第六話「理事長引責」
狛王刺殺事件に端を発する一連の八百長騒動で、横綱狛ヶ峰は引退に追い込まれた。
現役時代、ガチンコを貫き通して人望を集め、理事長職にあった北乃花理事長が、現役時代は無縁だった八百長問題によって引責辞任しなければならなくなったことは皮肉というよりほかない。事実、ことは理事長の首を必要とするだけの重大事案であった。
それは頭では理解できる。だが前執行部との血で血を洗う権力闘争の末に成立した現執行部のなかには、北乃花理事長辞任に反対する者も多くあった。
いにしえの中国は三国時代も末のころ、
理事長辞任のしらせに接した現執行部の気概も石を叩き割った剣閣の籠城兵に似ている。
「過度の注射相撲で土俵上のモラルを崩壊させたのは狛ヶ峰自身であり、執行部の誰ひとりとしてそのような行為を強制しなかった。一連の事件は狛ヶ峰の自業自得、因果応報であり、彼一人に責任を負ってもらえば良いではないか」
とする意見である。
だが土俵上のモラル崩壊を把握しておりながらそれを是正できず、人気のあるうちはそのうえに
理事長室に持ち込んでいた私物を段ボール箱に詰める北乃花前理事長。その量はといえば、縦横奥行きの三辺合計九十五センチの宅配サイズの段ボール箱半分に満たない。清廉だった土俵態度に似て、持ち込んでいた私物は最低限であった。こんなだから片付ける前と後とで理事長室の雰囲気がガラリと変わったということはなかった。段ボール箱を抱えた前理事長はぐるりと部屋を見渡した。
見納めである。
先に、前執行部との血で血を洗う権力闘争の末に権力を握ったのが現執行部だと記した。振り返り思い返せばこれまでの人生、闘争の繰り返しではなかったか。
最強の名をほしいままにしていた当時の横綱に引導を渡し、若手のホープとして一躍台頭したあのときも、相次ぐ故障に苦しみガチンコの若手実力者に敗れたことを殊勲として引退を選んだあのときも。そして引退後も。
現役時代、引退後問わず栄枯盛衰、盛者必衰の
全ての肩書を失った北乃花。
ひとりの職員もしたがえず、国技館の正面玄関から段ボール箱を抱えて単身出て行く。待たせているのは夫人が運転する自家用の大衆車。今日このときを限りに私人となった北乃花には、協会職員が身辺に付くこともなかったし、協会が公用車を回すということも出来なくなっていた。
北乃花が夫人の運転する自家用車まで行くには群がり集う報道陣をかき分けねばならなかった。自分に向かって突き付けられる無数のマイク。今までのように身辺について守ってくれる職員はいない。激しく焚かれるカメラのフラッシュに目が眩む。
(あの時とおんなじだ……)
北乃花の脳裏に、四十年前の光景が
元大関だった父は相撲部屋を営んでいた。その三階部分が一家の居住部分だった。中学を卒業した若き日の北乃花は、私物の衣装ケースひとつだけを抱えて、三階から二階の、新弟子の居住部分に移ったのであった。
親子の縁を切り、新たに師匠と弟子の縁を取り結んだあの日。あの日も抱える荷物は衣装ケースひとつ、たった一人の付け人も付けず、単身歩いて師匠の元に弟子入りしたものであった。
爾来四十年、打ち続いた苦闘の日々を思い起こせば、目の前に立ちはだかる報道陣を掻き分けるなど造作もない。
「理事長、今のお気持ちを」
「今後の協会に望むことはなんですか」
「正直、納得いかないお気持ちがあるんじゃないですか」
今や無防備となった理事長に対し、報道陣は容赦なく質問を浴びせ掛ける。これに対し、段ボール箱を抱えたままの北乃花は回答できる範囲で回答した。
「今、どなたか私のことを理事長とおっしゃいましたが、今は協会の理事長職を退き一私人でございます。理事長と呼ぶのは先方にも迷惑のかかることですからどうぞお止め下さい。
協会に何を望むかというご質問ですが、私の側から新執行部に望むことなど何もありません。むしろ大変な状況のまま引き継がなければならなくなったことに忸怩たる思いを禁じ得ないところであります。ファンの皆さまには今後とも変わらぬご愛顧をお願い申し上げます。このような重大事案を惹起せしめた立場であり、ファンの皆様方の信頼を裏切った私の申し上げるべきことではないと思いますが、望みといえばその点だけです。
納得いかない気持ちがあるのでは、というご質問ですけれども、その点についてご説明申し上げます。大相撲は神事ではありますが、同時に競技としての側面もございます。単に神事という一側面しか有していない、というのであれば巡業も本場所もやる必要がないわけでありまして、八百長問題は大相撲が持つ競技としての一側面を自ら損ない存立の根幹を揺るがす重大問題でありますから、今回の辞任につきましては、納得がいかないどころか、一死を以てなお足らず、出来得ることならば万死を以て謝すという心持ちであります。
では、このようなところで立ち話をしては協会に迷惑のかかることですので、このへんで」
ほとんど同時に飛んできた質問について北乃花はこう答えると、群がる報道陣に一礼した。
人の波が、主の御意志により夜通し吹き続けた東風で押し分けられた紅海の如く開き、左右に屹立する人と人の壁の間の道を、北乃花は行く。
翌日のスポーツ紙の一面を飾ったのは、段ボール箱を抱えたスーツ姿の北乃花が一瞬見せた苦笑の写真であった。
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