推奨:『月下養生』

乃生一路

『月下養生』

    ◇


「ママー、きょうもご本よんでー」

「はいはい。分かったわ。でも、このお洗濯ものを畳み終わってからね」

「ならわたしも手伝うっ」


 妻とともに娘が一生懸命洗濯ものを畳んでいる。手慣れたもので次々と畳んでいる。

 休日の昼下がりだった。開け放した窓から差し込む太陽の光に満ちた室内に、長閑で平和な空気が満ちていた。春の暖かな風を頬に受けつつ、僕は手元にある文章の羅列を目で追っていた。


「この本ね、とっても悲しい本なの」


 僕達の娘は優しい子だ。

 物語の上の人物にすら、あの子は優しさを見せる。


「まあ、悲しい本? ママ、読んでてえーんって泣いちゃうかも」

「ママなら泣かないよっ。ママの心の中にはおにがいるってパパが言ってたもん。だからママはべらぼーに強いってわたしは知ってるもん」

「あらまあ。パパも畳まないといけないのかしら……」


 頬を紅く染めた妻が、じっとりと僕を睨んだ。

 僕は手元にある文字の羅列をわざとらしく真剣に見つめた。指が若干震えてしまった。


「鬼、というのは強いイメージがあるからね。僕はきみを褒めたかったんだ」

「でも褒め方ってものがあるわ」

「そこについてはごめん」


 謝罪は早い方が良い。

 子どもというのは正直もので、僕たち大人が思う以上に周囲の言動を見て、聞いている。今度から気を付けようと思った。

 僕は今見ているものから視線を外し、娘を見た。ぱっちりとした大きな瞳があどけなく僕を見つめている。

 

「どう、悲しい本なんだい?」

「んー……なんてーかね、ひえん? と……ぶつり? の話、だって。でもさいごはいっしょになれるのっ」


 飛燕と物理か。燕が飛ぶことと物理……物理? 燕が飛ぶ速さと比較対象となる何かの速さとで相対速度を算出せよという類いの文章でも載っているのかな。僕は微笑ましくなった。


「悲恋と別離、よ」


 妻が訂正してくれた。


「もうすぐたたみおわるよママ。パパもたたむの?」

「ううん。今回は畳まない」


 情状酌量の余地はあったようだ。


「それなら読むわね……でも喉が渇いちゃった。あなたは何か飲む?」

「僕は、麦茶が欲しいな」

「わたしカルピスっ」

「はいはい。ちょっと待っててね」

「わたしも手伝うっ」

「ううん。大丈夫よ。私とあなたとパパで三人分、ちょうどの数ね。簡単に持ってこれるわ」 


 娘は優しい子に育ってくれている。

 親としての贔屓が入っているのかもしれないが、頭も良い。本に強い興味を示していて、大人が読むような本だって──妻の朗読を介す必要はあるものの──読んで理解できている。


「それ、どんなタイトル何だい?」


 飲み物を受け取った娘がテーブルの上にコップを置き、大事そうに持った本を見、僕は聞いた。娘はえへへと可愛くはにかむと、僕の両腕の上にぽんと自分の腕たちを置く。どくんどくんと生命の鼓動を感じた。

 タイトルは見えていたのだが、僕は娘の大きくて可愛らしい口からその題を聞きたいと思った。


「んっとね、『げっかよーじょー』」


 ……それは悲恋と、別離の話だ。

 けれども最後には一緒になれる、紛れもなくハッピーエンド。


「……っ」

「だ、大丈夫か……?」


 ふらりと倒れそうになった妻へ僕は慌てて言う。「大丈夫。太陽の光が眩しくってちょっとくらっとしちゃっただけだから」


「でも……」

「大丈夫よ、あなた。陽の光を浴びていると、逆に私、元気が出るくらいだもの」


 そう妻は僕に微笑んだ。


「それじゃあ、話します。タイトルは『月下養生』」


 妻の柔らかな話し声と共に、物語の幕が上がった。


「……月の下に幼子を見た、というのです」


    ◆


 月の下に幼子を見た、というのです。


「いやあ、かわいい子だったよ。ぱっちりとした青色の綺麗な瞳に、ブロンドの髪。天使がいるのかと思ってしまった。んや、実際あの子は天使だったのかな。可愛らしさと美しさのルームシェアみたいな子だった。ああ、もちろんきみには負けるけどね!」 


 窓のない部屋。太陽から隠れたこの部屋。

 私は一人、ベッドの上で。

 陽気に話し続ける彼のお話を、楽しんで聞いていました。

 この時間、この時間が私にとって、なによりも面白く、愉快で、幸せな時間でした。


「気分はどうだい? 今日のきみはなんだか顔色が良いように僕には見えるけど」


 ゆっくりと、私は頷きます。ほんとうにゆっくり、緩慢な動作で。

 そんな私の動作を彼はにこにことした笑顔で眺めています。


「いいんだね? うんうん。それはよかった。本当によかった」


 それから彼は、ずっと、それはもうずっと喋り続けました。

 楽しそうに、陽気に朗らかに優しく、そうして少しだけ、つらそうに。

 

「僕はこの、こんな日がずっと続けばいいと思ってる」


 終わりの時間がやってきました。

 終わりといっても今日の終わりです。

 明日にはまた、会えるのです。


「本当さ。毎日きみに会えて、話ができて……それで……それで僕は」


 ──あんまり、強がってちゃダメよ。


「っ……」


 彼は一瞬、言葉に詰まってしまいました。

 そうして椅子から立ち上がると、くるりと私に背を向けます。


「強がってなんかないよ……また、来る」


 ポツリと言うと、静かに扉を開けます。

 私はまた、次に彼に会える時間を心待ちに、この部屋の中で待つことにします。


「僕は……」


 消え入りそうに震える声で、彼は言うのです。


「僕はきみが好きなんだ。これまでも、これからも」


 私にとって、なによりも嬉しい言葉。


「ずっときみの傍にいたいんだ」


 私だってそうよ。


    ◆


 坂の上にある大きな病院。

 そこからの帰り道、長い長い下り道を僕は歩いていた。

 日課になった彼女との接触の余韻を胸に、決して良い方向に転がらないであろう僕達の物語に大きな諦念と僅かな憎しみを停滞させつつ、僕は足を動かしていた。

 すると目の前。

 僕の目の前に、いつの間にか。


「にんげん さま」


 いたんだ。


「あなた が しあわせだったころ の おはなし を きかせて」


 今日も空には満天の星があった。

 今日もぞっとするほどにまん丸な月が浮かんでいた。

 天使のような少女はそう、僕に尋ねた。


「ああそうか。そうだな。僕の、幸せだったころか」


 脳裏に去来する全ての光景の中に、彼女がいた。

 あるときは微笑み、あるときは怒り、あるときは悲しんで。


「にんげん さま?」


 僕達の関係はもうすぐ終わりを告げられる。

 予感ではなく確信だった。長続きはしないのだと僕はとっくに知っていた。


「僕は……今が幸せなんだ」


    ◇


 窓のない部屋。太陽を断絶したこの部屋。

 僕は今日も、彼女のお見舞いに来ていた。


「いやあ、可愛い子だったよ────」


 穏やかにベッドに半身を起こしている彼女に昨夜の出来事を語っていた。


「……んし、なら……わた……見……わ」


 僕は彼女と取り留めのない会話を続けた。

 彼女の姿を真正面に見ながら。

 彼女の姿を真正面に見つめながら。

 血涙の跡が残って真っ赤に染まっている頬に、血管が浮き出て脈動する皮膚。右の肩口から二本の腕が伸びている。右腕が一本増えていた。

 顔の真ん中にはばっくりと横に裂け目が走って口みたいに開いていて、その奥から巨大な目玉が僕を睨めつけていた。

 この部屋の外には、静かに待ち続ける武装した人間。何か起これば彼らはすぐにこの部屋へ突入し、僕がきっとずっといつまでも好きなままでいるだろう女性を穴だらけにするつもりだった。


「あ……り、っ……ゃ、めよ?」


 それは言葉としての体を成していなかった。

 けどそれは彼女が僕を気遣っている言葉だと僕には分かった。僕には彼女の言葉が分かる。分かるのだ。彼女は人間の言葉をしゃべっている。理性がある。あるんだ。だから嘘だ。あいつらの言う化け物は彼女には当てはまらない。やがて理性がなくなるなんてありえない。


「っ……」


 このままここにいては、もう耐えられそうになかった。


「強がってなんかないよ……また、来る」


 彼女の両眼に悲しみの色が湛えられている。


「僕はきみが好きだ。これまでも、これからも……ずっと傍にいたいんだ」


 だから……。

 ああ、いけない。これより先を願ってはいけない。

 だってそれはもう叶わない願いだと僕も彼女も知っている。

 口にだしてはいけない。心に思ってはいけない。

 僕は今が幸せだ。幸せなんだ。

 僕達の先に幸せな結末なんてありえない。

 だから僕は……。


 彼女と共に逃げようだなんて思ってはいけない。


    ◇


「それで僕は買い物に行って、今がその帰り道なんだ」

「それ が きょう の できごと なのですか?」

「うん。今日のできごとだよ」

「それ が しあわせだったころ の できごと なのですか?」

「僕は今が幸せなんだ」


 毎日、大切な人と過ごせる。

 毎日、大切な人と会うことができる。

 これからもそんな日々が続くことだろう。


「僕という人間は、今日みたいな日が永続することを願っているんだよ」


 続けばいい。何も変わらず、このままで続けばいい……続いてくれよ、頼むよ、お願いだよ、僕達を終わらせないでくれよ、お願いだよ、お願いだ、神様……誰でも良い、誰でも良いんです、誰でも……どうか僕達を終わらせないでください。


「わかりました あなた は うそつき です」


 天使は僕を指さしそう言うと、ふふふと微笑んだ。

 ぱっちりとした青色の双眸で笑みを浮かべ、血走った大きな瞳で僕を見つめ。ブロンドの髪と白い身体には幾筋もの赤い線を走らせ、どくんどくんと脈を蠢かせて。

 嘘? どうして、嘘? 嘘なんかじゃないよ。僕は今が幸せなのさ。


「あなた は にげたい と おもっ て い ます」


 うるさい。


「あなた は だんだん と こわ く なっ て き て い ます」


 うるさいな。


    ◆


「此処から逃げよう」

 差し出された手。

 きょとんと、きっと私はしていたことでしょう。

「僕がきみを連れて行く」

 はい、喜んで。



 ─了─◇

















「うん。僕の幸せは今なんだよ」








    ◇


 8日午後16時30分ごろ、××県●●市内にある廃屋で一人の男性の遺体が発見された。所有物より男性は作家の◇◇氏と見られ、連絡が取れなくなったことを不審に思った知人により捜索願が出されていた。遺体は損壊がひどく、野生動物によるものと思われており────


 ─終─

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