落陽列車
氏ノ崎しのあ
落陽列車
窓から斜陽が差し込み、赤みがかった光に照らされた車内に男はいた。
一定ごとにリズムを刻み続ける振動を心地よさそうに眠っているが、光が目に差し掛かり目を覚ます。
「……ん、んん。いつまで寝ていた?」
手首の腕時計に目をやると、まだ眠ってから十分ほどしかたっていない。
いまだ新しい腕時計は母さんが買ってくれたものだ。社会人になり、大企業の内定が決まった記念に買ってくれた。僕は母さんの喜ぶ姿を思い返し、自然と笑みがこぼれる。
電車が激しく揺れたせいで意識が元に戻る。
「……今はどこだ?」
車内の電光掲示板を見ると、次に止まる駅に終点の三つ前の駅名が表示されていた。
「……あと三駅か……」
いまだ車内は赤く染まった夕日によって幻想的な空気に染まっている。今、他の人がこの場を見たら、僕は物語の重要人物のように見えるのだろうか。僕はそれに見合うだけの人間だろうか。
そんな益体もないことを考えていたら、いつの間にか電車は駅についていた。
ゆっくりと空気の抜けるような音とともに扉が開く。そこには一人の老人がたっていた。
その人物は年を取っている割には姿勢がよく、表情もこわばっている感じがしなく若々しかった。
老人は僕に気が付くと、目の前にまで来た。
「隣に座ってもよろしいですか?」
最初に浮かんだ言葉は、「どうして?」だ。この車内には、僕しかいないから好きな場所に座れるし、何なら優先席がある。ただ、今の僕はそんな疑問を相手に尋ねる気力すらない。
「……どうぞ」
ぶっきらぼうに、どうでもいいと聞こえるように相手に返す。
「感謝します」
それでも老人は一切表情をゆがめず、僕の隣に座る。
「……」
しばらく無言が続く。
ふと窓に目を向けると、水平線が見えた。海岸沿いを走るこの路線は景色がいいことでも有名だが、僕はそんなことのためにこの電車に乗っているわけではないし、こんなきれいな景色を見ていたら余計に気分が沈む。
「一つお尋ねしても?」
老人が口を開き、緊張感のあった車内が幾分か緩む。
「なんですか?」
「貴方は、どこまで行かれるおつもりで?」
老人がこちらを覗き込むように顔を向ける。その眼は僕の考えを見透かしているようで、少し怖かった。
「……終点まで」
僕は老人の目から背けつつ答えた。
「そうですか。確かに、あの駅を出てすぐのところから見える海は綺麗ですからね」
「……ええ」
老人が僕から目を離す。静寂が戻るが、それは一瞬だった。すぐに老人は口を開く。
「あの場所から飛び込めたのなら、きっとマシな最後になるかも。そうですよね?」
「……!」
僕は驚いて老人を見つめる。老人はいつの間にか僕を見据えていた。
「貴方はあそこで身投げをしようとされている。違いますか?」
「……それを知ってどうするんですか?僕を引き留めるんですか?」
老人は僕に話す意思があることを確認すると正面に顔を向ける。
「それは貴方次第です。貴方がまだ生きていたいと思うのであれば、私は協力しますし、死んでしまいたいと思うのであれば、私は貴方を見なかったことにしましょう」
「……意外ですね」
「そうでしょうか?」
「ええ、大体の人は僕みたいな人間を見かけると必死に引き留めようとすると思いますから」
「……そうですね。大半の人ならば、そうされてもおかしくはありません。いえ、そうなさるでしょう」
「なら、あなたはどうして?」
正面を見ていた目がもう一度僕に向く。その目には先ほどまでの観察するような様子はなく、代わりに決意めいた何かを感じた。
「私は近くの喫茶店のマスターをしております。故に、今までにいろんな人と関わってきました。それは休息を求めに来た方であったり、世間から離れたい方であったり様々です。もちろん貴方のような方も」
「……」
「ですが、私には彼らを救う力はございません。せいぜい彼らの思いを聞くことだけです。彼らには彼らだけの思いがあり、意思がある。私はそれを尊重したいのです」
「だからあなたは僕を引き留めないと?」
「もちろんあなたが望まないのであればの話ですが」
「……」
老人の目は嘘を言っている気はしない。
「……ならこの話は終わりです。僕は死にたいですし、あなたに助けは求めません」
今度は老人の目を見ながら言った。
老人は僕の言葉を聞き留め、うなずく。
「わかりました。では、私はこれ以上貴方に関わりません。ですが、……私は、貴方に死んでほしくないと思っています」
その声は少し悲しそうだったが、それ以上に優しさにあふれていた。
脳裏に幼き日の光景が浮かぶ。昔の母が僕に絵本を読み聞かせてくれていた。あの時の母も、とてもやさしかった。僕を気にかけてくれたし、僕を第一にしてくれていた。
だが、それも過去の事。失ってしまったものであり、二度と帰ってこないもの。二度と僕が手にすることのないもの……。
だからだろうか。気が付けば僕は彼に話しかけていた。
「……僕みたいな人もいたんですよね?その人はどうだったんですか?」
老人がほんの少しだけ驚いた表情を浮かべるが、すぐに表情を戻す。
「そうですね……。彼は一言でいえば、明るい方でした」
「明るい人?どうしてそんな人が僕なんかと?」
「彼はとてつもなく明るい方ですが、それは彼の仮面でしかありませんでした。彼はずっとその仮面をかぶって生きてきたのです」
「……」
それはきっと、とてつもなくつらいことだ。本当の自分を押しつぶし、周囲に愛嬌を振りまき続ける。そうして道を振り返ると、そこには本当の自分でない自分が進んできた道が広がっている。自分が何者かわからなくなることなど、考えたくもない。
「私は彼に無理はしなくてもいい、と伝えました」
「……どうなったんです?」
「彼はまるで幼子のように泣きじゃくったんです。『初めて俺を見つけてくれた』と、私に感謝を述べながら」
「……」
それは分からなくもない。今まで誰にも見つけてもらえなかった自分が、やっと他の人に見つけてもらえたのだ。底なし沼から引きずり上げてくれた老人には感謝しかないだろう。
「それ以来、彼は私の店に入り浸るようになりました。その時の彼は笑みを浮かべず、むしろ嫌いな方の愚痴を言って気分を悪くされるくらいでした」
老人は楽しげに、今さっき起こったことのように話すが、どこか寂しげだった。
「でも、私には彼を救うことはできなかった」
その時、今まで表情を崩さなかった老人が初めて顔をゆがめる。
「私は彼にアドバイスをしたのですよ。もう少し自分をさらけ出してみては、周りの方たちを信用してみては、と」
言葉を重ねるうちに老人の表情はさらに歪んでいく。
「彼はまた私に感謝を述べて、その場を去りました。それ以来、私は彼の姿を見ていません。その時になって私は気が付いたのです。私は間違えたのだと」
老人は手元を見つめ、ゆがんだ表情のままにらみつける。
きっとこの人は自分自身が許せないんだろう。自分が無責任に言ってしまった言葉で、一人の少年の人生を摘んでしまったことを。自分が余計なことを言わなければ、彼は生きていたのかもしれないのに。
「……それが、あなたが僕の意思を尊重する理由ですか?」
僕は恐る恐る老人の表情をうかがいながら訪ねる。
老人はその言葉によって現実に引き戻されたように、さっきまでの優しい表情に戻す。
「ええ、もう私は同じ過ちを繰り返したくはないのです。……いいえ、違いますね。私は単に怖いだけなんですよ。あなたの人生を背負うことが」
今度は表情をゆがめることはなかった。ただただ、そこにある事実を受け止め、自分の中に落とし込めているような気がした。
「……でも――」
僕の言葉は車内に響き渡ったアナウンスの声でかき消された。
「そろそろ次の駅ですね。では、私はこれで失礼します」
老人が立ち上がる。
その背中がひどく寂しげに感じて、手を伸ばし気づいた。
僕は今さっき何を言おうとしたんだ……。
老人を励まそうとしたわけでもない、同情したわけでもない。一度老人の行為を無碍にした以上、その気持ちがわかるまでは、僕はその背中を引き留めてはいけない気がした。
次の駅に留まり、扉が開くと同時に老人は足早に降りていく。代わりに胸に赤ん坊を抱えた女性が乗車する。それと同時に、電車は走りだす。
女性は僕の正面に座るとぐずりだした赤ん坊をあやす。
赤ん坊の顔は女性の胸にうずめていて、見ることはできない。
女性はゆっくりと赤ん坊をゆすり、子守唄を歌いだす。この距離なら聞こえてもおかしくないはずなのに、なぜか女性の歌声は一切聞き取ることはできない。だというのに、僕は女性が歌っているのは子守唄だということがわかった。
女性の顔は母に似ているわけではないのに、赤ん坊をあやす母親と、それとはお構いなしに泣きじゃくる赤ん坊を見ていると、なぜかひどく懐かしく思えた。
「――」
女性が突然こちらに目を向ける。
女性は僕の存在に気づくと、今まであやしていた赤ん坊をほったらかして、僕の方によって来る。
女性の突然の行動に、僕は見ていることしかできなかった。
そうして女性は僕の近くに来ると一言だけ言った。いや、声は聞こえなかった。でも、僕にはしっかりと何を言っているのかがわかった。
『できそこない』
その言葉が空っぽになった頭の中で反響する。
反響すればするほど大きくなり、聞き逃そうとする僕を逃がさない。
次第にそれは耳鳴りに近い何かになり、僕を激しく攻め立てる。
耳が痛い。
あまりの痛みにその場にうずくまる。
今僕の手にナイフがあったのなら、きっとすぐにでも耳を切り落とす。いや、頭の中で聞こえているのだから、そんなことをしても意味がないか。
痛みに慣れてきたころ、顔を上げると、女性がまだ僕を見ていた。
その顔はいつの間にか母さんの顔になっていた。
その顔を見た途端、僕の思考は真っ赤に染まる。
「なんでそんな顔で僕を見る……」
『……』
「どうしてだよ。どうして僕を見てくれなかった!!」
言葉を吐けば吐くほど、腹の奥底でため込んでいた思いがせりあがってくる。
この人は母さんではない。僕が勝手に重ねてしまっているだけだ。
そう理解しているはずなのに、奥底から噴き出してくる思いを止められない。一度開いてしまった口を閉ざすことができない。
「僕はあんたに褒めてほしかった!ずっとずっと!それだけが僕の願っていたことだった!」
『……』
「でも、あんたは僕を見ていなかった……。見ていたのは僕の成績だけだ!」
『……』
「口ではあなたのためだとか言っておいて、紙に書かれた数字でしか僕を見てくれない!勉強ができるようになれば将来いい職につける?そのためなら今の僕がどうなってもいいってのかよ!」
ああ、これは僕の怒りだ。ずっとずっと抑えてきた、理性が閉じ込めていた僕の本性。
僕はその本性をさらけ出せば、母さんとの関係が崩れることがわかっていた。
でも、今はその感情を閉じ込めていた部屋の扉は開かれている。
その中に潜む獣が、僕の理性を食い散らかして、タガを外す。
「あんたが願ってるのは将来の僕の幸せだ!今の僕の幸せなんかみじんも考えちゃいない!」
『……』
「ほんとに僕のことを考えてくれているなら、昔みたいに褒めてくれよ!!昔みたいに抱きしめろよ!昔みたいに、僕を愛してくれよ……」
『……』
途端に、女性が僕に興味をなくしたのかのように踵を返す。
「おい、こっちを見ろよ……。見ろっつってんだろ!!」
僕は女性の肩をつかみ、無理やり此方を向かせる。
女性の顔は見えない。そんなものを見ている余裕などない。
「――――――――――!!!!」
もう僕には僕が彼女に何を言っているのか聞こえない。たぶん、ひどい罵声じゃないかな。きっと、聞けば親子なんかどうでもよくなるほどのものだ。
声は次第に獣の唸り声に変わり、真っ赤に染まった視界はテレビの電源が切れたみたいに、プツンと途切れた。
「……ん。また寝てたのか……」
目を覚ました僕はすぐにあたりを見渡すが、先ほどの女性はどこにも見当たらない。
「……夢だったのか?」
その割には、あの腹の底から熱が湧き出してくる感覚はやけにリアルだった。
「……考えても仕方のないことか」
これ以上思い出せば、思い出したくもないことまで思い出す。僕はそれが嫌でここまで来たんだ。そうだ、僕は逃げたんだ……。
しばらくうつむいていると、また電車が止まり、扉が開く。
今度は高校生ぐらいの男子二人組が乗って来た。
彼らはこちらに気が付いていないのか、二人で話をしている。
会話の内容はまた聞こえない。どんなに耳を傾けても、ノイズの混じった雑音のようなものになる。
ただ、彼のうちの一人の声には聞き覚えがあった。今までずっとそばにいた声のような気がして、僕は彼の顔を恐る恐る除く。
彼の顔は夕焼けで赤く染まってよく見えなかった。
しかし、彼の背格好、声、癖だった後頭部をかきむしる仕草を見て、すぐに彼の姿が置き変わった。
彼の姿を見るのは久しぶりだった。最後に合ったのはいつだろうか。中学三年の夏から見てないから、十年近くは過ぎているはずだ。
彼の姿がひどく懐かしくて、気が付けば僕は彼の肩に手をかけていた。
「久しぶりだね……」
けれども、彼はこちらに目を向けない。変わらずに隣にいる友人に話しかけている。
「おい、無視しないでくれよ……」
今度は揺さぶってみるが、これも同じだった。どんなことをしてもこちらに見向きもしない。
彼はそもそもこちらの存在に気が付いていないようだった。
ああ、そうだ。この目だ。
あの時も彼はこの目をしていた。
彼の目には正面にいる人間の事なんか映っていない。
自分の事しか見えていない目。
目の前にいる人物と付き合うことを損得で考えている目。
この目に僕が気付いたのはいつだろうか。他愛ない会話の中だった気もするし、僕が彼に相談していた時かもしれない。
どちらにしろ、僕は彼にそんな顔をして欲しくはなかった。
「……」
彼はまだ僕を見ない。
この状況で彼が僕に声をかける期待をしていることに馬鹿らしくなって、おとなしく席に座る。
そうだ、彼とはすでに縁を切ったんだ。今更期待したところでどうにかなるわけじゃない。
そうやって言い訳を重ねているうちに、彼らの会話が険悪な雰囲気になる。
彼の相手の少年が彼に疑問を投げかけたのだろうか。彼は少年の受け答えに困ったように黙りこくる。
少年はその姿を見て、彼に詰め寄る。
その少年の声だけはなぜかはっきりと聞き取れた。
『どうして黙るんだよ!俺たち親友だろ!』
ああ、それ以上はだめだ。それ以上言えば……。
彼はため息をついた後、少年に言い放つ。
『別に、親友なんかじゃねえよ……』
あの時の僕は心がすさんでいた。
家に帰れば僕のことを成績でしか見てくれない母さんがいて、毎晩毎晩、成績のことを聞かれる。
僕は僕自身を見てくれる誰かを欲していた。
だから、母さんと同じで僕自身を見ていない目に気づいてしまった僕は、彼に詰め寄って、そうして関係が変わってしまった。
彼は僕のことを損得勘定でしか見ていなかったのかもしれない。
でも、それでも。僕にとって、彼は確かに親友だった。
こうして、別の人物に彼の姿を重ね合わせてしまうほどには。
「……ん」
視界が歪む。
僕自身もなんとなく気が付いている。これは夢だ。最後に見る走馬灯のような何かだろう。
でも、僕はまだ彼の姿を見ていたかった。
何とか目を開き、彼の姿を見据える。
彼は最初とは違い、少年のことを見てはいない。それでもかまわない。今僕は彼の近くにいるのだから……。
「……」
また目を覚ます。次の駅にはまだついていない。
「……まだ僕は彼のことを……」
一度終わってしまったのに、こうして未練がましく彼のことを思い返すことが、寂しくもあり、うれしくもあった。
でも、そうして思い返すのもこれで終わりだ。
あと二駅で僕の人生は終わる。そうなれば、こうして思い返すこともないのだから。
電車が少しずつ速度を落とす。
あと少しで次の駅に着くのだろう。
ふと、嫌な予感がした。
ここまで僕は走馬灯のような何かを見てきた。
それらは、誰もが僕の人生に深くかかわってきた人物ばかりだが、その中に彼女はいなかった。
僕は生つばを飲み込む。
これから見るのは僕の根底の部分だ。こうしてこの電車に乗っている元凶。
できれば見たくないし、見られたくはない。彼女の前では、強い自分でいたかった。
次の駅を通り過ぎないか、という願いもむなしく、速度がさらに落ち、電車は止まる。
それがわかると同時に、僕は耳をふさぎ、俯こうとした。
でも、そんなことはできなかった。
窓ガラスから彼女の顔が見えてしまった。
その顔を見てしまった僕は、扉を見つめる。
彼女があの時と同じ笑顔を僕に向け、僕の隣に座って話しかけてくれることを期待していた。
だが、その期待がかなうことはなかった。
彼女の隣には一人の男性がいた。
彼の顔は今までの人物と同じように夕日に染まっていて見ることはできない。
彼女は隣の男性に目を向けると、笑顔を浮かべる。
電車はその二人を乗せ、次の駅へ向かうべくして進む。
彼女は隣の男性と楽しそうに話している。
その顔を見て、僕は首を真綿で締められるような感覚を覚える。
息が詰まり、ヒュッと、呼吸音が漏れる。
やめてくれ。その顔を、その声を、僕以外のだれかに向けないでくれ。
彼女の楽しそうな顔を見れば見るほど、呼吸がつらくなる。
その苦しみから逃げるように、僕は目をつむり、耳をふさぎ、その場にうずくまる。
それでも、彼女の声は聞こえてくる。それだけで、僕はまた苦しくなる。
呼吸が細くなるにつれ、心臓の鼓動も早くなる。そのせいで心臓の音がうるさい。
その音で彼女の声が聞こえなくなるかと思ったが、それでもまだ彼女の声が聞こえてくる。
僕があまりの痛みにうずくまっていると、彼女の声が止まる。
ああ、よかった。これでもう痛い思いをしなくてすむ。辛くて、悲しくて、寂しくなるようなことを思い返さずにすむ。
そう思っていると、彼女の声の代わりに、足音が聞こえてきた。
コツコツという、女性のヒールの音。
彼女が僕に近づいている。そう思うだけで、先ほど以上の痛みに襲われる。
心臓があまりの速さに破裂してしまいそうだ。
呼吸はさらに苦しくなり、まともに空気を肺に送ることができない。
瞼の裏の視界が赤く染まり、意識がもうろうとしてくる。
彼女の足音はもう聞こえない。
そのことに安心した僕は、少しだけ目を開ける。
そこには心配そうな表情で僕を見つめる彼女がいた。
そういえば、僕が風邪をひいた時も、こうして彼女が僕の隣にいてくれたっけ……。
首は完全に締まり、呼吸ができない。さっきから頭痛なんて比じゃないほどの痛みが襲っている。
もう、無理だ……。
僕の視界は次第と暗闇に包まれる。
どうせここで終わるのなら、最後に彼女の顔を見ておこうと思い、少しだけ顔を上げる。
残念ながら、もう僕には彼女の顔がはっきりとは見えなかったが、彼女の言葉はしっかりと聞こえた。
『忘れないで』
気が付けば、僕は横になっていた。
顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっていた。そのせいで、マットも随分と汚れていた。
僕は力の入らない体を何とか起こして座りなおし、ポケットから取り出したティッシュで顔をふく。
気分はまだ落ち込んでいる。
彼女の最後の言葉が僕の耳から離れない。
「僕は忘れようとしていたんだな……」
僕はその当たり前の事実から目を背けていた。
彼女のいなくなったこの世界を、彼女を僕自身が死ぬことですべて忘れようとした。
僕はその事実から目を背けたくて、窓の外へ目をやる。
窓からのぞく夕日が水平線に沈みつつある。
「……死ぬなら、明るいうちにしないとな」
電車が終点へと到着する。
人の気配はしない。誰もいないのなら、これから僕のすることを誰にも見られることはない。
「……」
僕は重い足を引きずるようにして、目的の場所へ向かった。
どれほどここにいたのだろうか。
気が付けば、僕は目的の場所についていた。
夕日がまぶしくて目を閉じると、波の音がはっきりと聞こえてくる。
穏やかな波の音が心地よくて、このまま日が落ちるまで聞いていたい衝動に駆られる。
けど、ここには僕は死ぬために来たんだ。
『忘れないで』
「……」
波の合間に彼女の声が聞こえてくる。
「うるさい……」
僕は彼女の声を無視し、崖にかけられた柵を乗り越える。
「……」
彼女の声はもう聞こえない。
僕を止める者はもういない。
だというのに――
「……そこで何をしているんですか?」
僕は背後に感じた気配に尋ねる。
ここまで来るのなら多分あの人だろう。
「ばれてしまいましたか」
草陰に隠れていた初老の男性が現れる。
その老人には見覚えがあった。最初に僕の隣に座ってきた老人だった。
「どうしてここに?喫茶店の方はいいんですか?あの駅の近くなんですよね」
あの駅からここまではけっこう距離がある。それなのに自分の店をほっぽり出してここまで来るのだろうか。
「確かに私は近くとは言いましたが、あの駅の近くではなく、この場所の近くです。少し用がありまして、あの駅で降りたのです」
「……」
ということは、僕は騙されたのだろうか。そう思うと少しだけいやな気分になる。
その感情が表情に出ていたのか、老人がすぐに訂正する。
「いえ、決して私は貴方をだますつもりはなかったのですよ。ただの私の説明不足です。ここに来たのは、あなたがどうなったのか気になったからです」
「……あなたの言葉は今も変わりませんか?」
「ええ、私は貴方を止めるつもりはありません」
老人はきっぱりと言い放つ。
そのことに少しだけ薄情だと思ってしまった。
正面に向き直る。
そこには視界いっぱいに広がる海しかない。船は一隻もなく、果てに見える水平線までの距離は測り知れない。
「……走馬灯のようなものを見ました」
無意識のうちに僕は口を開いていた。
老人は黙って僕の話を聞こうとしてくれている。
僕は心の中で老人に感謝し、話を続ける。
「最初は母さんに会いました。昔のあの人は、確かに僕を愛していました。でも、今の母は僕にはそう思えない。母さんは口を開けば僕の成績の事ばかり、だから僕は母さんが望んでるのは『優秀な僕』であって、僕自身じゃない、と思ったんです」
もう少し言葉にするのに詰まると思ったんだが、口にすればするほど、僕の中の感情がはっきりとしてくる。
「それで僕は、母さんが僕を愛していないと思ったんです。あんなに母さんのために頑張ったのに、母さんは僕を褒めちゃくれない。僕ばっかりが母さんのことを思っているようで、馬鹿らしくなったんですよ」
僕は少しでも母さんに見てほしかった。でもそれは社会人になった今では到底かなうことのない願いだ。
「その気持ちは今も変わりませんか?その腕に着けている時計は、あなたには買える値段の物には見えませんが?」
老人の言葉に動かされるように、僕は左腕を持ち上げ、腕時計を目の前まで持ってくる。
腕時計が夕日を反射して、赤く光る。
あの時、久しぶりに母さんの笑顔を見た。あの人は本当にうれしそうで、涙まで流していた。
「……だとしても、もう遅いですよ」
あの時の母さんは昔と変わらなかったのかもしれない。でも、今の僕はすでにそれを素直に受け止めることなんてできない。
「……今のあなたは愛されたいのではなく、愛を知りたいのではありませんか?」
「……」
以前の僕は、母さんの代わりとして、彼や彼女にすがった。あれは僕が心にできた隙間を埋めるために必要なことだった。そうでもしなければ、もっと早くに母さんとの関係が終わっていた。
なら、今の僕はどうだ?
今はこうして母さんとの関係を断とうとしている。それも自分自身の手によって。
少なくとも、もう今の僕は母さんに愛されたいとは思わなくなっている。
「そうだとしても、もう教えてくれる相手なんていませんよ」
老人の返答はない。話を続けろということだろうか。なら、その通りにしよう。
「次は昔の親友に会いました。僕は彼を本当に大切に思っていました。でも、彼はそう思っていなかったみたいで、僕に利用する価値がないとわかると、すぐに見限ったんです。でも、僕はそのことに関して怒りを抱くことはありませんでした。あの時はすでに母さんに愛されていないと思っていましたからね。母さんと同じように、ただ、失望したんです……」
僕を見捨て、裏切った彼を、僕は彼と同じように見捨てた。だから、あの時は悲しいなんて感情はわかなかった。
「……なのに、今更彼の姿を見て、寂しいなんて思ったんですよ。おかしいですよね。母さんにはもう何も思わないのに……」
「それは過ごし方、接し方があなたの母親と違ったからですよ。それらが変われば、自ずと抱く感情も変わるものです。あとは、貴方が大人になったというのもあるのでしょう」
「大人ね……」
思えば僕は子供だった。それは体の事だけではなく、精神的なことでもだ。
誰でもいいから僕を愛していてほしかった。
僕を見ていてほしかった。
今ではそれは欲張りなことだとわかる。誰彼問わずに愛されるなんて、あり得るはずがないのに。
「僕は大人になれたんでしょうか?」
ふと、口に出した疑問は自分自身に向けられたものだ。
欲をかかずに、一歩引いて周りを見て、無理だとわかれば潔くあきらめる。
それが大人の形だとすれば、今の僕は子供のままだ。
「……」
老人の返答はない。老人もこれは自分に向けられた疑問ではないとわかったのだろう。
その答えは自分自身で見つけろと何となく言われているような気がした。
しばらく無言でいると、今度は老人の方が口を開いた。
「貴方はそのお二人に会って、気持ちが変わったのですか?」
「……いいえ、僕が会ったのがあの二人だけなら、すぐにでもここから飛び降りましたよ」
「ということは、他の方にもお会いになられたので?」
「……最後に、僕の彼女に会いました。彼女の最後の一言だけで、僕は自分が死にたいかですらどうかわからなくなっている」
彼女の声は聞こえないが、最後の言葉はまだ耳に残っている。
もしかしたら、彼女は僕の背後にいて、僕の行動を一つとして見逃さないようにしているのではないかと思えてしまう。そして彼女は僕のことを悲しそうに見つめている。
振り向けば、彼女のその顔が見えてしまいそうで、僕は海を眺めていた。
「貴方にとってその女性はとても大切な方だったのですね」
「ええ、本当に大切な人で、ずっと一緒にいたいと思っていました。たった一言で、僕の決意が鈍るほどには……」
岸辺に立つ僕の足は、さっきから石になってしまったみたいに動かない。
「僕はどうすればいいですか……?」
僕は老人に尋ねる。返答なんて期待していなかった。でも、意外なことに老人は僕の質問に答えてくれた。
「私がその疑問に答えを出しても、それは貴方自身の答えではありません。それでもよろしいのであれば……」
「ええ、かまいません」
だんだんと考えるのが面倒になって来た。
どれほど考えても、答えは出ず、同じ言葉が頭の中で堂々巡りをする。
それにさっきから彼女が僕を見ている。
もう、嫌だ。
背後で、老人が大きくため息をついた。
「貴方は今、自分自身で答えを出すこと、そして彼女から逃げようとされている。今一度、彼女と向き合いなさい」
「逃げるにも、彼女はこの場にいませんよ」
「ここにはいなくとも、貴方の心の中にいるのでしょう。海ばかりを見ていないで、こちらを見なさい」
「……できません……」
「なら、貴方はその場に立ったままですか?答えを出さない限り、貴方はそこから動けないままですよ」
「僕は彼女から逃げてきたんですよ!今更どんな顔をして彼女に会えと!」
「それでもです。そうしなければ……、貴方は死ぬことすらできない。それとも、私があなたの背中を押しましょうか?」
「……」
それは嫌だった。僕はここまで自分の意思でやって来た。なら、自分の最後は自分で決めたいと、そう思った。
深呼吸をして、少しずつ呼吸を整える。
なのに、心臓の鼓動は収まらず、がんがんと鳴り響く。
僕は一息に振り向く。
目の前には老人がたっていた。彼女の姿はどこにもない。
それもそうだ、彼女はここになんていない。さっきから視線を感じていたのも僕の思い過ごしだ。
「ようやく私の顔を見てくれましたね」
老人の声が少しだけ弾んでいるように思えた。
「答えは出ましたか?」
「振り向いただけですよ。それだけで答えが出るわけないじゃないですか」
だというのに、気持ちはさっきよりも軽くなっていた。
「そうですよね。でも、貴方は自分自身で答えを出す覚悟をされた。私にはそれが我が事のように嬉しいのです。これからどうするおつもりですか?」
「……いったん帰ります。今度は逃げることなく、ちゃんと考えます」
「……はい、それでいいんですよ」
僕はもう一度柵を乗り越え、老人の目の前に立つ。
「今度私の店に来てください。答えを出すのに行き詰まったのなら、相談相手にはなりますよ。その時にはコーヒーもお出ししましょう」
老人があまりにも嬉しそうに言うもんだから、僕はなんだかおかしくなって、自然と笑みがこぼれる。
「なら、楽しみにしておきますよ。……暗くなってきましたし、僕は帰りますね」
「では、私がお送りいたしましょう」
老人が先に歩き出す。
僕はその背中を追う。
ふと、波の音が聞こえた。
その音を探すように、僕は視線を背後に向ける。
気が付けば、夕日は水平線に沈んでいて、あたりは暗闇に包まれていた。
周囲ははっきりと見えないし、これでは音の発生源を探すことはできない。
諦めて老人に向き直ろうとしたとき、視界の端で彼女が見えた気がした。
僕はもう一度振り返ろうとした首を止める。
目の前で老人は黙って僕のことを待っていた。
もう大丈夫。今度は逃げないから。
僕が歩き出すと、後ろで彼女が笑っているような気がした。
母さんと話してみよう。彼に久しぶりに電話してみよう。そして……彼女の墓に行ってみよう。
そうして、今度こそ答えを出す。
つまずいたら、きっとこの老人が立ち上がるまでそばにいてくれるはずだ。
だから、不安に思うことはなかった。
僕は老人のもとまで歩きだす。
進むべき道は月光が照らしていた。
落陽列車 氏ノ崎しのあ @shinoa08
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます