密室の演劇

七海けい

密室の演劇


 ネロ様がロムルス帝国の皇帝に即位されてから、12年が経った春。

 ネロ様は、属州グリーシアに足を運ばれた。


 ──帝都に居座る古臭い元老院議員どもに、朕のハイセンスな芸術など理解できるはずがない! 朕の芸術を理解できるのは、いにしえより芸術を愛し、優れた情緒と感性を持つグリーシアの民しかいない!

 ……と言うのが、ネロ様がグリーシアに来られた理由だった。


『芸術とか言っている場合か。皇帝なら仕事をしろ仕事を……』


 もし、あなたがそんなことを言おうものなら、近衛隊がすぐに飛んできて、あっという間に連行されてしまうだろう。それくらい、皇帝の権力は絶対であった。


 だから、俺たちロムルス帝国の臣民は、黙ってネロ様の趣味を見守らなければならない。

 ……ぃや。実というと、黙って見守っているだけでも罪なのだ。一度ネロ様の歌を聴き、ネロ様の劇を見た者は、

『素晴らしい!』『神の歌声だ!』『理想の肉体美だ!』などなど、ネロ様の芸術をあらん限りの言葉で褒め称え、賛美しなければならない。それが、今の帝国のルールなのだ。


 ネロ様がグリーシアに来て以来、グリーシアの各地では、毎日のように芸術祭が開かれている。その全てにネロ様は出席され、自作の詩歌を発表されたり、自作の絵を公開されたり、それはもう、精力的に芸術活動に勤しんでいるのだとか。


 ネロ様の魔の手は、グリーシアでも最も盛りあがる芸術祭「ディオニソス祭」にも伸びてきた。ネロ様は、即位の年から4年おきに2回、ディオニソス祭に参加されている。本人いわく、毎年やるとありがたみが薄れるからだそうだ。

 今年はネロ様の即位から12年目の年であり、ネロ様は3回目の参加と相成った。


 収容人数1万5千人の大劇場は観客で溢れていた。と言うのも、ネロ様が近衛隊を動員し、グリーシアの人々を劇場に拉致監禁したからである。老若男女、身分の高低を問わず、女性も子供も、軍人も議員も、例え病人や妊婦であっても、観劇を拒否することは禁じられた。それでも観劇を拒んだ者は、国家反逆罪と皇帝侮辱罪の容疑で拘束され、猛獣ショー送りとなるそうだ。恐ろしい。





 ここまでの内容は、旅人である俺が、現地の爺さんから聞いた話だ。俺は、帝国の辺境属州──ゲルガニアに生まれた男だ。いつか一流の彫刻家になることを夢見て、芸術の本場グリーシアにやってきた俺は、祭の人混みに吸い寄せられて、深いことを考えずにこの大劇場にやって来た。


 俺は、半円状に並ぶ観客席のちょうど真ん中あたりにいた。前も後ろも右も左も、おびただしい数の客がひしめき合っていて、超満員だった。こんなに大きな劇場を見たのも初めてだったか、こんなに大勢の人を見るのも初めてだった。

 これだけ観客が集まる演劇なのだから、さぞや面白い喜劇か、あるいは、他の追随を許さない圧巻の悲劇なのだろうと、俺は楽しみにしていた。


 そしたら、俺の隣に座っていた現地の爺さんが、


『あんた、……何でそんなに楽しそうなんだい?』


 と話し掛けてきた。顔面蒼白とした爺さんを見て、これは何かがおかしいと思い直し、俺は観客たちの表情をよく観察した。そしたら、男も女も、子供も老人も、みんな冥府の神の前に連れてこられたみたいな、死んだ目をしていた。墓石のように凝り固まった観客たちが、ただ時が過ぎ去ることを祈っているような、そんな顔でたたずんでいた。


 ぃやぃや、それはいくら何でも皇帝陛下に対して失礼ではないか? 四年に一度、ネロ様がロムルス臣民のために、渾身の芝居を打つのだ。確かに、ネロ様の本職は政治家であり軍人であるから、役者としての腕は二流かも知れない(こんなことを口に出そうものなら近衛に殺される)。

 しかし、政治家は弁論を鍛え、軍人は度胸を鍛える。これは、役者に求められる鍛錬と同じである。俺は、ネロ様が素晴らしい劇を披露するものと信じ、少しでも芸の肥やしにできるものがないかと、目を凝らし、耳を澄ませることにした。

 劇の表題は『種を蒔く女神』。聞いたことのない演目だったが、きっとネロ様がこの日のために書き下ろした作品なのだろうと、俺の期待さらには高まった。





 開始60秒で、俺の希望は打ち砕かれた。


 まず冒頭。

 開演のラッパが轟くや否や、ここから、もう不協和音は始まっていた。何なのだ。この酔っ払ったアフリカ象の鳴き声のような角笛は。何なのだ。この風邪を引いた馬のいななきに似た金管は。いったい何なのだ! 錆び付いた扉をぎっこんばったんと開け閉めするような騒音は! 100人はいるだろう楽団が、死人の形相で楽器を掻き鳴らしている。──可哀想に、きっと家族を人質に取られたのだろう……と、隣の爺さんが呟いた。すると、すぐさま近衛隊が駆けつけ、爺さんの背中に張り付いた。罰することもなく、ただただ無言なのが、怖い。

 ぃや、待て。俺は音楽に疎いから、実は、流行の音楽とはこういうもので、俺や、隣の爺さんの方が遅れているだけなのではないか。俺は、そう思うことにした。


 次に、ネロ様が舞台上に現れた。

 ネロ様は、たるんだ段々腹を見せつけると同時に、月桂冠と透明な絹衣を纏って、女神の出で立ちをしていた。

 そして一言『わたしは、アフロディーテ♡』などと口走った。流し目はだけ完璧である。

 ネロ様、もといアフロディーテは、腕に籠を下げていた。なるほど、その中に種が入っているのかと、俺は予想した。しかし、展開はその斜め上だった。


『ていこくに、愛と、……平和をっ♡』


 ネロ様は見事な三段ステップで宙に舞うと、籠の中身を観客席にばらまいた。

 その瞬間、劇場に絹を裂くような悲鳴がこだました。何と、ばらまかれたのは羽虫だったのだ。


『……アフロディーテは思うの。もしも、種に羽が生えていたら、もっと、とぉくに飛んでいけるんじゃないかなぁ……って』


 うっとりとした眼差しで、ネロ様は観客に訴えかけた。両手をハート型に組み、立派な乳輪の前に重ねる。

 しかし、観客席はそれどころではない。パニックに陥ったご婦人方が暴れだし、狂乱の只中にある。近衛が駆けつけ、鎮圧に当たる。強い酒を嗅がせたり、首筋に手刀をかましたり、その素早い対応は、さすがロムルス最精鋭の兵士たちである。


 ところで、彼ら近衛隊には、もう一つの仕事があった。客のが、ネロ様の気分を害してはいけない。ゆえに、近衛隊の精鋭中の精鋭──アウグストゥス喝采団と呼ばれるスタッフ100人が、ネロ様の見せ場の度に、割れんばかりの拍手を送るのだ。


 相変わらずの不協和音と、ネロ様の場違いな熱演と、サクラが送る喝采の中、俺はついに劇場から退出することを決めた。俺は息を吐くと、おもむろに腰を上げた。

 その瞬間、隣の爺さんを見張っていた近衛兵士が、俺の肩を押し下げた。そして、近衛は俺をハンサムスマイルで威圧する。──お前も道連れじゃボケェ。そんな眼をしていた。


 俺は何としてでも脱出しようと、あたりの客を見渡した。ネロ様の演劇も、これが初めてじゃぁない。きっと、この人災に対処するための作戦を考えてきた現地の人がいるはずだ。俺は、そう踏んでいた。

 一人、苦しそうに膨らんだお腹を押さえている女性がいた。しかし、それが仮病であることは、時折見せる自信に満ちた薄ら笑いから窺えた。彼女は、自ら近衛を呼びつけ、叫んだ。


「もうすぐ子供が生まれるわ!! 早く劇場の外へ連れ出してちょうだい!!」


 すると、近衛は間髪置かずに答えた。


「ここで産め」

「はぁッ!?」


 女性は絶句した。


「あ、あんた、本気で言っているのかい!?」

「本気だ。マニュアルにも書いてある。今から助産師の客を呼んでくるから、そこで待っていろ」


 マニュアル!? ネロ様は、そんな事態まで想定していたのか……と、俺は唖然とする。完全に心を折られた女性の服からは、小麦粉か何かを入れた袋がはみ出て見えている。どうやら、妊婦であることすら偽造していたようだ。


「……どうだい。思っていた以上にハイレベルで、ビビっちまったか?」


 隣の爺さんが、俺に話し掛けてきた。


「ぁ、はい……。本当に、マジでビビってます。……この劇って、あとどのくらい続くんですか?」

「半日」


 ぎょぇえ……。俺は、声を出すことも叶わなかった。舞台の上では、ネロ様が薄い衣装を剥ぎ取り、ほぼ全裸となっていた。皇帝は神々に認められた存在であり、理想の肉体美を有する存在であるから、むしろ、服などを着てその美しさを隠していけない。というのは、俺も目指す芸術家界隈の常識であり、恐らくネロ様もそれを意識しているのだろう。


「あんた……。ここから、出たいかい?」


 隣の爺さんは、意味深な口調で言った。


「ぇえ、是非とも……」

「なら、儂の真似をするんだ」


 隣の爺さんは息を目一杯吸い込むんでから、「うッ!」と短く声を上げた。口から唾液の泡を吹き、その場にうずくまると、まるで石のように動かなくなった。


 真後ろの近衛は、爺さんの首筋に指を当て、コクリと頷いた。

 そして、近衛は部下を呼んだ。


「隊長。まさか死人ですか」

「ぁあ。さすがに、死体は外に出さないとな。棺桶を用意しろ。数は……」


 近衛は俺の方を見た。──お前はどうする? と、その目は訊いていた。


「うぅうッ!! ……あッ!」


 俺は、ネロ様顔負けの下手くそな演技で、その場にバタリと倒れ伏した。


「……棺桶は、2つ用意しろ」

「はっ!」


 こうして、棺桶に収められた爺さんと俺は、無事劇場の外に運び出された。

 爺さんと俺は棺桶の蓋を突き破り、自由な空に感謝した。

 爺さんの知恵と近衛の良心が、大どんでん返しを引き起こした。旅に疲れた俺は、故郷に帰ることにした。










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