【本編】ノア





「号外!号外!国一番の大事件だよ!」




 王都の中央広場で紙吹雪の如く新聞をばらまく売り子。人々はどなどなと集まりながら、ひらひらと舞い落ちる紙を手に取り、じっと驚いたように記事を見つめたかと思いきや、バタバタと蜘蛛の巣を描いて去って行く。このゴシップが街中、国中、そして隣国にも伝わるのには、きっと然程時間は掛からないだろう。




「……っ……ディラン!」


「いらっしゃい、ビリー」


「大変だ!これ見ろよ!」




 現に、号外が出されてから早一時間で、王都の外れの方に店を構えるディランの元にも知り合いが駆け込んできている。ディランはビリーに突き付けられたボロボロの新聞を手に取り、上から順番に読み進めた。




「驚きだよなぁ。ベラティナ様が犯罪者だったなんて。でも、あれだけ“第二王子の婚約者なのよ!”って権力振り翳していた人が、イケナイことの一つや二つ、手に染めていない方が可笑しいのか、ははっ。これで“西の砦”は没落か?」


「……」


「しかも、ここ」




 ビリーはカウンターに背中を預けると、ニヒルな笑みを浮かべて新聞の右下の部分を人差し指で軽く二度叩いた。




「本当は殿下の婚約者様になる筈だった失踪中の“東の砦”のお嬢様を見つけ出したら、一生豪遊出来る金額を報酬として貰えるんだぜ。この方も可哀想だよなぁ、病弱設定を擦り付けられたんだろ?」




 ディランはビリーの話を摘み聞きしつつ、文章を一つ一つ丁寧に読み込んでいく。その顔にはいつもの穏やかさは浮かんでおらず、真剣で深刻、そして何処か焦ったような、一言では形容しがたい表情をしていた。




「……っと、俺はちょっくらコレに賭けてくるわ。情報によれば、そのお貴族様は隣国の方へ行ったらしい。じゃ、暫くお前に会えないが元気でやれよ!」




 金の事しか頭に無いビリーはディランのちょっとした違いには気が付かず、鼻歌を歌いながら勢い良く店の外へ飛び出していった。嵐の過ぎ去った一人ぼっちの部屋はしんと静まり返り、店先に並ぶ花々の華やかな香りがディランの心を急かすように漂う。




「……っ……ノア……」




 直ぐにディランは店の奥にある自宅に戻り、庭で作業をしているだろう自分の妻の元へ急いで向かった。ちゃんと彼女が居るのか、この時ばかりは不安だったのだ。




「あら、ディラン。そんなに急いでどうしたの?お花が足りなかった?」




 庭に通ずる扉を開けた先に、蜂蜜色の瞳をまん丸に見開いた後、ふんわりと柔らかく笑って首を傾けたノアがいた。


 ────あぁ。




「ディラン……?」




 ディランは一瞬泣きそうに顔を歪めたが、直ぐにいつもの目元がくしゃっと細められる優しげな笑顔になって、未だ不思議そうにするノアをゆっくりと抱き締める。ノアは戸惑いながらも軍手を外して夫の背中に腕を回した。




「ノア、ごめんね。驚かせたかな?」


「ふふふっ、驚いたわ。だって貴方のあんな表情、初めて見たのだもの」




 ノアはクスクスと笑ってディランの背中を宥めるように撫でた。ノアのその一挙手一投足がディランの胸を高鳴らせ、そして穏やかにさせるなんて、本人は知りっこないだろう。


 だから、この新聞は絶対に見せない。

 いつかは知ってしまうだろうけれど、こうやって隠す僕を許してくれないか。

 ノア、君を傷つけたくないんだ。

 そして、僕が君を手放したくないんだ。


 ディランはノアを包む力を強めて、そっと瞼を閉じた。









 ♤♢♤♢♤









 ノアはその夜、久し振りに悪夢に魘された。






『皆の者、聞いてくれ』




 辺境伯令嬢ノアーリアは壇上の上に佇む自身の婚約者である第二王子──ジェイドを呆然と見つめた。




『私の婚約者だが、ここにいるベラティナ=リムスキー辺境伯令嬢となった。さぁ、ベラティナ譲』


『ベラティナ=リムスキーでございます。婚約者としての務めを果たすことを皆様の前で誓いますわ。今後もよろしくお願いしますね』




 どうしてなの、ジェイド様。

 あのお言葉は、嘘だったと仰るの?

 あの瞳を向けられるべき人は彼女ベラティナだった?

 わたくしでは、なく、て……?


 ジェイドと過ごした甘やかな日々が走馬灯のようにノアーリアの頭の中を駆け巡る。まともに顔を取り繕えている自信がない。震える足を、頼り無いピンヒールでぐっと堪えているだけで精一杯だ。ベラティナが王子の婚約者に選定された以上、同じ辺境伯令嬢であり最有力と呼ばれていたノアーリアに好奇の視線が集まるのは分かりきっているのに。




『では今宵も楽しんでくれ』




 特にそれ以上の発表は無く、ジェイドの挨拶で何事もなくそれは締められた。しかし一大ニュースが流れた社交界ではそう落ち着いて居られない。




『レディ、一曲僕とお相手して頂けませんか?』


『あら、ノアーリア様、お話しいたしましょう?こちらにどうぞいらして?』




 こういった時はに自然とお誘いが向く。噂好きな貴族達なら当然の行動だ。




『実にお目出度いですね。時にノアーリア嬢──』


『殿下とはお話になられたの?』




 人々は遠回しに探りを入れる者からほくそ笑む者まで多岐に渡る。しかし、ノアーリアの立場からは、




『えぇ、お二人の婚約は自分のことのように喜んでおりますの』




 としか情け無くも言うことが出来なかった。


 この悲しみを逸らす方法を何一つ見出せず、幸せそうに微笑み合う二人を見ては再度深く傷つき、裏切られた気分になった。そして他人を責めるばかりの自分に一番嫌気が差した。


 ……もう、見たくないわ。これ以上は──。


 体力的にも精神的にも限界が来ていたノアーリアは、隙を見計らって退場を試みる。が、それは思わぬ人によって妨げられた。




『ノアーリア嬢、夜会は楽しんでいるかい?』




 振り向かなくても誰か分かってしまった。




『殿下、リムスキー様。ご機嫌よう。ご婚約、誠におめでとうございます』




 ノアーリアはアルカイックスマイルを貼り付け、婚約者を伴う麗しい男性──ジェイドにカーテシーをする。ジェイドはノアーリアと同様、外向きの笑みを浮かべ感謝の意を述べた。




『ノアーリア様、わたくしのことは是非ベラティナと呼んで下さいな』


『……はい、ベラティナ様』


『まぁ、嬉しいわ!ね、ジェイド?』




 ジェイドの腕に甘えるように寄り掛かり同意を求めるベラティナ。別の角度からは見えないだろうが、ノアーリアにははっきり見えた。


 まるで「わたくしの物よ」と自慢するように誇らしげに口を歪めたのを。


 もう、イヤ。

 誰か、助けて――。


 視界が滲み、グラグラと世界が揺れ始めた。

 目の前の二人の会話がどんどん遠くなっていく。

 呼吸が浅くなり、意識が──。


 しかし幾ら待っても体に強い衝撃は掛からなかった。




『リア、大丈夫?』




 かくんと力が抜けて倒れ込みそうになるノアーリアをジェイドが抱き止めたのだ。シトラスミントの爽やかな香りが鼻腔を掠め、そこで初めてノアーリアははっとしてジェイドの胸を押して離れた。直ぐさまどう切り抜けるか考え始めた彼女は、悲し気に、虚ろ気に目を逸らした目の前の男には気が付かなかった。周りの貴族達は一連の出来事にざわめき、次の展開にひっそりと耳を傾ける。




『ノアーリア様、治っていなかったのですか……?大丈夫ですの……?』


『……ぇ……?』


『無理しないで下さいましね『ベラティナ嬢』』


『ノアーリア様の病が早く治りますように、このベラティナ、心から祈っておりますわ』




 ベラティナは涙ぐみながらノアーリアの手を握り、心配げに眉を下げた。ノアーリアに喋る隙を与えず、更にはジェイドの注意を無視して語られたそれは、まるで舞台の長台詞のようだった。


 ノアーリアは全て、理解した。


 ベラティナはノアーリアと円満だというアピールがしたかった。そしてノアーリアが倒れたのを良いことに「病弱だから“東の砦”の令嬢は殿下の婚約者から外れたのだ」と仄めかした。


 そして──。




『……ノアーリア嬢、ゆっくり休んでくれ』




 アピールが過ぎていたベラティナを最初こそジェイドは窘めていたが、最終的には彼女の案に乗った。その行動は彼の心変わりを顕著に表しており、ノアーリアに容赦なくそれを突き付けたのだ。


 ノアーリアは最後に悲しげな微笑を向け───。









「───……ア……ノア、起きて?」




 潜っていた意識が夫の声で浮上する。




「……っぅ……ん……でぃ、らん?」


「大丈夫……?起こしてごめん、大分魘されていたから」




 ディランは震えるノアを抱き締め、何度も何度も大丈夫だと囁いた。




「ごめんなさい、ディラン。……どうして見てしまったのかしら……暫く見ていなかったのに……」




 ディランの細く大きな手に自身の指を絡めたノアは一つ溜息を付く。ディランは返事をしない。いつもならノアの小さな頭を優しく撫でて、落ち着けるようにラベンダーのポプリを枕元に置いてくれるのに。


 その代わりに、







 そう言った。


 ノアは驚いてディランを見上げる。ディランの濡羽色の瞳は朧気な月の光によって鈍く光り、と似た覚悟を孕んでいた。




「ディ、ラン?」




 ディランは困惑する愛しい妻の頬を一撫でして苦笑した。思い出すのは悪夢に魘される中、必死に、縋り付くように王子の名前を何度も呼んでいたノアだ。


 そんな彼女を見て、このまま匿っておく決意が揺らいでしまった。


 当時、ジェイドを失ったノアーリアは目も当てられない程憔悴してしまっていた。妻の忘れ形見に新しい出会いを作ってやりたいと、辺境伯は縁談を押し進めたが、それが返ってノアーリアの心を閉ざすこととなった。


 そんな時、屋敷にやって来たのがディランである。花好きのノアーリアは、二週に一度、珍しい花を育てている彼から買い付けていたのだ。




『……ディ、ラ、ン』




 ノアーリアの声を聞いて、その場に控えていた侍女は驚きで固まった後、慌てて辺境伯の元へ報告に言った。あの日から侍女にも騎士にも、あまつさえ父親にも口を開かなかったノアーリアが、ディランにだけは、話し掛けたのだから。


 それからディランは辺境伯の願いで毎日花を届け、彼女の話を聞き、ノアーリアは段々とディランにだけは以前のような笑みを溢すようになった。


 辺境伯は侍女やディランから報告される度に頭を悩ませていた。愛娘の幸せを思うなら、どんな貴族よりディランと結ばれる方が良いのだろう。しかし、一人娘を市井に出せば家が断絶してしまう。ディランを迎え入れるとしても、ここは辺境で、騎士ならば兎も角彼は花屋だ。剣というものは一月一年そこらで習得できるものではない。養子縁組も考えたが辺境伯の年齢だと法に障り不可能だった。


 辺境伯は決断した。

 ノアーリアが望むのなら、ディランとの婚姻を了承しよう、と。「“辺境伯令嬢”を辞められたらよいのに」と無意識で漏らしていた娘の意を汲もう、と。


 ディランはそうしてノアーリアを貰う権利を得た。今までだったら許されない行為だ。不毛な恋をしていると分かっていても諦められなかった想い。決して無駄にはしない。固い決意とほんの少しの自信と不安を抱え、ディランはアイビーとカスミソウで出来た花冠をノアーリアの頭に乗せた。




『ノアーリア様、僕とここから抜け出しませんか』




 好きだ。無限の愛を貴方に贈ることを誓おう。




『僕が貴方の安らぎと幸せを守ります。大丈夫』




 だから僕を信じて。


 ノアーリアは瞠目しながらもディランの差し出した掌に手を伸ばす。ディランならば、と直感的に思った。自分の立場や彼の負担を考え躊躇する前に、気付けば彼の手を取っていたのだ。


 ディランは天にも昇る気持ちだった。




『ノア』




 ノアーリアを傷つけた元凶王子の話題は出来るだけ遠ざけて、羽毛のような優しさで包んで。




『ノア』




 明るくて陽だまりのような彼女が悪夢を見ないように。




『ノア』




 決して「リア」と呼ばないで。


 それでもノアは毎夜毎夜悪夢に魘されていた。彼女は何を見たかなんて言わないが、ディランはそれだとちゃんと分かっていた。




『ノア』




 早くジェイドを思い出に出来るように。




『ノア』




 ポプリは心を落ち着かせてくれるから。




『ノア』




 何度だって「ノア」って呼ぶよ。


 そうして段々とノアは悪夢を見なくなった。

 その代わりに楽しい夢を沢山見るようになった。


 だからもう、大丈夫だ。

 そう、思っていたのに。


 自分は大きな勘違いをしていたかもしれない。


 優越感と慢心を抱いていたかもしれない。



 ノアはまだジェイドが好きなのかもしれない。



 それが真実だったとしたら、ジェイドとやり直した方が幸せになれる。

 ディランの箱庭で、大事に、大事に、囲うよりもずっと。



 ふとディランはビリーの言葉と新聞記事が頭に過ぎった。自分が彼女を見つけたことにすれば全てが解決する。報酬金はビリーに渡せばいい。ビリーは“東の砦”の令嬢を救った名誉よりも、それによって舞い込む金の方が大切なのだから。

 自分は、そんな金など、欲しくもないのだから。




「お嬢様は第二王子殿下をお慕いしていますね?」




 ディランは遂にずっと避けていた話題を口にした。




「何を、言っているの……」




 ノアは目を剥き、声にならない声で呟く。


 ディランは言った。

 ベラティナが両陛下に毒を仕込み逮捕されたこと。ジェイドはベラティナから嚇されて、また“西の砦”近辺の情勢上、婚約を結ばざるを得なかったこと。今、ジェイドはノアーリアを探しており、今朝号外が出されたということ。


 あちら側だって、ノアーリアを発見できるかは絶望的だと分かっている筈だ。二人を庇う為に、粘って、嘘を重ね、王族を欺いた――現にまだ色々騙している――辺境伯だって、本来ならば処罰される筈。年頃の貴族令嬢も公爵夫人の宝石コレクションくらいざらにいるのだから、その中から新しい婚約者を選定する筈なのだ。



 なのに――――だった。つまりはそういう訳だ。




「お嬢様は苦しんだ分、幸せになるべきです。僕は、そう願っています」




 貴方を愛しているから。




 瞬き一つせずディランを見つめる蜂蜜色の双眸から、大粒の雫が綺麗に流れ落ちる。そうして顔を歪ませたのも束の間、紅茶を準備すると言って逃げるように立ち上がったディランの腕を掴んで引き寄せた。




「なら、傍にいて。ディランが、私の傍にいて」




 ノアは顔を傾けディランの薄い唇にキスをした。




「私の幸せは貴方の隣にいることよ、ディラン」




 確かに最初はジェイドを忘れられなかった。でもディランが沢山の幸せの在り方を教えてくれた。だから、自分の想いにけりをつける事が出来たのだ。


 そして新たに恋をした。

 目元に皺が出来る笑い方。花を扱うため細かな傷があって、誰よりも温かい魔法の手。大丈夫、と言ってくれる優しくて甘い声。その声で紡がれる「ノア」という特別な名前が、どんなに煌めいて聞こえることか。




「──愛してるの」




 好きだとか、愛だとか、簡単に変わってしまう不確かなものなんて二度と信じないと全ての物を拒絶していた。頑丈に茨で縛っていたのに、ディランは解いてしまった。彼になら、永遠でなくても良いから。そう思うようになった。




「やっと、言えた……」




 ノアはゆるりと目元を和らげ、ディランの大きな手を握る。ディランは怖ず怖ずと握り返し、少し目を彷徨わせてから言った。




「本当に……?」


「ディランが好きよ。今まで迷惑をかけてごめんなさい。もう、逃げないわ。貴方に甘えているだけの弱虫の私からはもう卒業するの」




 ディランはあの時もう一つ決意をしていた。

 それは、決してノアに自分の想いを言葉にして伝えないこと。


 ディランの瞳はゆらゆらと動揺や葛藤で揺れ動いていた。ノアの告白に応えようと口を開こうとするが音の粒にはならず、直ぐに引き結んでしまう。殻に閉じ籠もったのはディランも同じだった。




「ねぇ、ディラン。答えを聞かせて?私を貴方の傍に居させてくれる?ノアって、呼んでくれる……?」




 自信なさげに見上げるノアを、ディランは思いきり抱き締めた。




「ノア、愛しています。心から」




 お互いに涙を流しながら笑い合えば、甘美で濃密な時間が幸福を噛み締めるように揺蕩う。




 そして今日も郁々たる花の香りに包まれながら二人は手を取り合う──












 ――背徳感を間に置いて。







 Fin


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