どうせお前もドラゴンが。

天内深夏

第一話 少年に吹く風

 彼はまた同じ悪夢を見た。真夜中みたいな漆黒の竜が、彼を食い殺す夢だ。全身の筋肉が緊張するのが分かる一方で、竜の鋭い牙が彼の肌を破り、肉と血潮が弾けるその瞬間に、彼は決まって奇妙な安堵に包まれるのだった。



 ***



 眼を覚ますとハクビの全身は汗で湿っていた。荒い呼吸を整えて布団を剥ぐと、朝の冷気が足元から這ってきて、汗ばんだ身体がぶるりと震えた。


 ハクビは少し考えた後で、もう一度布団にくるまった。布団も湿っていて、あまり気持ちが良くないな、と思ったその時だった。


 部屋の扉が勢い良く開いた。ハクビは起き上がって扉の方へ眼を向けた。そこには、ハクビの幼馴染のフウリンが、鬼のような形相で立っていた。


「起きろ!!」

 フウリンはそう叫ぶと、勢いよくハクビの元へ走りこんで飛び蹴りを食らわせた。鈍い音と共にハクビの身体はに曲がった。


「いきなり何すんだよ、リン!」


「あんたが早く起きないからでしょ!? 今日が何の日か、覚えてないわけ? いいから早く着替えて」


「飛び蹴りをした時には起きてたじゃないか」

 ハクビはフウリンから手渡された服を解きながらそう言った。


「つべこべ言わずに早く着替えて」

 フウリンは鋭く言い放って部屋から出ていこうとした。ハクビはぼんやりと壁にかかっている暦表を眺めていた。


「着替え終わったらすぐ竜舎に来てよね」

 フウリンは扉の隙間から顔を出してそう言った。


「別にボクが竜舎に行く必要はないだろう。ボクが行ったってやれることもないし、リンが行ってくれればそれで……」


「いいから必ず来なさいよ! あのおじいちゃんがあんたのために出てこれるわけないでしょ!」

 ハクビが言い終わらないうちに、フウリンはそう言って、勢いよく扉を閉めた。ハクビはため息をついてしぶしぶ着替え始めた。


 今日が何の日なのか、彼は忘れたわけではなかった。今朝は、この村で過ごす最後の朝だった。ハクビは窓から差し込む朝日に包まれながらまどろむのが好きだった。


 少しだけ、彼は感傷に浸っていた。それは彼にとって珍しいことだった。


「おはよう、ミンさん」

 ハクビは居間に出ると、そこにいたミンにそう言った。彼女はフウリンの母親であり、そしてハクビの育ての親だった。


「おはよう、ハクビ。昨日はよく眠れたかい?」

 ミンは穏やかな顔でそう言った。そしてミンはハクビに温かい玉子粥たまごがゆを出してくれた。それはハクビの大好物だった。


 ハクビは孤児だった。実の両親がどんな人物だったのか、彼はよく憶えていない。他人から聞いた話では、彼らは優れた竜飼りゅうかいだったそうだ。15年前の大戦で戦争に行った彼らは、友人だったミンのもとに幼いハクビを預け、そして二度と帰らなかった。


 ハクビは女手一つでフウリンと共に自分を育ててくれたミンに感謝をしていたが、彼は一度も彼女を「母さん」と呼んだことはなかった。


「ごちそうさま。美味かったよ、ミンさん」

 ハクビはミンに礼を言うと、皿を流しに片づけようとした。ミンはそれを止めてハクビに微笑むと、黙って皿を流しへ運んだ。


「ありがとう。それじゃあ、ボクはもう竜舎に行かなくちゃ」

 ハクビはそう言って鞄を背負い、居間から出ていこうとした。


「待って、ハクビ。あなたに渡したいものがあるの」

 ミンはハクビを呼び止めると、棚から一つのペンダントを取り出して、それをハクビに手渡した。


「これは、あなたのお父さんが残していったものよ。あなたが王都に旅立つときに、渡そうと思っていたの。きっと、あなたを守ってくれるわ」


「ありがとう、ミンさん」

 ハクビはペンダントを首にかけた。


「ハクビ、結局あなたは、私を『母さん』とは呼んでくれなかったねえ」

 ミンは穏やかな顔でぽつりとそう呟いた。


 彼がなぜ自分を「ミンさん」と呼ぶのか、彼女は承知していた。そしてそんなを誇り高いとさえ思っていた。しかし、別れ際になって、つい寂しさからそんなことを口にしてしまった。


「……ごめんなさい、ミンさん。でもボクはみなし児じゃない。今もどこかで本当の父さんと母さんは生きていると、ボクは信じているから。そして彼らを見つけるために、広い世界を知るために、ボクは竜飼になるんだよ」


「……ハクビ、ごめんなさい。そしてありがとう。あなたが竜飼になるのは、きっと酷な道でしょう。そんな道を歩ませなければいけない私たちを、許してくれてありがとう。私は、あなたを、ずっと自慢の息子だと思っているわ。いってらっしゃい。どうか元気でいるのよ」


 ミンの言葉に、ハクビは何も言わずにただうなずいた。そして二人は抱き合った。朝日に照らされてできた二人の影は、親子の抱擁そのものだった。



 ***



「ちょっと、遅いじゃない!」

 竜舎に入ってきたハクビを見るなり、フウリンはそう言って彼を急かした。


「大丈夫だろ。シンなら王都まで半日もかからないさ」

 ハクビはそう言ってフウリンをなだめた。シンとは、フウリンが幼いころから育ててきた、村で最速の飛竜だ。事実、彼にかかれば王都までの道のりなど、散歩道同然だった。


「それはそうだけど、心配なのよ。道中で何があるか分からないんだし……」


「何かあったら、そのときに考えればいいのさ」


「……はあ、その呑気さが羨ましい……」


「フウリンは心配性すぎるんだよ」


「まあ、焦っても仕方がないのはそのとおりね。おじいちゃん呼んでくるから、ちょっと待ってて」

 フウリンはそう言って竜舎の奥へと駆けていった。


 ハクビはため息をひとつ吐くと、がっくりとその場にしゃがみこんだ。


「やっぱり何度入っても、ここは慣れないな」

 ハクビは顔を上げて竜舎の中を見渡した。天井は太い梁が箸のようなサイズに見えるほど高く作られているし、竜が出入りするために、最低限の壁しかない。そんな解放感のある広い空間であるはずなのに、竜舎は入る者を圧迫するような雰囲気がある。それは、その空間に鎮座する数匹の巨大な竜たちのせいに他ならなかった。


 太い一本道の両脇に、巨大な竜たちが綺麗に並んでいる。朝も早いからか、ほとんどの竜は身体を丸めて眠っていた。しかし、フウリンに起こされたのか、シンだけは低い姿勢で身体を休めたまま眼を開けていた。そして彼はハクビをその緋色の眼でジッと見つめていた。


「そう睨むなよ。ボクは君に触れられないんだから」

 そう言ってハクビは自嘲気味に笑った。シンは相変わらずハクビを意味深な瞳で見つめていたが、やがてゆっくりとその瞼を下した。


「あ、寝るなよ。もう出発なんだぞ」

 ハクビはそう言いながらもシンを起こそうとはしなかった。彼は竜の生態をよく心得ていたし、どうすれば竜の威厳を損ねずに起こすことができるのかというのもよく知っていた。それでも彼がシンを起こさなかったのは、彼の怠惰が原因というわけではなかった。


 ハクビは、竜に触れられないのだ。彼は極度の竜嫌いであり、竜に触れるだけでもたちまち嘔吐してしまうほどだった。今でこそ慣れてはいるが、竜舎にいるだけでも決して心地よいとは言えなかった。


 竜嫌いの竜飼。それがハクビだった。


「おい、ハクビ。籠の準備はできたぞ」

 竜舎の奥からフウリンの祖父であるリエンが顔を出してそう言った。籠とは、本来は客人などを乗せるためのもので、竜が足でつかんで飛ぶ。ハクビは竜にまたがることができないため、竜での移動の際はこの籠が必要になる。通常は二、三人が入ってくつろげるくらいの広さの木製の箱であるが、ハクビのものは特注の一人用の籠である。長距離飛行の際などに控えの操縦者として竜飼が籠に乗ることもあるが、ハクビのように一人用の籠に竜飼が乗ることはまずない。一人用の籠を使うのは、位の高い貴族や王族だけである。


「ありがとう、リエンさん。しばしのお別れだね」


「ふん。やっと老後のスローライフが満喫できるな」

 そう言ってリエンは笑った。


「そんなこと言って、昨日はお酒飲みながら泣いてたくせに」

 いつの間にか飛行用の装備に着替えたフウリンが、リエンの後ろに立っていて、彼の肩に手を添えながらそう言った。リエンは照れくさそうにそっぽを向いた。


「……馬鹿言え、あれはお前のために泣いたんじゃ」


「そーだったあ? そうだったかなあ?」

 フウリンはニマニマと笑っている。リエンはバツが悪そうにフウリンの手を払いのけるとシンにくらを取り付け始めた。


「うちの男どもは素直じゃないねー」


「いや、ボクほど素直な人間もいないだろう」


「どの口が……。屁理屈男」


「おい、準備できたぞ。シンも調子が良さそうだ」

 リエンがシンの背中から軽快に飛び下りた。シンはゆっくりと立ち上がると、その大きな翼を数度はばたかせた。周囲に突風が巻き起こり、藁くずが飛び散る。早朝の気持ちの良い空気が彼らの間を通る。開けた竜舎の扉から陽光が広がって、三人の影が長く伸びる。


 これから始まる新しい物語への祝福のようで、別れの寂しさと旅立ちへの期待とでいっぱいになって唇を噛みしめるフウリン、そっぽを向いて表情は見えないが、せわしなくひげをいじっているリエン、相変わらず表情を崩さないものの、わずかに口元に笑みを浮かべるハクビの三人を、シンはその真紅の宝石のような瞳で見下ろしていた。


 フウリンはゴーグル付きの革製の保護帽ヘルメットをつけてシンにまたがると、ゆっくりとその巨体を動かし、竜舎の出口へと向かっていった。リエンとハクビは台車で籠を移動させ、シンについて行く。


 竜舎を出ると、出口のすぐ側にミンが二人の荷物を持って立っていた。ミンは潤んだ瞳で、竜にまたがるフウリンを見つめていた。


 シンが力強くはばたくと、その巨体が宙に浮いた。


 ハクビはミンから荷物を受け取り、籠の扉の前に立つと、リエンとミンの方へ向き直り、深く礼をした。そして籠に乗り込んだ。


 シンが籠の上部を後ろ足でつかみ、籠も地面から離れる。


「いってらっしゃい!」

「達者でな!」

 ミンとリエンはそう叫んだ。


「いってきます!」

「……いってきます」


 シンの大きな体がだんだんと小さくなっていき、それがもう見えなくなった後も、ミンとリエンはしばらく空を見つめていた。






















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