一なる人類
東方雅人
プロローグ ~共喰い~
今季最大の寒波が関東を直撃し、一夜にして市街地のうえに雪の薄衣を羽織らせた。早朝、澄み切った空気を走る幾筋もの光芒が、早くも雪を溶かし始めている。
その日、街は巨大な肉塊で溢れかえった。
*
T大学の工学系エリア、第三研究棟。
院生の
外から聞こえてきた悲鳴や奇声が、彼の澄み切った集中力を断ち切る。いつもよりやけに騒がしいな、と気になっていたところに、
「國守くん!」血相を変えて部屋に飛び込んできたのは、同じ研究室の院生、
「いますぐ外を見て」
二人のこれまでになく切迫した調子に、彼は只ならぬものを感じた。何事かと窓の外を見下ろすが、眼下に広がった光景の異常さを――それがどれほど異常かを正しく理解するまで、しばしの時間を要した。そこにはいつもの見慣れたキャンパスの姿など、どこにもなかった。
阿鼻叫喚の地獄絵図。逃げ惑う学生たちと、初めて見る異形の怪物――。
それをどう形容するのが相応しいかは分からないが、〝肉塊〟――真っ先に彼の頭を過ったのは、その言葉だった。
人間の脂肪を思わせるぶよぶよと膨れ上がった表皮。そこからにょきにょきと突き出た手足、不規則に散らばった目、耳、鼻は、明らかに人間のそれだった。
その巨大な芋虫のような肉塊たちは、手当たり次第に人々を襲い、犠牲者は肉の中へ埋もれ消えてゆく。
ここT市は、T大学を中心に再開発された研究学園都市だ。
大学の前身、T教育大学が都心からT市に移転したのは、学生運動の全盛期だった。キャンパスの設計に、その「反省」が色濃く反映されている。
全長五キロ以上と異様なほど縦に伸びた広大な敷地は、迷宮のように入り組み、学生に自転車での移動を余儀なくさせた。立て籠もりに向かない構造の建築物、当時にしては珍しい全室一人部屋の学生寮。また、キャンパスを囲む塀や壁はおろか正門さえなく、大学は街と一体化している。
それらの時に不可解な設計の数々は、ひとえに学生運動を起こさせないための対策だった。学生の懐柔のみに特化し、機能性を度外視した愚かな設計は、皮肉にも今日、間接的に多くの犠牲者を出した。
「助けてください」
叫び声を上げながら一組の男女が五階に駆け込んできた。芸術学部の
しばらくしてさらに四人が上がってきた。階下にいた工学部の後輩たちだ。化け物はすでに四階まで来ていて、いずれ最上階であるこの五階にも到達するだろう、と彼らは云う。
「急いで階段を塞いでください」
この研究棟もまた他の建築物の例に漏れず、立て籠もりには向いていない。棟の出入り口にドアはなく、防火シャッターは火災警報器と連動していて手動では下ろせない。ここは本来、籠城に適さない地なのだ。
それでも生き残るためには、化け物たちの侵入を何としてでも阻む必要がある。彼らは九人で手分けして、ありったけの机と椅子で何重ものバリケードを築き、五階に繋がる階段口を塞いだ。
対処が一分でも遅れていれば、全員が化け物の餌食になっていただろう。束の間の安泰に誰もが安堵の色を見せる。だが全ての問題が解決したわけではない。食糧がない以上、籠城は一時的な応急処置に過ぎないからだ。
一時間後。傾き出した陽が西の空を真っ赤に染め上げた。鮮血をぶちまけたような、黒々とした、赤。
「あの怪物たち、サイズによって動きが違いますね」
外の惨状を観察していた國守は、奴らに特有の、ある規則性に気付いた。個体によって大きさはまちまちで、小さい個体ほど動きが速く、逆に大きいほど遅い。また、肉塊と肉塊は互いに合体し、さらにその体積を増やしていく。
「死にたくない」岩田が震える声で呟いた。
「大丈夫」と優しく声をかける仁科。どうやら二人は恋人同士のようだ。
仁科が怯える彼女の手を繋いだ、その時だった。突然、彼らが狂ったような絶叫を上げる。
國守は、眼前の光景に我が目を疑った。二人の手は繋がっていた。まるで生まれつきそうであったかのように、まるで粘土を捏ね合わせたように、彼と彼女の手は一つにくっ付いていたのだ。
いくら境目を探しても一向に見当たらない。その様は、複数の植物体を接合して一つの個体にする「接ぎ木」を連想させた。
彼ははっきりと理解した。あの肉塊が何なのか、どこから来たのか。あれは、人間――寄り集まった人間の成れの果てだ。原因は不明だが、肌と肌を合わせるだけで人体が結合してしまうのだ。
巨大な肉塊に襲われた人間は、肉に埋もれて圧死していたのではない。身体が取り込まれ、肉の一部と化していたのだ。
徳安は二人を引き離そうと、その一体化した腕に手を伸ばす。
「先生、それに触っちゃ……」相馬の制止は間に合わなかった。彼の両手は、すでに肘から下が肉塊と同化していた。
三人分の人体が渾然一体となったその〝何か〟は、ぐにゃぐにゃと出鱈目な形を成していく。原型を崩し、一つに混じり合いながら、異形のそれは六人に襲いかかった。
「走れ!」
信じがたい光景を目の当たりにし茫然と立ち尽くす者たちも、國守のその一喝で我に返り、一斉に逃げ出した。
化け物は六本の手足を器用に動かし、凄まじい速度で猛追してくる。このままではいずれ追い付かれる。かといって外への避難もできない。自ら積み上げたバリケードが唯一の退路を塞いでいるからだ。
この絶望的な状況下で、國守は生き残る策を必死に考える。
――その考えが頭を過るまで、時間はさほどかからなかった。これが現時点で考え得る最も有効で、おそらく唯一の方法だろう。だが、著しく倫理に反する。
逡巡の時間は残されていない。迷いを吹っ切るように、彼はふるふると頭を振った。身を守るためには仕方がないのだ、と繰り返し自分に云い聞かせる。
合理性は、時に人間性との間に齟齬を生む。致命的な二律背反を。
彼はすぐさま行動に移した。そのおそろしく合理的な、しかし悍ましいほど倫理観を欠いたアイデアを。フードを目深に被り、実験で使うニトリルゴム製の手袋をはめる。準備は整った。
閉ざされた限定空間。このままでは遅かれ早かれ、必ず一定の人数が犠牲になる。人間を吸収するほどに肉塊は大きく、重く、そして動きが遅くなる。
云い換えれば、逃げ切れる程度まで肉塊の速度を落とせれば、残った者の生存率は格段に上がる。つまり化け物に捕まるリスクは、人間を吸収するたびに減じていく。奴らとの戦いは、時間との勝負なのだ。
國守は前を走っていた後輩二人の頭をガッと掴み、力ずくでその頬と頬を触れ合わせた。硬くも柔らかくもあるような、厭な感触が手袋越しに腕を伝う。
同化は接触と同時に始まった。彼らがもがけばもがくほど肌の接触面積が増え、同化は加速度的に進む。恐怖で歪んだ顔面がますます歪んでゆき、あんぐりと開いた口が一つに繋がる。フロア中に響き渡る二つの絶叫もまた一つに集約され、やがて口は肉に埋もれて跡形もなく消え失せた。
新しく生まれた肉塊は、後ろから追いついてきた肉塊とぶつかり、両者は結合して一回り大きな一塊の肉と化した。
五人分の肉塊――動きは随分と鈍くなったが、逃げ切るには僅かに足りない。
生存者は残り四人。彼らは廊下から教室へ、教室から廊下へと移動を繰り返し、何とか逃げ続けていた。みな息も絶え絶えで、限界は着実に近づいていた。
実験準備室に飛び込んだ國守。相馬があとに続いたのを確認してから、彼は後輩たちの目の前で勢いよくドアを閉めた。――施錠。
途端、二人の両目は大きく見開かれ、そこに広がった戸惑いの色は、やがて恐怖から怒り、そして絶望へと変わる。縋るように向けられたその眼差しから、また自らの罪悪感からも逃れるように、國守は彼らから目を逸らした。
二人の背後からぬぅっと姿を現す肉塊。何本もの腕で彼らの服を剥ぎ取ると、露わになったその肌に、自身の膨張した肌を押し付ける。懸命な抵抗も虚しく、二人はずぶずぶと〝それ〟の一部と化した。
肉塊は、取り込んだ人数が少ないほど動きは早く、逆に多いほど動きは遅くなる。
彼はそのシステムを利用した。誰が先に犠牲になるか――問題なのは、その順番なのだ。
逃げ切れないのなら、動きを遅くすればいい。逃げ切れるほどの速度まで肉塊を大きくすれば――自分が捕まる前に、肉塊に一定の人数を取り込ませれば――。
そして、彼はやり遂げた。倫理に
残ったのは、國守と相馬の二人だけとなった。
七人分の重量を誇る肉塊は、ドアを軽々と突き破った。だが速度は大幅に低下、逃げ回る余裕は十分にある。
これ以上の犠牲は必要なかった。いまなら肉塊をこのフロアから排除するのも難しくないだろう。
それでもなお、國守は全員を肉塊に変えた。相馬美弥までも。
彼女は溶けるようにして、塊の中へと静かに形を消した。その端正な顔立ちは影も形もなく分解され、僅かに残った生前の面影と云えば、肉塊から突き出る白くか細い両腕だけだった。
彼女を手にかけるつもりは毛頭なかった。あのグロテスクな怪物から彼女だけは守り抜く。彼はそう心に誓っていた。彼女だけは――。
にも拘らず彼がそうしたのは、恐怖に駆られてのことだった。行為の一部始終を目撃していた相馬の、あの突き刺すような視線。彼女が彼に向ける視線は、あの醜悪な化け物に向けるそれとまったくもって同じだった。
彼にはそれが堪らなかった。怖くて怖くて堪らなかったのだ。
八人を吸収した肉塊は、鈍化したとはいえ動きを止める気配はなく、國守に息つく暇を与えない。片や彼の体力は限界に達しようとしていた。両者の距離はじわりじわりと縮まる一方である。
ほどなくして、彼はとうとう実験準備室の窓際に追い詰められた。その背に化け物の手が掛かろうとした、まさにその瞬間――。
彼は勢いよく真上に飛び上がった。肉塊の、相馬のものと思しき華奢な手が虚空を切り、勢いそのままに窓をぶち破る。
肉塊は近くの人間を無差別に襲う。その機械的な行動パターンに知性が介在しているとは考えにくい。國守はその特性を利用し、外へ落ちるよう誘導したのだ。
割れた窓から見下ろすと、その分厚い脂肪がクッションになったのか、肉塊は何事もなかったかのように、もぞもぞと動き出した。
長く過酷な一夜が明け、柔らかい陽の光が研究棟を包み込む。
構内は前日の混乱が嘘のようにがらんどうだった。肉塊は周囲の人間をあらかた取り込み尽くし、生存者を求めてどこかへ移動したのだろうか。
國守の考えが正しければ、時間が経つに連れて肉塊の危険度は下がり、生存率は上がる。外の危険性も幾分か下がっているだろう。ここを出て生き延びる道を探さなければ――。
彼は研究棟を離れ、
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