矢田君、後輩に種を巻く

富升針清

第1話

 不安と言うものは、不確かである。

 明確なモノが確かに存在するとなれば、それは最早不安では無く一つ上の存在、恐怖と言うものに成り果てる。

 しかしながら、不安に恐怖がない訳では無い。

 不安にも恐怖と言うものは洩れなく付属されている。

 いや、言い方が悪い。

 恐怖へのトリガーが不安なのだ。

 恐る心が不安を作る。しかし、不安は不確定。

 安定も定着もしない。あるかないかは分からない。そう、不安は不安でしかないのだ。

 もしかしたら。

 このもしには、恐怖と対照の存在である希望もある。

 もしかしたら、上手くいかも。もしかしたら、大丈夫かも。

 何方に転がってもおかしく無い。

 それが、不安と言う存在なのだ。

 こんな不確かで不確定な不安と言う存在は、時として無いものを有るとしてしまう時がある。

 怖い話だ。

 無が有を作り出すのだから。

 しかしながら、それこそが不安が我々に愛される存在なのだ。

 人を操るには持ってこい。

 人を騙すにも持ってこい。

 最高の花を咲かす種なのだ。

 


「矢田先輩、もういい加減帰りましょうよ」

「帰らんし」

「どこの言葉っすか。帰りましょうよ」

「うるせぇ。俺が奢るって言ってるだろ!」

「奢るも何も、ここ俺の店なんっすけど……」


 池田は大学時代の先輩でもある矢田にため息を吐く。

 朝っぱらから呑もうと連絡が来た時にはあの悪魔も一緒なのかと怯えていたが、今日は悪魔は出張で不在らしい。これは、普段悪魔のせいで出来ない矢田先輩に大いに甘えて金をせびれるぞ! と、塒を巻いていたと言うのに。

 来てみれば、こんなにも悪質に絡まれるとは。


「彼女が欲しい」

「出来ますって。知らんけど」

「出来た試しがねぇだろ!」

「いや、知らんけど」

「知らねぇじゃねぇよ! 俺の事を知ろうとしろよ!」

「滅茶苦茶知ってますって。俺は、知ってますって」


 なんせ、池田は大学時代の半分は矢田の家に転がり込んでいた男である。


「矢田先輩はいい人なのは知ってますよ。こんな俺に金何回も貸してくれるし。怒らないし。優しいし。伊吹先輩よりもカッコいいですよ」


 池田が悪魔の名前を口にすると、矢田の目の色が変わる。


「じゃあ、何で伊吹の方がモテるんだよ!」

「それは、顔と金でしょうね」


 矢田の持っていたタバコを勝手に拝借し、勝手に矢田のライターで火をつけながら池田が答える。


「顔かよ!」

「いや、金もっすよ」

「結局顔か!」

「いや、だから金もっす」


 伊吹の顔の良さは池田が知る中でも群を抜いている。それに加え、金回りの良さ。そこら辺の男達が束になって挑んだ所で勝てる相手ではないのだ。


「まあ、人間性は矢田先輩の圧勝ですよ。面倒見もいいし、料理うまいし、優しいし、あと、ほら、人は見た目だけじゃないって分かるし」

「じゃあ、池田が女だったら俺と伊吹どっちと付き合うんだよ?」

「それは、伊吹先輩っすね。女は金掛かるんで」

「ほらみろ! 何で池田にも振られなきゃいけねぇんだよ!」

「ふってないですって。男なら断然矢田先輩っすよ」

「男にモテても何の意味もねぇし! あー。今から伊吹が箪笥に足の小指ぶつけて爪割れねぇかな!」

「細やかー」


 俺なら間違いなく死ねと思うのにと池田は思う。


「いいじゃないっすか。その伊吹先輩のお気に入りなんだし」

「それこそ意味が何もねぇだろ。大体、あいつに気に入られたからと言って何かあるのか? 突然釣りに行こうと言って会社帰りに拉致られるわ、死体見つけるわ、幼女見つけるわ、殺人事件には巻き込まれるわ、女には殺されそうになるわ、好きなアイドルは引退するわ、牛肉の値段は上がるわ、学生時代から二十キロは太るわ、会社のプロジェクトは遅れるわ、いい事一つもないだろ!」


 後半は主に伊吹が一ミリも関係していないが、それを言うのは野暮と言うものだろう。


「そうっすね。全部伊吹先輩が悪いっすわ」

「池田……。お前はいい奴だなー。伊吹のクソ野郎とは違って、本当可愛い奴だな。可愛い後輩一位だわ。いちご飴食うか?」

「要らんっす。一ミリも要らんっすわ」

「まあ、そう言うな。美味いぞ」

「タバコの方が美味いっすよ」


 まあ、先程既にくすねているが。


「そんなに伊吹先輩か嫌いなら、連まなきゃいいのに。何で今になっても矢田先輩は伊吹先輩とつるんでるっすか?」

「は? 連んでねぇし、仲良くねぇよ」

「いや、そんな言葉は要らないから。本当にうざきゃ、連絡片っ端からシカトして拒否すりゃいいじゃないっすか。ダラダラとあの人と関わると、碌な事にならいですよ」


 池田はらしくもない助言を矢田に送る。

 矢田は知らない。

 伊吹雅仁がどんな男なのか。いや、どんな人間なのか。

 きっと、伊吹も矢田にはバレぬ様に何重にも網を張っている。矢田を自分から逃さない様に。

 誰の目から見ても、異質な存在であるはずの伊吹の中で矢田は特別な存在だ。

 しかし、矢田は伊吹の様な存在に好かれる様な素材は持っていない。どこから見ても、平凡であり、凡人であり、アレらの人が好む様な面は何処にも見当たらない。

 なのにも関わらず、伊吹は矢田に執着している。友達だ。親友だ。と、矢田用の顔を作っては隣に擦り込む様に入っていく。

 仕事柄、伊吹の正体を知っている池田にとってはそれは異様な光景でしかない。

 それと同時に、少しばかりの嫌悪を池田は覚える。

 いい金蔓だと、ていのいいせびり相手であるはずの矢田だが、彼にとっては数少ない心許せる、いや、信頼が置ける友人なのだ。

 矢田は裏切らない。矢田は見捨てない。そんなクソみたいな言葉に意味がない事を知ってるはずの池田でも、矢田だけは信じているのだ。

 矢田は、そう言う男だから。

 そんな友人が、あんな悪魔に文字通り憑かれているなんて。

 近い未来、きっと伊吹は矢田に牙を剥く。伊吹の執着の原因は分からないが、それは間違いない。だって、あの人は人の皮を被った化け物だ。付き合いが長引けば長引く程、自分の友人を地獄の淵へと笑顔で誘っていく。

 アレは、そう言う存在なのだ。

 だから、ここらで絶つべきなのだ。全てを。悪魔に繋がる全てを。


「……そう思うよな」

「え、まあ、はあ」


 ん?

 何だ、この曖昧な言葉は。

 奇妙な違和感を覚えながら池田は頷く。

 この後、でも、彼はいい人なのとか言い出したら目も当てられないぞ?


「俺さ」


 溜息混じりで口を開く矢田に、池田は凍りついた。

 待て。急に雲行きが怪しくなってきたぞ?

 これは、言ってしまう。

 でも、彼はいい人なの。私がいないと、ダメなの。

 と言う、定番のクソカップル用語が……!

 伊吹先輩と矢田先輩だぞ!? あり得るはずが……。

 いや、待て。だが、前から二人の関係には疑惑がついて回っていた。なんせ、伊吹のバグった距離感を嫌がらない矢田だ。側から見て、定番のクソカップル用語が飛び出さない前からクソカップル並みのウザさはあった。

 もう、お前らが付き合えば? と、言いかけた言葉を池田は少なくとも五百回ぐらいは今日まで呑み込んでいる。

 だから、おかしくはない。

 いや、寧ろ、おかしくなさ過ぎるのだ。

 行きつけのバーにいる二人を知る全員が、矢田の言葉に息を止める。

 まさか?

 いや、でも、まさか!?

 でも、この二人なら……!

 いや、でも!

 このバーにいる客全員に言いようが無い不安の種が、拡散されていく。


「……ちょっと、待ってください。俺、二人の後輩としての心の準備が!」

「いや、お前には言っておいた方がいい。聞いてくれ」

「いやいやいや!? 俺、結構、マジで矢田先輩のそんな話聞きたくないし、想像したくないし、いや、しなくてもいいかもしんないっすけど、俺、伊吹先輩と来週会う予定あるし、無理ですって! 今は無理ですって!」

「今まで、お前に隠してたんだが……」

「矢田先輩、あかんですって! あかんですって! それは! 心の中に一生秘めてて下さいよ! マジで!」


 二人の関係なんて、知りたくもなければ深く考えたくもないし、何より、先程まで彼女が欲しいと叫んでいた男が何を言うのか。

 

「俺さ、伊吹の携帯もSNSも全部拒否してんだよ。そもそも、何一つ教えて無いはずなのに、何であいつ知ってんの? と言うか、何台携帯持ってんの? 拒否しても拒否しても掛かってくんだけど……」

「ひぇ……」


 池田が想像以上の矢田の言葉に悲鳴が上がる。


「この前、拒否ってる電話の一覧みたら百二件あって、全部伊吹の電話だったんだよ」

「ひぇ……」

「しかも、出るまであいつかけるじゃん……」

「ひぇ……」

「それでもシカトしてたら、会社の前に赤い跳ね馬をピタ付けで待ってるんだけど」

「ひぇ……」

「お前、伊吹にそんな事された時どうしてんの?」


 お前も伊吹と仲良いもんな。

 そう言ってくる矢田に、池田は優しく肩を叩いた。


「今日、俺、ここ奢るんで好きなだけ飲んでください。タクシー代も持ちますよ」


 あり得ないが、もし矢田が無事伊吹から逃げられて次の標的が自分になってしまったら……。

 そんな不安の種がに心芽吹いてしまった池田は矢田に精一杯の慈愛の笑顔でもてなす事を決めた。

 今日はたからないし、金も借りない。


 だから、お願いです。先輩。

 何時迄も、伊吹先輩と仲良くしてあげてください……。


 そう細やかに願う池田の携帯に、伊吹から数百通の着信があった事をこの時はまだ誰も知らないのであった。

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