えるでぃあんの雑用品置き場
えるでぃあん
『生きる意味』、『生きる理由』。
——『生きる意味』
私たちは、この世界で、確かに生きている。それれは生物も同様で、確かながらに生きている。始まりと終わり、言い換えれば、寿命。それが『生きている』ことを定義するための条件なら、この世の全て……原子も、石も、惑星も、例えどんな物質であれ、『生きている』と言えるだろう。
では、何故それらは『生きている』のだろう? 『種の保存・進化』の為? 『死にたくない』という感情があるから? それとも、『なんとなく』?
確かに、これらは『生物』に限って言えばその通り。だが、この世界を構成する物質にもそれは共通するのだろうか? その根本を掘っていけば、答えは『共通では無い』。
全ての物質や生物を関連づけて見ていけば、個々の物質が存在することには確かに『存在する意味』がある。花が無ければ虫達は生きていくことは難しいし、植物にとっても生息範囲を広げることは難しくなるように。
そういう意味では確かに『存在する意味』として成り立つが、それが必ずしも『生きる意味』とイコールになるわけでは無い。
早い話、死後に確認する術がないものの、私たち人類が亡ぼうと、生命体全てが亡ぼうと、地球が破壊されようと、今ある世界は確かに『存在し続ける』はずだ。そこに、私たちが生きているかどうかなんてことは関係ない。私たちは『この世界で必要とされている存在』なんてものではなく、私たちが死のうと、この大きな世界に決定的な影響は無いのだから。
にもかかわらず、私たちは『生きること』に固執している。死ぬかもしれない場面に直面した瞬間、私たちは必死に生きようと争う。例え末期の癌を患おうと、少しでも長く生きるために、
生物にとっての『生きる意味』を考えるとすれば、それは第一に『種の存続や進化』が上げられる。『種の存続や進化』があるからこそ、今こうして、身の回りにゴキブリや蚊、ダンゴムシやスズメにカラスと言った生物が存在している。これは人間も『技術の継承や存続、その発展』という観点から見れば例外ではない。
例えば、ニュートンがリンゴの木からリンゴが落ちるのを見て『重力』を発見しても、それを身の回りの人間や、彼らにより後世の人間に伝えられなければ、その『発見』は世代を重ねるごとに……いや、ニュートン自身が死んでしまえば、すぐに忘れられていたはずだ。
だが、現実としてはそうではない。彼が発見した『重力』は語り継がれ、今こうして私たちも『それ』を知っている。その他にも、昔偉人たちの発見した偉大な発見が語り継がれ、進化して、またある時には忘れられて……そうして誕生した土台の上に今の文明が成り立っている。
だが、今までに話してきた例は『生きる意味』とは言えない。例え生物がどんなに『種の保存や進化』をしようと、どれだけ人類が『技術の継承や存続、その発展』を続けようと、必ず世界は終焉を迎える。もし生物がこのまま『種の保存や進化』を続けようと、地球が破滅すればそこで終わり。人類だって、例え地球を見捨てて『技術の継承や存続、その発展』を続けても、必ず滅びるはずだ。それがAIによるものであれ、戦争によるものであれ、宇宙人によるものであれ。
平家物語に『盛者必衰の断り』と言う言葉があるように、盛えたものは必ず滅びるのだ。それは歴史を見れば直ぐに理解できだろう。
昔、その強靭な肉体や圧倒的多様性で地球を制圧し、今もなお人類のロマンとして強い影響を残す恐竜も、今は化石や、進化の果てに誕生したと言われる鳥などとしてでしか存在しない。
昔、労働者たちの夢として誕生したとも言える、マルクス主義実現の果てに誕生したソヴィエト社会主義共和国連邦も、徐々にその理想と現実の乖離、民主化の波に耐えられず崩壊し、今はその爪痕をロシア連邦に残すのみ。結果的に『全人類の平等』と言う壮大な夢は潰えてしまった。
こうして見ればわかるように、私たちがどんなに生きてその足跡を残しても、どんなに崇高な理念で何かを生み出そうと、それは必ず
……いや、そもそも、『世界が存在する意味』とは、何なのだろう?何せ、全ては必ず『始まりがあり、終わりがある』のだ。ビッグバンで宇宙が生まれたと言う『始まり』が存在する以上、必ず『終わり』は訪れるだろう。それを確認する術など我々人類は持ち合わせていないのが不幸中の幸いかもしれないが。
それはともかくとして。もし宇宙そのものが『消える』なら、どれだけ頑張って作り上げた『作品』……生物の進化の果てに生まれた、究極生命体と言う『作品』であっても、それを“作った”と言う事実は、水泡に帰す。こんな世界で生きることに固執したところで、私たちには何の得も無い。必ず、終わりは到来するのだから。
であるにも関わらず、どうして私たちは生きているのだろう? そんなことをしたって、『生きる意味』は、見つからないのに。
——さて、長々とこうして語ってきたわけだが、そもそもの話が私たちにそんなことは関係ないと言える。実際のところ、我々のみならず生命と呼ばれるもの全ては、それが生存競争に起因するものか、はたまた単なる『死への恐怖』故かはわからないが、今世界の至る所で命の営みを続けていると言う事実は、確かに存在する。
それに、散々語った上の話であっても、実際人類そのものに関係があるかと言われると、そこに疑問符はつくだろう。これからの技術の発展により寿命を際限なく伸ばせる……そんなことが可能になれば、あるいはあるかもしれない。そこまで生に固執する人間など、『自分のしたいこと』を明確にしている人間以外はいないと思うが。ただ無限に与えられた時間は、そこに『意味』を見出せないのであれば、堕落するだけである。
何はともあれ、私たちは確かにこの世界に『生まれた』以上、必ず『死ぬ』。それは私たちが生命体である以上、避けようの無い終着だ。どれだけ私たちが『この世界』に爪痕を残しても、それは結局自己満足に過ぎず、それも死ねば終わり。今回は『死んだ後も、確かに世界は存在する』と言う前提のもとに話したが、これだって確定したわけでは無い。死んだ本人からして見れば、仮に世界が存在し続けたとしても、本人が死んでしまった以上、『世界は無い』のと同意義だからだ。
今回はこうして今私たちが『生きる意味』は『存在しない』、と定義しよう。では、私たちが『生きる理由』は何なのだろうか?
——『生きる理由』
『生きる意味』の項にて、私たち生命体に、必ずしも『生きる意味』は『存在しない』と勝手に決定した。
では、私たちが今現世でこうして『生きる理由(目的と言う意味も含むが、今回は理由で統一する)』は、果たして何なのであろうか?
これに関して現代の構造を当てはめるとすれば、『他人のために生き、他人のために死ぬ』、『金と言う概念に固執し、その人生を投げ打つこと』だろう。そして、この枠組みは現代を構築する『資本主義社会』の影響が多分に含まれているのだ。
考えて見てほしい。現代は『資本主義社会』な訳だが、そんな社会で【俺は自分のためだけに生きる!!それ以上でもそれ以下でも無い!!】だとか、【生きるのに金なんて必要ないんだ】なんて言って、企業が低賃金で定年まで扱き使える人材が消えたら、どれだけ困ることだろう?果たしてそれを、企業が花束片手に【頑張ってね】なんて言って応援してくれるのか?
企業にとって必要なのは『自社の利益を上げるために、文句も言わず働く社員』であり、即ち『機械のような人間』。そして、
『全ては利益優先』の為。そこに一個人の感情なんて存在せず、ただただ冷徹な『理性』と凶暴な『欲望』が支配する世界……これが現代社会の実態だ。
そもそもが思い返せば私たちは若い時から、さながらベルトコンベアに乗せられた機械のように、画一的に必要かどうかすら明確になっていない、学ぶ気もない教育を、一方的に与えられるがままに学んできた。人の評価を気にし、まるで『他人のために存在する人間』のような
そして将来的には、身体年齢を取ることにより体のガタが現れ始め、『社会の歯車』として使い物にならなくなる人生の二十余年ほどを、『自分がしたいこと』に費やすこととなるだろう。
これが今までの現代人としての『手本』であり、それ以上でもなかった。
何も、これを悪いことだとは言わない。実際、資本主義社会は技術向上の為、人類のため
だが、本当にこれが私たちがこの世界に『生きる理由』への回答なのだろうか?誰とも変わらない生活を送り、誰かの評価を気にして生き、金をひたすらに渇望し、そうして気付けば死に際の老人と化し、死ぬ。
確かに、この生活が好きだとか合っている、と感じる方は、是非そのようにすればいい。人それぞれ生き方はあるし、自分で行動するよりも相手にされるがままの人生の方がはるかに楽である。そこに一個人としての人生の自由が存在しなくとも。
だが、私はそんな人生、真っ平御免である。私たちに『生きる意味』は無くとも、それが親の愛情であれ、偶然であれ、確かにこの世界に『産み落とされて』しまった。そうである以上私たちには『死ぬか』、『生きるか』の二択しか存在せず、私たちは『生きる道』を選んでいる。
その『生きる道』を選んだにも関わらず、人の事情で使い捨てられたり、扱き使われたりする事は、果たしてその人の、自分自身の『望み』なのだろうか? 相手の時間に左右されて生きることが? 評価ばかり気にし、その評価で人生を左右されることが? 金のことばかりで悩むことが?
勿論、それが嫌なら『自殺』すればいい。極論ではあるが、事実だ。
だが、そんなことはほとんどの人間は望んでいないのもまた事実。誰しも、それが死の恐怖に対するものであれ、はたまた承認欲求であれ、確かに『生きること』を望んでいる。
では、どうすればいいのだろう?——この質問にはただただ、『生きる理由を・見出す・作る』しか回答はないように思う。
私たちの人生は有限だ。生物やもの全てに『始まり』があるように、『終わり』もある。しかもその『終わり』はタチが悪く、いつ訪れるのかすらわからない。それがやって来るのは五十年後かもしれないし、十年後、一ヶ月後……はたまた、明日かもしれない。更に言えば、例えば重度のガンが発覚して入院だとか、手足に目、耳と言った重要器官を失い、間接的に『終わり』がやって来ることだってある。
だが、そんな間接的『終わり』が訪れても、生きるのを諦めない人々だっている。例え目が見えなくともピアノを弾く人はいるし、末期ガンと宣告されても残り限りある人生を有効に生きようと、世界中を旅している人だっている。
【そんなことをしても、きっとなんの意味もないのに……】なんて思われようが、彼らはそれをやり続ける。それが無駄になるかもしれないのにも関わらず、だ。そんな彼らに共通するのは、おそらく『時間の制約を自覚しているかどうか』だろう。
再三書くことだが、人だけでなく、生物、そして物には必ず『終わり』がある。これは普遍的なもので、逃れることは能わない。この世に『生まれた』以上、『死ぬ』……これが鉄則である。そして、これを理解するかどうか。それこそが、人の人生を分ける人生なのではないか、と私は考える。
仮の話、『死ぬ日が分かっている人間』と、『死ぬ日が分かっていない人間』が居るとする。双方ともに【死ぬまでにやりたいことをして下さい】なんて言った場合、果たしてどちらが必死で『生きがい』を見つけようとするだろうか?『死ぬ日が分かっている人間』? 『死ぬ日が分かっていない人間』?
答えは考えるまでもない。『死ぬ日が分かっている人間』だ。当事者からしてみれば、日に日に死へのカウントダウンが迫っているようなもの。そんな状況下で【明日でもいいかな】なんて言うことはないだろう。その瞬間、一分一秒足りとも無駄にはしないはずだ。『いつ死ぬか、その答えが分かっている』のだから。
結局のところ、現実はこれが『死ぬのがいつかわからないが、確かにいつか死ぬ』に変わっているだけである。だからこそ、これを意識するかどうか、それこそが人の人生を大きく分けると私は考えている。
『私は、死を経験したことがない。私は、死にたくない』
『貴方も、死を経験したことがない。貴方は、死にたくない』
違うだろうか?……殆どの場合において、これは当てはまるのではないか?
だが、ただ『死にたくない』だけでは、先ほどの社会人のように『変わらない毎日』を送る可能性は高い。そんな、生きる指標なき人生に実感など湧かないだろう。
現代において人が生きる上で、『仕事』や『金』と言った物からは逃れられない。だが、『仕事』を、選ぶことはできる。
『金』は確かに生きる上で必要だが、人の年収が幸福に比例しないことは科学的に証明されており、『金』の所有・収集を『生きる理由』とした人生が、一概に幸福とは言えない。
なら、私たちはどうするべきか?
その答えは、貴方しかわからない。
ただ一つ言えるのは、『後悔無き人生を歩むこと』を目的とするなら、それを達成するには『生きる理由』を、見つけるべきであること。これしかないと私は思う。
人に『生きる意味』が存在しなくとも、『生きる理由』は自分で作り上げることができる。それは、人類にしかない特権だ。その力をどう駆使するかは——
貴方次第だ。
______
これで社会を知らない高校生の詭弁は終わります。今回これを書いた経緯としましては、単純に『部活で作品を提出するため』と、『生きたって無駄になるのはわかっているのに、なぜ生きるのに固執するのか』を勝手に組み合わせてしまったためです。これを学校にばら撒いた結果どうなるかは知りませんが、まぁ為せば成ることでしょう。
ここまで長々と読んでいただき、ありがとうございました。何か続編が出るなら、またその時に。
(*下におまけがありますが、こちらはただ書きたくて書いただけなので別にスルーしていただいて構いません。)
——おまけ1
私は学生だ。社会なんて全く知らない、ただのクソガキである。だが、『金が〜』やら、『それを辞めたら〜』なんて言い続け、変化をしない・しようとしない……そんな人間に、果たしていい未来があるのか、と思う。不満を抱えても尚そこから離れることに恐怖し、現状の維持に固執する。そうして問題を先送りにした結果、どうなるか……。それを証明しつつあるのが、今尚進み続ける『環境問題』なのではないか?と私は思う。便利さを追求し、自然を忌み、そうして自分たちの独善的な世界に『作り変えていく』と、どんな結末に至るだろうか。
全ては殆どの場合、自然や環境に帰結する。私たちは嫌でも自然からの恩恵を受けているし、それにより現代文明は成り立っている。
簡単な話、地球も一つの生命だ。一つ一つの生命体が血管となり、地球という主人を支えている。そんな主人から離反し、『私たちには合わない環境だ。私たちの為の環境に改変しよう』とか言うならば、それはもはや癌細胞である。
私だって、こんな表現はしたくない。生まれた理由はなくとも、生命体全てには必ず『役割』がある。だが、その『役割』を捨て、傲慢にも利己的に活動するそれは、果たして望ましい結末を我々人類にもたらすだろうか?……だと、いいが。無責任な人間の上に成り立ち、承認欲求だけで食料を無駄にし、金という概念を渇望し続けるその社会が、これからも末長く維持できることを私たちは願おう。
そして、『自分は大丈夫。自分が死んでから環境問題の影響が現れる』なんて考えを続けた結果がどうなるかも、見ものであろう。
もしこの文章に不快感を覚えるなら、その力や時間を少しでも環境問題対策に役立てればいい。過去と他人は変えられないが、未来と自分は変えられるのだから。他人を無理やり変えるよりも、自分を変えて賛同者を増やす方が、明らかに効率的では無いだろうか?
——おまけ2
日本人が言う『戦争反対』なんて言葉だって、その実『戦争で死ぬのが怖いから』と考えての発言……自分を守るために、他人を利用しているだけではないのだろうか?
また、戦争を単なる『人類負の遺産』と考えるなら、それは間違いではないだろうか?物事は一面的にではなく、多面的に見るべきだと、私は思う。もし戦争や軍隊そのものを否定すれば、今の現代社会を作りあげた技術の殆どはその発達が遅く、インターネットなんて便利なものも、存在していないのだから。
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