龍海坊の純情
「行きゃあ、おまんまが食えるぞ」
家を出たのは数え七つ。坊主となったのは、口減らしの為だ。
雪だ。たぶん、雪が降っていた。えらく寒かったのを覚えている。だが、掌中の温もりが消える前に、丸くなった
とたん、足裏の冷たさに雪の上で交互に重ね、六郎は心許なさにうずくまって泣いた。
寒かったのか、帰れないと悟っていたのか、傍らの痩せた骸骨のような、師の坊が怖かったのか。
「ああ、飯にしよう」
六郎を買った男は、ついて来いとも何とも言わなかった。
三つ数えるほど迷ってから、男の後を追った。
いくつかの山と谷を越えた山の奥だった。子供の目には聳えるような門であったが、長じてのち振り返ると、粗末な傾いた茅葺の山門であった。
師の坊は、六郎をこき使った。昼も夜も。どうにか十五となり、背丈が伸びて柔らかな体がかたく骨張っても、力仕事を終えてくたくたの体を責められた。
ある晩、六郎は覆いかぶさる師の坊の首を絞めた。最初は喜んでいたが、六郎の指がおのれの首から離れないことに気づき、怒鳴ろうとしてもがき、断末の虫のように手足をばたつかせ、ほどなくだらりと動かなくなった。
六郎は、尻から師の坊の逸物を抜き足蹴にした。三度ほど蹴ると頭から火が出そうなほどの怒りが込み上げ、気の済むまで蹴って、踏んで、土間に叩きつけた。
それから井戸端で全身を洗い、般若心経を鼻歌がわりに身支度を整え、崩れかけた山寺を後にした。あとは野となれ山となれ。
さあて、どうしてたどり着いたのか。気づけば二十一。江戸の場末の小さな賭場で、二つ名を持つ用心棒となっていた。
「おい、似非坊主」
襤褸の法衣は、醤油で煮しめたような色だ。千切れた袖から出た二の腕は隆々と。五分に刈り上げた頭頂まで、ゆうに六尺はあるだろう。
六郎は振り返り、賭場の胴元を見下ろした。貧相な高利貸しだ。法外な利子で小金を貸して、返せぬならばと賭場で巻き上げ、挙句の果てに娘を女衒へと売り飛ばしているらしい。
「龍海坊」
六郎は、おのれでつけた法名を投げつけ、懐手で胸の辺りを掻いて見せた。
胴元は、鼠のような落ち着きのない目をきょときょとさせて、精一杯胸を逸らして六郎──龍海坊を睨み上げた。
「貸しがかさんでいる奴がいる。取り立ててこい。返せねえと言うなら、娘がいる。攫って来やがれ」
「俺ァ、曲がりなりにも坊主の端くれだ」
「あんたが行かねえなら、他の奴に頼む」
龍海坊は、暫し考えた。
路地を出ると、角の煙草屋の軒下に面皰面の若い男がしゃがみ込んでいた。頬のあたりを指で掻いてはできものを潰している。爪をたてては捻り掻きむしる。十六になったばかりの
理由はひとつだ。飯を遣った。寒空の梅が咲く頃だった。薄着のまま道端で丸くなっていたのを起こし、連れ帰って飯をあてがった。
迷子の犬ころへ餌付けをした程度のことだったが、それから牛は、龍海坊にまとわりついた。寝ぐらの板戸端に座り込み、出かければ邪魔にならないように遠くで待っている。鈍そうでいてそうでもない、奇妙な男だった。
「あにい」
「行くぞ」
すでに六月。夏も間近だ。湿った海風に陽射しが落ちて、肌が汗ばむ午後となった。
「どこへ行くんだね。なあ、あにい。りゅうのあにい!」
龍海坊は無言のまま牛を従え、山谷堀に近い今戸八幡辺りへ足を伸ばした。従え、と言っても、牛は勝手に付いてくるばかりである。
行き先は、風通しの悪そうな裏長屋であった。三方を寺社や屋敷の土塀に囲まれ、町人地にはめずらしいほど人の行き来がない。
「臭えな」
牛は、龍海坊の代わりに思ったことを何でも口にする。
「くっせぇ、臭っせぇ」
「黙っていろ」
暑さと同じだ。言われただけ鼻につく。
龍海坊は、踏み抜かれた溝板を避け、胴元に言われた名を井戸端でしゃがみ込む若い嬶に尋ねた。背にくくりつけたやや子は、汗をたらして眠りこけている。
「ああ、
一向に手を休めず、萎びた青菜を濯ぐ。汗ばんだうなじと、
「行くぞ」
涎をたらさんばかりの牛を引き剥がし、いっとう奥の破れた腰高障子から中を覗った。
──留守かえ。
「お坊さま、うちにご用?」
ぎょっとして振り返ると、娘がいた。年の頃は十三、四。痩せて、裏長屋に似合いの岡目面だ。つんつるてんの着物から、にゅっと案山子のように手足を出して、箍の外れかけた桶に、雑巾のような洗物を抱えていた。
だが、妙に人好きのする
「ああ。乙三、おとっつぁんはいるかえ」
途端、娘の顔が曇った。警戒するように桶を掴む手に力が入る。
「おとっつぁんなら、出かけてる」
「いつ、帰る」
「知らねぇ」
言い終わらぬ間に、身を翻して駆け去った。去ると言っても長屋の奥の方へ身を潜めただけだが、龍海坊に追うつもりはない。飛蝗のような娘を引きずり出して、連れて帰るのは億劫だ。
「帰えるぞ」
「かわいい
ぼんやり牛が言った。
「かわいい、だと」
「もちろんだよ、あにぃ」
「そうか」
そういうものの考えようもあるのかと、龍海坊は納得して踵を返した。
「あにぃ、待ってくれよ、ああ、俺を置いて行かねえでくれよう……!」
びしゃびしゃと着いてくる足音に構わず、龍海坊は長屋を後にした。
胴元へは留守だと伝えた。不服そうな顔をしていたので、娘は酷い面構えだと言い、放っておいた。いつものように賭場の隅で胡座を掻き、いかさまに文句を言いだす奴がいれば、睨みつけた。脅すように身を乗り出すと、誰しもが米搗蝗のように飛んでいく。
客足が途絶える夜半、牛を連れて寝ぐらへ戻った。
そうして、娘のことは忘れた。
それからひと月ほどした、うだるような晩のことだった。昼の熱気は日暮れてさらに重く、さやとも風の吹かぬ生臭い晩だった。
晩飯を済ませて戻ると、龍海坊は煎餅のような湿った布団を板間に引き出し、灯火を吹き消した。腕を組んで横になる。
その時だった。
「兄ぃ」
押し殺した牛の声が、板戸の外から呼ばわった。
龍海坊は応えなかった。十日ほど前、言伝てひとつなく姿を消した。二、三日見えなくなることはしょっちゅうだったが、四日、五日となっても帰らない。
──
たちの悪い地回りに目をつけられて、そこいらの堀に浮かんでいるのかもしれない。
同じ年頃の、時折牛と連んでいる若い奴らに訊いた。
「ああ、あいつ、女ができたんでさ」
訳知り顔で小指を立て、青臭い顔に下卑た笑いを浮かべる。
牛のことだ。深情けの年増女郎にでも捕まったか、ぽん引きに強請られているのか。
「兄ぃ」
重ねて、ほとほとと戸を叩く。
「なあ、ここを開けておくれよぉ」
龍海坊は狸寝入りを決めた。だが、牛は一向に諦めない。
「開けておくれよぉ、後生だからよぉ」
龍海坊は、とうとう怒鳴った。
「失せろ」
「あにぃ」
今にも泣き出しそうな声だった。
大川沿い葛飾の寄洲、葦っ原の真ん中、掘立小屋のような住居である。無人寺だったというが、須弥壇らしき造作も雨漏りで半ば崩れかけ、冬までには引っ越さねばならぬほどの荒れようだ。
ばつが悪いのか、牛はおのれで戸を開けようとはせず、周囲をうろつくばかりだ。草を踏む足音が、幾度も幾度も小屋を回った。いつもは頭を掻きながらこっそり戸を開け、土間から上がったばかりの処で鼾を掻きはじめるのに、今日に限って何をしているのか。
どうした、と訊くのも億劫で、龍海坊は寝返りを打って背を向けた。
何やら隙間から覗き込んでいる──いい加減にしろと思ったが、そのまま目を瞑った。
「兄ぃ、開けておくれよう」
目覚めれば、すでに陽は高い。
「牛」
東の破れ障子から、夏の日差しが射し込み、埃が舞っている。
床にも、土間にも牛の姿はなかった。
外に出た途端、さあっと風が渡った。肌が粟立つ。葦原がざわりざわりと波打ち、朝方だというのに青空には入道雲が湧いていた。
翌晩になっても、牛は姿を見せなかった。
龍海坊はめずらしく深酒をして、泥のように眠り込んでいた。
夜半、不意に目が覚めた。引き釣り上げた魚のように、咳き込み
虫の音が止んでいた。草を分けて足音が近づき、段を踏んで板戸の前で止まった。
「──兄ぃ」
そうして、戸をほとほとと叩く。
「開けておくれよぅ、兄ぃ。そこに居るんだろう。なあ、ねぇ、ここを開けておくれな。後生だからさぁ」
「牛」
「兄ぃ」
「おまえ、どこへ行っていたんだ」
「どこって、おいら道に迷っちまったみたいで、わからなくなったんだよぉ。やっと兄ぃを見つけて、やっとここまで追ってきたのさぁ」
「ならば、自分で開けて入ってこい」
「やだよぉ。あにぃが開けておくれよぅ」
「おくれよう」
「おめぇ、誰かと一緒なのか」
「あたりまえだろう。おみっちゃんさぁね」
「誰だ、そいつは」
「へへ。兄ぃも知ってる
「俺が?」
「ほら、新町の長屋で一緒に会ったろう」
「ああ」
「ああ、なんだよぉ」
「ふふ」
「女ができたってぇのは、そのおみつさんかい」
「うふふ」
「俺たち、離れないさあね。いつまでもこうして、手を繋いで」
「うふふふ」
「えへへへ」
「あははは」
板戸の向こうで、二人は楽しげに笑う。
「牛、おめぇ、何かほかに見えるか」
「見えるのは、兄ぃだけだよぉ。だから、入れておくれなよぉ」
「だって、暗くて冷たいし」
「ああ、冷たいなぁ。おみっちゃん、ここ芯から冷やっこいなぁ」
「ここ、どこ。ねえ」
「おいらの兄いのところさ。おいらの兄いの」
「牛、今開けてやる」
龍海坊は、一気に板戸を開けた。途端、澱んだ塩気を含んだ臭気が流れ込んだ。おのれの脇を、何かが通り抜ける。
「あにぃ」
戸の外には誰もいなかった。やがてひとつ、ふたつと虫が鳴き始め、蛙の大合唱となった。
龍海坊は、墨を擦った。
ひたひたに擦り上げ、鶏卵の白身を垂らす。さらに
筆に含ませ、慣れた手でおのれの腕に書く。両腕から脚、顔から頭、耳から爪先、そうして麻の経帷子を羽織った。そこには、みっしりと経典が描かれていた。
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄 舍利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識亦復如是 舍利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中 無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 無眼界 乃至無意識界 無無明 亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故 菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多 是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰
羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶
般若心経
翌夜半となった。
日暮れてこの方、龍海坊は須弥壇へ向かい結跏趺坐し、経を唱え続けている。
遠くで時の鐘がひとつ、またひとつ。虫の音は止まず夜も更け、わずかに東の空が白み始める頃、おのれの
牛がいた。
誰かと話している。土手だろうか。隣に座って手を動かして笑っているのは──、ああ、あの長屋の娘だった。痩せこけて娘らしさもなく、ただ、牛と並んで笑った笑顔が、牛を見る目がひどく優しい。
二人は手を繋いで見つめ合い、そっと口唇を合わせた。
牛の照れた顔は、今まで見たことがないほど晴れ晴れとしていた。娘──おみつの手を引いて立たせると、並んで歩き始めた。
その帰途だろう。三人の男達に囲まれていた。龍海坊も見覚えのある、例の賭場に屯する質の悪い若い奴らだ。
牛を揶揄い、小突き始める。
何か叫びながら腕を回し、娘を守ろうとしているが、呆気なく
その後はお定まりだ。
子供のような娘の手足を押さえ、犯し始めた。
痛みに叫ぶ口を押さえて、突き上げていた男が、突然、妙な叫び声を上げて倒れ込んだ。
牛だ。
男の背中に、匕首が刺さっている。血だらけになった牛は、抜こうと足をかけるが、びくともしない。
放心するおみつを起こした。手を引いて駆け出す。縺れ合って倒れ込むのへ、見る間に追手が迫る。
追い付かれ、斬り刻まれるまで、それほど時はかからなかった。
二人は筵に包まれ、昏い水の中へと投げ込まれた。手足を動かすこともできず、沈んでいく。
──苦しい、苦しいよお、息ができないよお。
──痛い、痛い、痛い。
──離して、ああ、離して。
──兄ぃ。
──おとっつぁん。
──兄ぃ、ごめんよぉ。
──ごめんよぉ。
──ごめんよぉ。
龍海坊は、目を見開いた。蝋燭は溶け消え、主人のいない須弥壇をおのれは見上げていた。滂沱と流れる涙に、濡れた頬に手を遣る。
薄明のなか、一番鶏が鳴いた。
下手人は簡単に見つかった。
いつもの賭場の隅で、客が消えるのを待った。見覚えのある男達は酒を酌み交わし、時折、
やがて客足が途絶えると、溝鼠のような胴元が姿を現した。龍海坊に気付き、足元へ小銭を投げる。
「おい、似非坊主。お払い箱と言ったろう。二度と、その汚ねえ面を出すんじゃねえ」
龍海坊は足元の小銭と、鼠顔を交互に見遣った。
「なんでい、仕事をきっちりやらねえからだ。文句があるなら」
と、若い破落戸どもが身を起こす。懐に手を入れ、得物を握ったようだ。
「なるほど。そういうことか」
龍海坊は得心した。
途端、身の裡から頭を擡げたなにかが、咆哮を上げた。
柔らかなものを掴む。引き裂く。引き裂いたのか、捻じ切ったのか、叫び声と、温かな血潮に、目の前が今度は赤くなった。
喚く声を、呆気なく封じる。
龍海坊は、繰り広げられたおのれの所業を見下ろした。
声は、幼い頃から聴こえていた。いつも夢と現の端境に在って、死者と言葉を交わしてきた。幼い頃は死者とも知らず友と思い、果ては物ノ怪と謗られ、二親からも見放された。
それゆえ、寺へ売られたのだ。
耳を塞ぐ術は覚えたが、目を瞑ることはできなかった。おのれの本性は変えられない。
だから、牛の死相を見過ごせなかった。
だから、連れ帰って面倒を見た。
しかし。
龍海坊は、血の海に立ち尽くした。
ひとであったものが、蜷局を巻いている。足指が蹴った目の玉がひとつ、こちらを見上げていた。
後退りして足を取られ、尻餅をつく。そうして、ようやく掌中の刃を手放した。
呼子笛が鳴った。
誰を追っているのか、西から東へと流れていく。
龍海坊は橋の下で筵を被り、夜気の冷たさに身を震わせた。
おのれも追われる身だった。高札場の手配書には、見知らぬ獣のような男がいた。
髪を伸ばした。背を丸め、無宿の薦被りを装った。寝ぐらを点々としているうちに、時が過ぎた。
──ここだよお……。
哀れだ。非道は許せない。だが、それもすでに終わったことだ。死人は語らない。もうすぐ冬が来る。春には忘れていだろう。一寸一分一厘とも残らないはずだ。これまでも、いつもそうだった。
──あにい。
「そこの兄さん。あんたも逃げてるのかい」
月が射した。おのれの際にしゃがみ込み、女とも男ともわからぬ美貌が咲っていた。滴るほどに紅い口唇。人ならぬ闇色の眸。
「おいらは菊之助だ。ちょいとそこを通りがかってね」
──ああ。
ああ、と龍海坊は声をあげた。ひとつ、深く、ひとつ頷く。
「あんたも幽霊だな」
菩薩のような相貌が、一瞬で夜叉となった。底しれぬ眸が龍海坊を飲み込んでいく。
「死んでいるのは、兄さん、あんたの方だろう。ああ、ちいとも構わねえや。いいからついて来な。とまれ、風呂と飯だ」
鬼に手を引かれ、龍海坊は思った。
これぞ、因果応報。
了
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