腎臓B
当選者
20代前半だったころに、年末ジャンボ臓器宝くじというものが試験的に発売されると知って、村野はとてもいい試みだと思った。
人は何のために生きるべきなのか。それは大義に殉じるためだ、と村野はずっと思っていた。愛すべき祖国と
身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂
これは村野が尊敬する、国に生涯を捧げたとある有名な烈士の辞世の句だ。
死への意識を常に伴ってこそ、生きることが意味を持つ。かなうならば、ぜひ自分も辞世の際にはこのような境地に至りたいものだ。
近ごろ、訳知り顔の軟弱者どもが、自由主義だのジェンダーフリーだのフェミニズムだのダイバーシティだのという、左翼の亜種でしかないカルト思想を世に蔓延させている。しかも政治屋どもがそれに媚を売って票稼ぎのためにペコペコ頭を下げている。
まことにそのような、この美しい瑞穂の国を
ともかく、人がその臓器を提供し、複数の同胞の生命を助ける臓器宝くじというのは、まさに文字通り素晴らしい献身だ。村野はそう思っていた。
しかし、のちに自分がその臓器くじを購入して、臓器移植を望むことになるとは、想像もしていなかった。
村野は工業高校卒業と同時に、地元の従業員20人に満たない小さな工務店に就職した。工務店のメインの事業はとび職で、ニッカポッカというワタリの広いだぼだぼの作業服を着て、建設現場の足場を組む。
典型的ないわゆる3Kの仕事だが、給料は良かったし、何より社長――というよりも親方と呼んでいた――が厳しくも面倒見が良く尊敬できる人だったのが、キツい業務を毎日こなす動機となっていた。
親方は二代目だがすでに50歳を過ぎていて、先代から会社を任されて10年以上になる。
昭和の時代は、とび職人といえば気性の荒く背中に刺青を入れて、あまりよろしくない組織と関係している人が多かったらしいが、現親方は
しかし今も工務店の顧問として残っている先代の社長は、墨が入ってるかどうかは確認したことはないが、地元の右翼団体「侠真会」の幹部を務めている。
工務店の事務所の壁には、大きな日の丸と旭日旗が横にならんで飾られている。
月に一回程度、その右翼団体が主催する宴会のようなものが開かれ、工務店に勤務する者は強制参加となった。
と言っても、村野はその宴会に参加するのがイヤだったわけではない。普段はあまり飲めないプレミアムビールや高級日本酒を飲めるし、二次会は美人のホステスがいる高級クラブに連れていってもらえる。
また、その宴会には工務店の同僚だけでなく、ほかの同業他社や異業種の従業員など、普段は接することのない人と話ができるのも面白かったし、もちろん右翼団体の構成員もいるため、とても刺激的な話を聞くこともできた。
そんな環境の場所に出入りするうちに、無垢な一人の建設作業員だった村野も感化され、いつの間にやら北一輝や頭山満、赤尾敏や野村秋介という戦前戦後の右翼思想家の書物を熱心に読むようになり、気が付けば仕事のない日曜日には頭に「七生報国」と書いたハチマキを巻いて街宣車のハンドルを握る、立派な団体の準構成員になっていた。
「右翼団体」というと、公共事業の妨害をしたり、一般企業にあやしげな機関紙の購読を強引に勧誘したり、暴力団の別働隊だったりと、一般にはあまりよいイメージを持たれていないが、狭真会はそのようなことは一切しない純粋な政治結社である。
訴えている主張は、憲法9条破棄、竹島と北方領土の自衛権発動による奪還、18歳以上男子に対する徴兵制の導入など。
そんな村野が腎臓を失うことになったのは、31歳のとき。原因は、交通事故だった。
ゴールデンウィークの後半の初日、知人の運転するオートバイの後部座席に乗り、旅行で三重県まで向かっていたのだが、箱根あたりの峠道のカーブで対向車線を走る普通車が中央線を大きくはみ出して、オートバイに接触した。
自動車はガードレールに衝突して止まり、バランスを崩したオートバイは道路を20メートルほど転がって止まった。運転していた知人は、道路を滑るようにして投げ出され軽症ですんだが、後部に乗っていた村野は身体が高く投げ出され、ガードレールを超えて5メートルほど崖下の小川の上に身体を強く打ち付けた。
目が覚めると、病院の天井が見えた。おぼろげながら、事故の記憶がある。
主治医が覗き込むように顔を近づけてきて、
「ご気分はどうですか?」と言った。
村野は口がうまく動かないことを自覚しながらも、
「すみません。ご迷惑をおかけしました」と言った。
そしてベッドの上で仰向けになったまま、医者から事故後にあったことの説明を受けた。
事故後に救急車が呼ばれ、この病院に運ばれたこと。地面には腰から落ちたらしく、骨盤に骨折があるが、骨折による後遺症のおそれは少なく、リハビリを経て歩くようになることはじゅうぶん見込みがあること。
ただし、腰を打ち付けたさいに、右の腎臓が重度の腎破裂を起こしており、すでに摘出済みであること。左の腎臓についても大きく損傷しており、回復するかどうかは見通しが立たないこと。しばらくは血尿が出続けるであろうこと。
そのようなことを告げられた。
それを聞いて村野がまず思ったのは、
「歩けるなら、まあいいや」というものだった。
常々、いかにして国のために生命を賭するかを考えている村野は、生きることにあまり執着がない。もちろん健康であるに越したことはないが、何かを失うことになっても、それは天命なのだろう。
村野には医学や健康に関する知識はなかったために、腎臓が損傷したらどうなるのか、ということはまったく知らなかった。
翌週、オートバイを運転していた知人と、車を運転していた男が揃って見舞いに来た。二人とも平身低頭の態で、特に車の男のほうは、病室で土下座をして床に頭をこすりつけた。
「ちょっと、頭を上げてくださいよ。そんなことされても、困ります」村野はベッドに寝たままの状態で言った。
そもそも、バイクに二人乗りする時点で、事故があったら大変なことになるということは覚悟はしていた。もちろんわざと事故を起こしたわけでもあるまいし、村野も自動車を運転するため、いつ加害者になるともわからない。
どうやら生命にかかわるような怪我ではなさそうだし、今さら相手を責めたところで時間が戻るわけでもない。
「もちろん、法に則った責任は取ってもらいますが、それ以上をあなたに望もうとは思いません。事故のことは早くお忘れになって、あなたのやり方で国に貢献してください」
半年後にリハビリを始めると、意外にも早くふつうに歩けるようにはなったが、走ると腰のあたりに軽い痛みが残った。どうやら、元の職場の工務店には復帰できそうになかった。
そして、医師が予言したとおり、損傷を受けた左の腎臓もみるみるうちにその機能を失い、30代の若さで週に二回の透析を要するようになった。
リハビリを終えて退院すると、村野は右翼団体の幹部の紹介を受けて、建設資材を作る鉄工所の事務職として働くことになった。とび職から事務職は、まったく異なる業務内容になるため、最初はわからないことばかりだった。
それまで、インターネットブラウザ以外はほとんど触ったことのなかったパソコンの表計算ソフトの使い方を一から勉強し、商工会議所で開催しているビジネス文書作成の講習会などにも参加して、なんとか半人前になるまで、1年近くを要したが、なんとか会社の同僚の足を引っ張らずに、日々仕事をこなしている。
人工透析を受けなければならないのは煩わしく、身体も前ほどは頑強ではなくなったために、いろいろと生活に制限が出ていたが、それよりも村野が辛く思っていたのは、透析に要する費用だった。
透析を受けるのは、なんと年間500万円ほどの医療費がかかる。しかし、健康保健の特例があるために、村野が実際窓口で負担するのは、毎月ちょうど1万円だった。
支払いが少ないのは村野にとってはいいことだったが、それは同時に国家に莫大な負担をかけていることを意味する。
我が国は長年の財界への利益誘導と過保護な社会福祉制度のせいで、国地方合わせてすでに1000兆円を超える借金を抱えており、国家財政は火の車だ。
村野ももらった給料から源泉徴収で税金を納めてはいるが、明らかに納める額よりも使う額のほうが多い。
いっそのこと、自分など自殺したほうがいいのではないだろうか。それが至誠というものではないだろうか。
病院帰りにそんなことを考えながら歩いていると、どこかからこんなアナウンスが聞こえてきた。
「第8回年末ジャンボ臓器宝くじ、発売中! 一等はなんと、心臓移植を受ける権利!! 二等以下も、肝臓や腎臓、肺などさまざま豊富な臓器を取り揃えました。お値段は一枚たったの300円、販売は12月25日まで。移植が必要な皆様、年末ジャンボ臓器宝くじで移植のチャンスをゲットしましょう。買わなきゃ不健康なままですよ!」
声の聞こえてきたほうを見ると、長方形の小さい建物があり、周りに黄色い派手なノボリが何本も立っている。
宝くじ売り場だ。さきほど聞こえてきたアナウンスの声は録音されたものらしく、まったく同じ声を時代遅れの小型CDプレイヤーのスピーカーが繰り返し発していた。
※※※
「もしかしたら、近々移植を受けることになるかもしれないんです」
正月明けの最初の透析を終えて、村野はすっかり顔なじみになっている病院受付の女性に対して、そんなことを言った。
「え、あらあ」と、村野より4歳年上の受付の女性は言った。
「まあ、まだ確定ではないんですけどね。そうなると、こちらの病院通いも終わりということになるかも」
「お身内のどなたかから、生体移植をお受けになるんですね」
「いえ、そうじゃなくて……」
村野は女性の顔を近づけると、声を潜めた。
「実は、臓器宝くじが当たったんですよ。しかも腎臓が」
「本当ですか、すごい!」と女性は嬌声を上げた。
村野は人差し指を自分の口までもっていき、「シーッ!」と言った。
人に聞かれると、非常に具合が悪い。なにせこの病院のなかには、のどから手が出るほど腎臓を欲しがっている人間で満ちているのだ。
「おめでとうございます。ラッキーですね」女性は村野の耳元でささやいた。
「まあ、実際移植されるのは、もう少し先になるでしょうから、それまではお世話なると思いますが、とにかく大きなチャンスが巡ってきました。事故でこんなに身体が不自由になるとは思ってなくて、なんと自分は運が悪いんだろうと嘆いたこともありましたが、どうやら捨てる神あれば拾う神あり。くじ券の番号を確認したときは、我が目を疑いましたよ」
「でも……」女性はさらに声を低くした。
「なんですか?」
「私もよく仕組みは知らないんですけど、あれってたしか、ひとりでも移植を拒否する人がいたら、ぜんぶダメになっちゃうんだったような……」
「そうです。でも、ほかの当選者を全員説得してでも、移植をOKしてもらいますよ。そもそも、くじを買った時点で、当たったのに拒絶するなんて、おかしな話じゃないですか。きっと、大丈夫ですよ」
「そうかなあ……。でも、あれのドナーって、誰がなるんですか? 脳死者が出るまで待つのかな?」
その問いの答えを村野は知っていたが、答えなかった。
公益のために自己の権利を放棄するのは、国民の神聖な義務だ。きっと俺は間違っていない。
平静を装って、受付でお金を支払い明細を受け取ると、「それじゃ、また」と言って病院を後にした。
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