせいだよ。でも私はギャンブル界のサラブレッド!」

「どうせパパは駄馬だよ」


 なんて会話を繰り広げているのは、そうあの一件以来、のりおが無性に可哀想な人だと思えて仕方がなくなってしまった私は、自分の養育費を稼ぐ為、のりおと共に競馬に心血を注ぐようになってしまったのです。

 最初はよく分からず、当て勘のみでやっていましたが、でも今は目標が出来て、それからは馬の研究に余念がありません。

 目標といのは、身を粉にして働いてくれているママのために、自分の大学費用くらい自分で作ろうと、私は今日ものりおと共にギャンブル道を突き進むのでした。



 差せ!差せ!私!大学はすぐそこだ!

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