兄の使命

武州人也

第1話

「彼氏に暴力を振るわれている……」

 しのぶは、震える声でそう言った。秀麗な顔はあざで汚され、左目には眼帯をしている。

 その話を、忍の兄、才一さいいちは黙って聞いている。もくしてはいるが、その顔には慍怒うんどの色がはっきりと表れている。

 忍に彼氏ができたのは、三か月前のことである。彼氏の寺崎剛てらさきつよしという男は、忍より一年年上の高校二年生で、体が大きく、まるで熊のような風貌の偉丈夫であった。

「このような男が好みなのか」

 才一は密かに驚いた。小柄で可愛らしい忍の隣にあのような魁偉かいいが立っている様は、想像が困難であった。

 才一は何となく、嫌な予感がして、忍の身を案じた。自分の家族であるから、心配になるのは当然である。だが、寺崎も、見た目に反して案外優しいかも知れない。人を見てくれだけで判断するのは愚の骨頂である、と自分に言い聞かせ、干渉することなく二人の仲を黙許していた。その結果が、これである。

「学校には、警察には言ったのか」

 才一の問いに対して、忍は無言で首を横に振った。そりゃそうだ。言えるはずがない、と、才一は言った後で思った。

 当然、このようなことは友達にも親にも相談しづらいだろう。となれば、これはもう、兄である自分が解決してやるしかない。

 でも、どうやって解決する……?

「兄ちゃん……」

 忍は涙ながらに訴えてくる。才一にはもう、黙って拱手きょうしゅしているという選択肢はなかった。

 かつて、中国は春秋時代、曹沫そうかいなる男は、その勇気と匕首あいくち一本で、強国のせい桓公かんこうから、奪われた魯の旧領を全て取り戻した。男子たるもの、義のためには曹沫の如き勇を振るわねばならない時があるのではないだろうか。

 途端に、才一の双眸そうぼうに、峻烈なものが灯った。

「取り敢えず、もうあいつとは会うな。俺が話をつけてやる」

「本当……でも、悪いよ……兄ちゃんまで殴られたら……」

「大丈夫だ。俺はいつだって忍の味方だ」

 そうだ。いつだって自分は、忍の味方だった。才一は過去を想起した。まだ二人が園児だった頃、砂場で忍が狡童くそがき共に虐められていた時に、才一は奴らの頭目に一発拳をくれてやった。残りの取り巻きは、才一の一睨みで、蜘蛛の子を散らすように退散していった。いつも、いつだって、自分は忍の味方で、忍を守る盾であった。

 才一は、にこやかな笑貌を浮かべながら、忍の頭を撫でた。怯えきっていた忍の表情が、俄かに柔らかくなった。

 貪夫たんぷは財にじゅんじ、烈士は名に徇ず、という。自分は、忍を守る烈士である。だから、立て、怯えるな、奮起せよ、悪しき者から、可愛いを守るのだ。どんな危険だって、顧みることはない。

 自分は信じられている。信義に報いぬ者は、男ではない。否、人ではない。生きては百夫のゆうと為り、死しては壮士ののりと為らん。

「鋼の鞭を持ちて憎き汝を打ち据えん」

 龍虎斗の一節をそらんじると、才一は立ち上がった。

 才一が外に出ると、風が蕭々しょうしょうと吹き寄せた。彼の心境は、さながら刺客として秦王の元へと赴く荊軻けいかの如くであった——


 

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