布団に埋もれてしまえたら

浜能来

第1話

 人生の三分の一が睡眠時間、それって、とても幸せなことじゃあなかろうか。

 だってその間、僕らはあらゆる現実から離れて、ふわふわとした曖昧の中を生きていられるのだから。


 ◇◆◇


 がこん。玄関扉に備え付けの郵便受けに、乱雑に何かが入れられる音。

 春眠暁を覚えず。僕は気怠い眠気の権化と化した布団をのっそりと押しやった。窓際、カーテンを透かす薄明かりに、僕らの上に吊るされた洗濯物の、微かな黴臭さ。


「んぁあ?」


 突然やってきた朝の空気に納得がいかないとばかり、僕の隣で沙耶香が身体を丸めた。猫みたいに可愛いけれど、ほのかに汗ばんだ痩せぎみの身体に毛皮はないのだから、このままでは風邪をひいてしまう。

 僕は彼女にそっと布団をかけ直して、その頭を撫でてやる。何度も染め直した髪は手のひらをがさがさと引っ掻いた。きっと起き出せば、きぃきぃ言いながら枝毛探しを始めるのだ。


「さて」


 いつまでも撫でているのも、客観的に気持ちが悪かろう。僕はようやく起き出して、僕を起こした元凶へ足を向けた。

 大学生がバイトで賄えるくらいの、安いアパートだ。ベッドのある居間を出れば、玄関はすぐそこ。僕はぎしぎしと開きにくい郵便受けの蓋を開ける。


 中にあったのは、一冊のノートだった。


「なにこれ」


 取り出して、裏に表にひっくり返す。なんのことはない、茶色いだけの表紙に挟まれた、B5ノート。たった三文字の表題が目に入る。


『東雲 椿』


 名前だった。春の『日』の部分など丸っぽくて、小中学校の女の子のノートにいっぱい書いてありそうな筆跡だ。

 不審に思いつつも、どうせこのままでは捨てるしかない。中身をパラパラとめくってみる。

 そこには住所――意外に実家の近くだった――や連絡先、親族の名前、また連絡先。貯金、その隠し場所。こっそり書きためた漫画の処分について。


 そして、自分史。


「うわぁ、これ。エンディングノートだ……」


 何故かすっと浮かんだその言葉が、存外にしっくりくる。

 確か、死期の迫った人が書き記すもので、死後に自分が伝えなきゃいけないこと、伝えたいことを書き残すものだ。

 それは字の幼さにはけして似合わず。また、『いっくん』の頻繁に登場する、彼女の弾むような恋の人生は確かに十数年で打ち切りとなっていて、その生死もわからない。


「何かの悪戯かな」


 ばららららら、と残りのページを流していく。所詮十数年の短い人生では、ノートの半分も書き尽くせてはいないのだ。

 例えば、なぜ僕の元にこれを持ってきたのかとか、そういった答えも見つからないまま終わりに差し掛かる、その最後のページ。


「私を、探して……?」


 記された流麗な文字を口の中で呟いた時だった。


「はじめぇ、起きたらいないなんて、さみしいだろ?」

「うわっ、沙耶香?!」


 突然の体重が背中にかかる。頬をかすめるがさついた髪。思わずノートを閉じる。

 沙耶香だった。いつの間にか後ろにいたのに僕がびくりとしたのを、くすぐったそうに受け取る。


「お前、いつからわたしを一人にできるほど偉くなったんだ? うん?」


 彼女のハスキーな声で囁かれると、たとえ怒られていたって背筋がぞくぞくとした。すると、どうやら顔に出てしまったらしく、沙耶香は僕の頭を折り曲げた中指でぐりぐりとする。


「痛い、痛いって」

「参ったか?」

「参った! 参ったから」

「んふふ。なら、よし」


 上機嫌な声で許しが出て、僕の頭はようやく解放された。じんじんと残る感触をさすりながら沙耶香を肩越しに見上げると、ふわぁとあくびをしているところ。

 見んなとばかり、爪先で背中を小突かれる。


「ていうか、服着なよ」

「うっさい。仕方ないだろ」

「仕方ないって……」


 僕は一瞬だけ見えた彼女の姿を思い返して言う。キャミソールにパンツを合わせただけの、まさに布一枚だった。

 それで仕方ない時代というのは、だいぶ昔のはずなのだが。


「……お前が、いなかったんだ」

「それは、また……」


 そんな風にふてくされて言われてしまえば、僕だって何も言えないじゃないか。しかも、言った本人まで恥ずかしがるんだからどうしようもない。

 気まずい沈黙が、狭い玄関に落ちる。


「いいから! 朝飯にするぞ!」

「あで」


 それを吹き飛ばすように僕の背を蹴り付けて、彼女の足音がキッチンへ向かった。振り返ると、どうも彼女は枝毛を見つけたらしく、不機嫌そうに指先で遊ばせている。

 その手首には、うっすらとピンク色に盛り上がる線があった。彼女の内の肉の色を写した、その愛の証。


「ごめんね、東雲さん」


 このエンディングノートの意味がなんであれ、僕はもう沙耶香を抱えてしまって離せない。彼女はとても危うげで、僕がいないと壊れてしまうから。

 名前だけが書かれたノートを持って立ち上がる。ちょうどよく、今日は燃えるゴミの日だった。


 ◇◆◇


「はー、寒い。寒すぎないか、はじめ」

「寒いって言ったって、もう春じゃない」

「えぇ、そうだったか?」

「そうなの。えーっと、だってもう、確か……あれ、何月だっけ」

「なんだお前、締まらないな」

「うん? あれ……?」


 人をからかっておいて首をかしげる僕を、沙耶香が小突く。大学も休みに入ってしばらく経つし、カレンダーの感覚というのを失ってしまったのだろうか。

 ただ、麗かな日差しや緑のつき始めた街路樹。重い上着を脱ぎ捨ててどこか軽々とした人々の往来を見るに、春であることは間違いなさそうだ。

 特に、裾の長いダッフルコートをぴっちり着込んでいるのなんて、沙耶香くらい。


「いやでもやっぱり、そんなに着込む必要ないよ」


 僕は自分の不利な話題から逃げるように、強引に話を戻す。それに対して沙耶香は、どうやら臍を曲げてしまった。


「いいだろ、別に」


 眉を潜めて、口の端を噛む。彼女が不満たらたらな時の仕草だ。


「お前、もしかして恥ずかしいのか? わたしといるの」

「いや、そんな!」


 まずい、やらかした。

 彼女は機嫌を損ねてしまうと、非常にめんどくさい。普段は隠れていたマイナス思考と被害妄想が顔を出して、勝手に作り出した負のスパイラルに飲み込まれていく。僕の脳裏に、剥き出しのカッターの替刃を握った彼女がよぎって、慌てて口を回す。


「ほら、その、そう! 沙耶香の春の装いも見てみたいなって」

「………… ほんとか?」

「ほんとほんと! なんなら今から買いに行こう!」


 僕は沙耶香の手を取って、走り出した。人混みが、なんだなんだと僕らを避けていくのも、今は都合がいい。

 すぐに息が上がってしまうが、それでも走る。おそらくは情けない顔で振り返ると、戸惑った顔の沙耶香と目があった。

 彼女がぷっと吹き出す。震えていた手が、僕の手を握り返してくれる。

 それだけで、十分だ。


 もともと、どういう予定で外出したのかなんてもう覚えていないけど。行く場所は決まった。

 都合良く、流行のショップの場所も頭に浮かぶ。

 日差しは暖かく、絶好の買い物日和。

 それだけに、僕の足は自分の疲れなんてものともせずに走り続け。そのまま、角を曲がる。


「うわっ!」「きゃっ!」


 結果として、僕は一人の女性とぶつかってしまった。艶やかな黒髪がぱっと広がって、女性が尻餅をつく。鼻をくすぐる、金木犀の香り。


「えっと、ごめんなさい。急いでて……」

「あぁ、いいんですよ。私も前、見てませんでしたから」


 そして、乱れた髪を手櫛で整えて顔を上げる彼女と、目が合う。


「――椿?」


 言った時には、誰が言ったのかわからなかった。後ろから沙耶香が裾を引くのを感じて、ハッとする。

 椿。僕の口から無意識に溢れた名前。

 一度目を丸くした、僕が椿と呼んだ彼女が、目を潤ませて言う。


「いっくん……?」


 いっくん。いや、僕の名前は、はじめ。

 頭痛がする。割れるような。自分の存在ごと割れてしまいそうな。


 はじめ。


 はじめ


 いっくん。


 まるで映画のエンドロールみたいに頭の中に流れる名前の羅列。


「う、うあ……」


 口の端からよだれが垂れていた。目眩がして、たたらを踏んで、視界の端に入ってくる沙耶香。

 彼女の手には、カッターの替刃。


「うわぁぁぁぁっ!」


 得体も知れず、気持ちが悪かった。たまらなくて駆け出す。沙耶香はなにも言わない。


 エンディングノート。すぐわかるはずだ。あれは僕が椿と一緒に書いた。若いゆえの悪ふざけ。

 何月かわからないって、なんだ。カレンダー感覚を失う? そんな馬鹿な話があるか。


 がむしゃらに走った僕は、部屋へと戻っていた。

 今ならわかる、これは僕の部屋じゃない。沙耶香の部屋でもない。椿の部屋だ。


 その扉に手を伸ばそうとして、怯む。暴れて、飛び出していきそうな心臓の動悸。視界は不自然に暗くて、自分の手と、ドアノブしか見えない。

 それでも、僕は自分の荒い息遣いに急かされるように、ドアノブを回す。


 ◇◆◇


 椿の部屋の前、なぜか沙耶香が立っていた。


「どうしたの、そんな厚着で」

「ちょっと。隠したいんだ」


 季節に合わない長めのコート。彼女が僕へ向き直る。そうして見えるようになった右手には、真っ赤に染まったカッターの替刃があった。


 ◇◆◇


 目が覚めると、そこは厚手のカーテンに守られた、薄暗い部屋だ。むせかえる鉄臭さの中で、柔らかなベッドに僕は寝かされている。

 みじろぎをしようとして、かちゃりという金属音。右手にひんやりとした硬い感触。触るまでもなく、手錠をかけられていたことを思い出した。

 額にかいていた、じっとりとした汗を拭う。我ながら、おぞましい夢。


「はじめ、おきたのか?」

「……起きたよ」


 答えないのは、もう試した。どうせ入ってくるのだから、返事をしておいた方がいい。

 扉が開かれ、光が差した。床一面の赤が色を得る。


「朝飯、持ってきたぞ」

「うん、嬉しいよ」


 機械みたいに返事をして、僕は天井を見上げる。


 人生の三分の一が睡眠時間、それって、とても幸せなことじゃあなかろうか。

 だってその間、僕らはあらゆる現実から離れて、ふわふわとした曖昧の中を生きていられるのだから。


 でも神様。人生の三分の一じゃ、少なすぎる。

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布団に埋もれてしまえたら 浜能来 @hama_yoshiki

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