第50話 姉さまの優しさ

「勝家殿は傅役のいない私のために、わざわざ信行兄上の家老を辞して私の傅役になってくれたほど、忠義の者なのです。八男である私の傅役など、勝家殿にとって何の利もないというのに」


 まずは熊の忠実さをアピールだ。

 他にも真面目さとか融通の利かなさとか猪突猛進なところだったりを……あれ? これ、褒めてないな。おかしいな。ちゃんと褒めるつもりなんだけどな。


「でも喜六の傅役は、ちゃんといたはずではございませんの?」

「ああ、ええと……母上が、弟の三十郎の傅役に、と」

「まあ……」


 そこら辺のことを市ねえさまも犬姉さまも知らなかったんだろう。お互いに顔を見合わせている。


「母上にも困ったこと。奥向きのことだけなさって、表は殿方に任せておけばよろしいのに」

「市姉さまのおっしゃる通りですわ。父上が亡くなって、三郎兄上も信行兄上も頼りないと思っていらっしゃるのでしょうけれど、ねえ」


 二人は袖で口元を覆って、ほんに困ったこと、と口をそろえた。


「母上のことは気にしていません。気にしても……仕方がないですから」


 あの性格は、きっと一生治らないだろうしなぁ。

 今のところは信長兄上も見逃してくれてるけど、これが織田家に仇なす存在になったらどうするのかね。さすがに身内には甘い兄上も処断するのかね。


 だけど、そうなったらきっちりとカタをつけないと、今度は家臣に見くびられるからなぁ。


 いい例が徳川家康だ。

 徳川家康の正室の築山殿は、後世では戦国時代きっての悪女として名を馳せている。今の時点で、もう結婚してるのかは分からんけども。


 今川義元の姪である築山殿は、今より後の時間のどこかで、徳川を裏切り武田に内通してる罪で、家康から断罪された。その頃の家康はもう織田と手を組んでる状態だから、武田と内通っていうのは、天下統一直前の織田を敵に回すことになる。


 築山殿は確かに正室で、嫡男も生んでたけど、さすがにそれは見逃せないってことで、築山殿も嫡男も自刃に追い込んだはずだ。

 そうでないと、腑抜けと思われて、武士にとっての面目がなくなるからな。


 ほんと、面目とかなんとか。武士ってメンドクサイ。


 そういや歴史オタクの山田が「信長が家康の長男の方が優秀なのを妬んで、陰謀で殺させたっていう説があるけど、あれは嘘だな。家康自身に、長男との確執があったんだよ」って言ってたけど、どうなんだろうな。


 でも信長兄上が後継者として認めた子供の出来があんまり良くないとか、ありえないと思うんだがなぁ。


 だってあの兄上だぞ? 弟にすら、銭を出すんだから成果を出せってお尻叩く兄上だぞ?

 血を分けた息子だからって甘くなるとは、到底思えん。


 ただそんな兄上が母上にだけは弱腰だから、どうなるんだろうなぁ。


 あれから信行兄ちゃんは、表立って信長兄上と敵対する態度を取るのはやめたらしい。だけど、まだまだ焚きつける奴らがいるんだよな。

 林のジジイとか母上とか。


 母上だけでも隔離しとけば、信行兄ちゃんが惑わされることもないんだろうけど、さすがにそれはできないだろうしなぁ。


 とりあえず恭順の意を表しているけど、完璧に心を入れ替えてるわけでもない、っていうのが一番モヤモヤするよな。なにかきっかけでもあれば、たやすく天秤の錘(おもり)が片一方に傾きそうな、そんな風な漠然とした危険がある。


 先行きの見通しの暗さに思わずため息をつくと、市姉さまが心配そうに俺を見た。


「喜六。近くにおいでなさい」


 優しくそう言われて近くに行くと、突然、市姉さまに抱きこまれた。


「ね、ねえさま!?」


 うわ。柔らかい。でもって、何か知らんがいい匂いする。―――って、そうじゃなくて!


「喜六。武士の子は誰にも弱みを見せてはならぬとはいえ、わらわたちは血の繋がった家族。困ったことがあれば、遠慮なく相談にくればよろしいのです。それにそなたはまだ子供なのですからね。心置きなく、この姉を頼りになさい」


 ぎゅっと抱きしめられて、不覚にも涙が出そうになった。


 この世界で母親の愛情なんて求めたことはない。でも、それでも―――


「そなたは、信長兄上と信行兄上の間を取り持つという重要なお役目を立派にやりとげておりますよ。わらわたちの、自慢の弟です」

「ほんに、そうですよ」


 市姉さまと犬姉さまの優しい声が耳に染み透る。


 ほろりとこぼれた涙を、俺は市姉さまの小袖の陰に顔を伏せて隠した。






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