くどく、くどく

季弘樹梢

・・・1

 初めてかつ姉とセックスしたのもこんな天気だった。

 バスの後ろから走ってきた雨脚は一瞬で窓の向こうを真っ白に染め、エンジン音に窓を叩く大粒の雨音が混じった。太陽の気配すら感じられない午後三時、予報では夜から明朝にかけて激しい雷雨となるらしい。私は聴いていたアレサ・フランクリンの音量を上げた。力強い高音が耳に痛かった。

 隣ではかつ姉がなよやかな指先で文庫本をめくっていて、私はしばしばその曲線に見惚れた。自然なピンクの短い爪は端正な顔立ちと短い髪に似合っていて扇情的ですらある。夜に体を這う感触がそう感じさせるのかもしれないし、おそらく本をめくる手つきというのは、そもそもがどこかそれに似ている。私は窓の向こうを見るふりをしながら、こうやって彼女を観察するのが好きだった。かつ姉はいつも窓際に座りたがる。

 その指を見ていると、流れるように唇へと視線が移った。コーラルのルージュに濡れ、引き締められた薄い唇。そこをこじ開けた先にあるものを想像しているとこちらの視線に気づいたらしく、目が合った。唇が開いた。

「そういや、傘持ってない」

 そんなことをいったようだった。私は片耳のイヤホンを外し、

「折り畳みならあるけど」

「壊れないかな」

「なんて?」

「いや。びしょ濡れになりそう」

「本はバッグの奥にしまったほうがいいよ」

「うん」

 かつ姉は本を閉じるとスマホを取り出して弄りだした。私はまた、彼女の指の動きを執拗に追う。画面を撫でるその動きが深く刻まれた感覚とリンクして、鳥肌が立った。

 ほぼ間違いなく、今の私は欲求不満だった。ここ一月ほどかつ姉とセックスしていない。

 彼女の指に感触を見いだせてしまうほど、私とかつ姉は指先で繋がっている。私の右手の人差指と中指にはかつ姉の温もりが残っていて、ときおり──そのほとんどがベッドの中でだが──匂いすら思い出せそうなくらい熱を帯びることがあって、そういうときは感情だけが熱帯夜にあるみたいに寝苦しくなり、暗闇にささやく彼女の声を聞く。脳と体に刻み込まれた甘い記憶がそうさせるのだろう。事実、私はここ数日眠れていなかった。

 バスを降り、案の定びしょ濡れになりながら帰ってくると二人してシャワーに直行した。浴室の暖房をつけ、なるべくかつ姉から目を逸らしながら熱いシャワーを掛け合った。体が温まるとすぐに出た。かつ姉はシャンプーも済ませてから出てきたようで、部屋に入ってくるなり甘い桃の匂いが漂ってきた。

 かつ姉は自分のベッドに横になって、私は座布団に腰を下ろして友達のメッセージに返信する。ここはかつ姉の住むマンションの一室で、この土日、私は毎週そうしているように泊まりにきたのだった。

「はい、かつ姉」

「ありがと」

 落ち着くと、キッチンで二人分のインスタントコーヒーを淹れた。くまとひよこの描かれたカップが私で、無地の白いカップがかつ姉。ミルクを多めに入れなければかつ姉は文句をいう。

「明日はどうする? 一応、昼間は晴れるみたいだけど」

 カップに手の甲を当てて温度を確かめながら、かつ姉がいう。私は手元のスマホを見せる。

「ちょうど国際展がやってるんだってさ、みなとみらい」

「どこ? 前行ったとこ?」

「うん。かつ姉がいいなら、行きたいかも」

「好きだね。私は気にしなくていいよ、一日空いてるし付き合うよ」

「やった」

 私がカップに口をつけると、かつ姉も倣うように口をつけた。まだ熱かったらしくあからさまに顔をしかめていた。

 雨音に雷鳴が混じるころ、改めてシャワーを浴びるといつもより早めに布団を敷いて横になった。ベッドの上でタブレットを弄っているかつ姉を見上げながら、今日は少しは眠れるといいなと思いつつ目を閉じた。

 その夜、幻の感触と声に苛まれることはなかったが、代わりに見た夢はとても浅ましいものだったような気がして、早くに目覚めた私はシャワーを浴びて苦いコーヒーを飲んだ。窓の向こうでは小雨が降っている。かつ姉の寝顔はとても安らかで、恨めしかった。

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