元気でね

しゅりぐるま

元気でね

 朝、僕はベトナムにいた。

 閏日うるうびになると、死んだはずの僕は双子のあおの体に芽生え、一日を過ごすことができる。僕が4年ぶりの世界を楽しめるよう、青はこの日、海外旅行に来てくれたようだ。

 隣には無防備な君の寝姿。僕らの幼なじみのあかねちゃん。僕の恋人だった茜ちゃん。そして今は、青と結婚して青の奥さんになった君――。


 寝癖のついた前髪を優しく撫でる。君は眠そうに片目を開けると、「おはよう、青」そう言ってまた目を閉じた。

「おはよう、茜ちゃん」小さな声で答え、僕はそっと君のおでこにキスをする。また会えて嬉しいよ。


 ベッドの脇に置いてあった青の手帳を手に取り、最後のページを確認する。そこには僕に宛てた青からのメッセージがあり、今日一日の予定が簡単に書き留めてあった。午前中はミーソン遺跡を見学するツアーに参加し、午後はホテルについているプールで休憩、暗くなったらランタンの灯されたホイアン市街を散歩する。知らない間に青が大人になったことを感じるプランだった。



 3年と365日、僕がただひたすら閏日が来るのを待ち望んでいる間、君と青はたくさんの刺激を受け日々成長している。僕は大学生の僕のまま、この先も4年に一度成長した君に会いに来るのだろうか。僕は一体何のためにこの一日を過ごしているのだろう。そんな思いが急に鎌首をもたげ、遺跡でもプールでも、所かまわず襲いかかってくるのを感じながら、それでも僕は今日一日を楽しもうとしていた。


 夜のホイアンの街並みは、とても美しく幻想的で僕の心を癒してくれた。所狭しと並べられたランタンのともしびが暗闇を優しく照らし、目に優しい明かりを届けてくれる。君の手を取り川沿いを歩く。こんな幸せな時間が過ごせるのなら僕はどんなに滑稽でも、生ある一日にしがみついていたい。そう思った。


 午前中に遺跡を歩き回った時の疲れがまだ残っていた僕たちは、心地よい足裏マッサージを受けた。僕はマッサージ中も君の手を離さなくて、そんな僕に君は笑いかけてくれた。


 ホイアンの街並みが真っ暗な夜にとっぷりと包まれた頃、僕たちは川沿いに座って異国のビールを飲んでいた。少し顔を火照らせた君が可愛くて、頭をなでながらたくさんのキスを送った。


「今日の青は……」

 君が言葉につまる。


「……みどりくんみたいだね?」

 僕が言って欲しい言葉――僕の名前をだす。君はハッと顔を上げ「ごめん」と呟いた。


「いいんだ、『緑の話をこれからもいっぱいしよう』……君は前回の閏日にそう言ってくれたじゃないか」

「そう、閏日。私が青の中に緑くんを感じるのは、いつも閏日な気がする」

 そう言って君が僕を見つめる。酔いの回った君の目は少し潤んでいた。


「その日だけ、青の中に緑くんがいたりして」

 呟いた君を思わず抱きしめた。

「ありがとう」

 僕を見つけてくれてありがとう。


 お姫様に正体を言い当てられた僕が、青の代わりにこの世に居続けるなんて都合のいいどんでん返しは起こるわけもなく、ひっそりと、でも確実に今日が終わろうとしていた。


 僕の名前を出した気まずさからか、ロマンチックな雰囲気とお酒にあてられたのか、単にお酒で気が大きくなったのか、君はフラフラと立ち上がり川に近づいていった。川からの風が火照った顔に心地よい。でもそんなに近づいたら――「危ないよ!」僕が声をかけると、君はおちゃらけて踊るようにくるりと振り返り、後ろ向きに川へと落ちた。


 ドボンッ!


 音が遅れて聞こえてきた。パニックに陥った君が泥水の中でバシャバシャと溺れている。何も考えず、羽織っていたシャツを脱いで僕も川へと飛び込む。


 遠目からでも濁っていることがわかるほどの川の水は、腐敗臭がものすごく、一瞬でも顔をつけていられない。川底から生えたつたが足に絡まり、息ができない。なんとか君へ近づくも、暴れる君を捕まえられない。少しずつ流されていく僕ら。恐怖が心の中を支配する。


「落ち着いて! 茜ちゃん!」

 川の水をしこたま飲んだ。バシャバシャと溺れる君を抱きしめようとするが、うまくいかない。ようやく君の片手を掴むと、支えを見つけた君が僕にしがみついてきた。


 辺りを見回す。川岸があんなに遠い。いつの間にか川の真ん中へ流されてしまったようだ。おんぶするように君を背負い岸へと向かうが全く進まない。何度も泥水を飲み、戻されては少し進み、真っ暗な川の中で無我夢中で岸を目指した。


 やっとの思いで君を川岸へと持ち上げた僕には、自分自身を引き上げる気力など、もう残っていなかった。川岸につかまっているのがやっとだ。精神力を使い果たしたのか、これまで僕を僕にしていた何かが燃え尽きようとしていた。


 その時、日付が変わろうとしていた。


 足先に異次元へと帰るいつもの感覚を感じた。それと同時に青の種が体中に拡散する気配、そして、これまでは感じなかった、僕の種がしおれていくような感覚。


 僕が消えてなくなる。

 でも、すぐに青が来る。

 ここで体だけでも持ちこたえて、青と代われば。

 きっと青が君を幸せにしてくれる。


 僕はきっと、今日この日の君を助けるために、4年に一度の閏日を過ごしていたんだ。


(頼んだよ、青)


 青の返事が遠くから聞こえた気がした。

 そして僕の意識は消えた。

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元気でね しゅりぐるま @syuriguruma

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